43遭遇
何も、する気が起きなかった。
すべてが色あせて見えた。どうでもいいと、そう思った。
ベッドの上にごろりと転がりながら天井を見上げる。瞳に差し込む陽ざしがまぶしくて、腕で目元を覆う。
いつまで、そんな風に続けるつもり――北条さんの声が耳の奥で木霊する。
その声を忘れるために、私はぎゅっと目元に力を入れる。
忘れろ。忘れてしまえ。気にしなくていい。
だって、北条さんは何も知らない。私の状況を、私の苦しみを、何も知らない。
回帰、巻き戻し、あるいはタイムリープ。
久徳くんの告白の瞬間を私が何度も経験していることを北条さんは知らない。知っているはずがない。だって、当の本人である久徳くんさえ知らないのだ。その場にいなかった北条さんが知っているはずがない。
それに、私だって、これまでのあのおかしな出来事は全部夢だったんじゃないかって、そう思いたい。
わかってる。あれは現実だった。私が、あんなにも真剣な顔をした久徳くんを思い浮かべられるはずがない。耳に届く言葉は、確かに存在した。
私たちは、恋人にはなれない。仮に私たちが両思いだとしても――ううん、両思いだからこそ、この恋はきっとかなわない。
だって、久徳くんが私に“恋に落ちて”しまったら、きっと時間が巻き戻ってしまうから。どこまで巻き戻るかはわからない。例えば、付き合ってからしばらくしたタイミングで久徳くんが私を好きになったとして、そのほんの少し前に巻き戻るだけに終わるかもしれない。私たちは恋人関係のまま、けれど久徳くんは私に惚れないルートを進む。
そうして、恋人関係を続けられるのならいい。でも、恋人になるという選択をしたその前に戻ってしまう可能性もある。こんな超常現象に、ルールなんて考えるほうがばからしい。
あるいは、私が付き合おうと、そう告白した瞬間に回帰が起きるかもしれない。立ったそれだけで、久徳くんは一線を越えてしまうかもしれない。私を、異性として好きになってしまうかもしれない。
――ああ、無理やり思考をこねくり回すのはやめよう。
現実を見るんだ。
わかってる。
これだけいろいろと考えながら、結局行きつく答えは一つなのだ。
つまり、私は怖いのだ。
もし私が告白して、回帰して、その事実がなかったことになったら。
私はたぶん、死を選ぶ。
このわけのわかない状況から、この世界から、逃げ出そうとするだろう。そう、確信していた。
この世界は生きづらい。この家は、私が生きていく場所じゃない。
救いなんてない。温かみなんてない。私を守護してくる神なんていない。ただ、私を呪う何者かが存在するだけ。
――それとも、この拷問じみた繰り返しが祝福だとでもいうのだろうか?
だとすれば笑うしかない。神様は人間のことを何一つ理解なさっていないのだと、あきらめとともに受け入れるしかない。
私の人生はすでにくるっている。いつまで、この呪いのような状況は続くのだろうか。
タイマー設定にしていた空調は気が付けばとっくに稼働をやめており、部屋はひどく蒸し暑くなっていた。
噴き出した汗がTシャツに張り付く。ああ、不快だ。
暑さを思い出せば、途端に強い喉の渇きが襲ってきた。
けだるい体に鞭打って起き上がる。服もだけれど布団も汗で湿っていて、私が転がっていたところが変色していた。
シーツを洗って、布団を干さないと。でも、面倒くさい。
何もする気が起きなかった。本当ならずっと転がっていたかったけれど、喉の渇きを我慢しているほうが疲れる。それに、こんなことで熱中症で倒れるなんてことになったら本当に馬鹿馬鹿しい。
ダイニングに入ればわずかな冷気が肌をなでる。ついさっきまで冷房がついていたらしい。
空気に、わずかに油の香りが混じっていた。お母さんが昼食を食べたのだろうか。私には、何の話もなく。
まあいつものことだ。今更それに何かを感じることはない。うん、大丈夫だ。
ダイニングから続くキッチンに向かう。冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注ぐ。冷たいお茶は、あっという間に私の口の中に消えた。
もう一杯お茶を飲み、それから昼食をどうしようかと、改めて冷蔵庫を開ける。
消費しないといけない生麺の類はない。というか、冷蔵庫の中身がスカスカだった。肉の一つもありはしない。調味料ばっかり。
野菜室も似たり寄ったりな状況で、日持ちしそうな人参が一本転がっているばかりだった。
と、その時ダイニングの扉が開く音がした。誰かが――お母さんが部屋に入って来る。何の用だろうとそう思いながら野菜室を閉めて。
肩を、強く押された。
突然のことにバランスが取れず、私は膝から床に倒れこんだ。
何が起きたのかわからずにいると、お母さんは冷蔵庫から保冷剤を取り出し、そのまますたすたと部屋からから出ていった。
「……はは」
乾いた笑い声が喉から漏れる。一瞬、それが自分の声だと気づけなかった。
だって、その声にはあまりにも感情が感じられなかったから。心の中で渦巻く感情は、声に乗ることもなかった。
狂ってる。お母さんも、お父さんも、この家も――私も。
みんな、みんな狂ってる。みんなおかしい。おかしいよ。それとも、おかしいと思う私がおかしいの?
返事なんて帰ってこない。心の声が誰かに伝わるはずもない。
私の心が答えを告げることもない。
心はぐちゃぐりゃだった。気持ちが悪かった。
よろよろと立ち上がって、シンクに身を乗り出す。
こみ上げるのは胃酸ばかり。そういえば、昨日の夜から何も食べていなかった。
涙がにじむ。どうして私はこんなに苦しいのだろう。こんなに苦しまないといけないのだろう。
ぐちゃぐちゃの心を抱えて、私は家を飛び出した。
行く当てなんてなかった。財布すら持っていない。
ただ、これ以上あの家にいられなかった。いれば、どうしようもなく私が壊れてしまう気がした。完全におかしくなってしまった。
お母さんにとって、私はもう、いない存在なんだ。花奈と違って何も秀でたところなんてない私は、二人にとっての子どもじゃないんだ。
不思議と、涙が流れることはなかった。たぶん、私はもうとっくにそのことに気づいていた。お母さんとお父さんの意識が私に向いていないことに気づいていた。だから、それを改めて受け止めても、涙が流れることなんてなかった。
ただ、苦しかった。どうして苦しいのか、お母さんにいない者のように扱われたからじゃない。これからもあの息苦しい、コンクリートの牢獄の中に生きるというのが耐えられそうになかった。
早く、家を出たい。あの家から消えてしまいたい。でも、どうすることもできない。私に行く当てはない。
ゆっくりと足が止まる。かなり走っていたのか、ひどく息が切れていた。
膝に手を置いて呼吸を整える。額から、あるいは髪を伝って流れ落ちた汗が、ぽつり、ぽつりとアスファルトを黒く染める。
視界がにじんだ。私は、泣いているのだろうか。
「ナッツー?」
幻聴が聞こえた。聞きたくない声だった。こんなところを、見られたくはなかった。
でも、私は気づけば顔を上げていた。
光がきらめく先に、野江が立っていた。




