42報告
久しぶりにぐっすりと眠れた。
眠れずに気づけば明け方ということも、太陽が昇る前に目を覚ましてしまうということもなかった。
それどころか、目を覚ませば時計はすでに正午を過ぎていて、一瞬針が止まっていいやしないかと疑った。
しばらくベッドの上でぼうっとしてから、枕元に置いてあったスマホに手を伸ばす。久徳くんから連絡が来ていないだろうか――浮足立つ心を自覚しながら画面を見た私は、そこで動きを止めた。
浮ついた心は、すぐに静まった。
『話したいことがある』
それは、北条さんからの連絡だった。
数度メッセージをやり取りしてから、私は昼食も食べずに家を飛び出した。
北条さんとの待ち合わせは学校だった。家の方向がてんでちがうから仕方がない。
夏休み初日だというのに、私は制服を着て電車で揺られることになった。
昼過ぎという時間だからか電車の本数は少なくて、暑い中ホームで二十分ほど電車を待つことになった。ようやく来た電車に乗り込んで腰を下ろす。すうっと汗腺が閉じていくような感覚を覚えながらハンカチで汗をぬぐう。
電車の天井からぶらさがる広告をぼんやりと眺めながら、別に学校で会う必要なんてないことに気づいた。学校付近にだって話をできるような店の一つはある。そこで話をするのではだめだったのだろうか。そうすれば制服を着る必要なんてなかったのに。
揺れる電車の中、肌に張り付くシャツの不快さに顔をしかめながら、私は北条さんの話題は何だろうかと考え続けた。
学校のホームには、午前中に部活動をしていたらしい部服姿の生徒の集団があった。彼らと入れ違いで電車を降りた私は、まっすぐに学校へと向かう。結局、学校ではなくて近くのファミレスあたりで集まろうと連絡することはなかった。
すでに制服を着てきてしまっているからいまさらだ。
校門をくぐって土間で靴を脱いで、そこでようやく、昨日上履きを持ち帰ったことを思い出した。少し滑るけれど靴下のままで教室に向かう。
静まり返った人気のない教室は、まだ昼頃だけれどひどく不気味に見えた。どこか寂し気な空気に包まれた廊下を一人歩く。
グラウンドでは野球部が声を張り上げている。遠く、別の校舎を使って練習をしている吹奏楽部の曲が聞こえてくる。高らかに音を響かせているのはトランペットだろうか。
教室の扉は閉じられていた。
わずかな期待とともに扉を開いて、けれど昨日までのように冷気が肌をなでることはなかった。
教室は冷房がついていなくて、その代わりに窓がすべて開け放たれていた。扉を開いたからか風の流れ道ができて、熱風が私の髪をもてあそんで廊下へと流れていく。
昼下がりの日差しを遮る薄いカーテンの向こうに北条さんはいた。
私が来たことに気づいているとは思うけれど、北条さんがカーテンの向こうから出てくる気配はない。
風によって大きくカーテンがめくれ上がる。その向こう、開かれた窓のサッシに頬杖を突く姿が見える。
その隣りへと歩み寄って、同じようにアルミサッシに手をつく。
その先にはすでに見慣れてしまった街並みが広がっている。グラウンドは廊下側。生徒の姿も見えないその景色の何を見ているのか、そう思いながら横を向いて。
私を見ていた北条さんと目があった。
その目は、気のせいでなければ少し充血しているように見えた。まるで、泣きはらしたかのよう。
北条さんが、私を呼び出した。そのことに強い意味を見出さずにはいられなかった。真っ先に考えられるのは、彼にかかわること。
「……あたしは、さ」
腰を曲げ、窓枠の上で組んだ腕の上に顎を乗せる。細めた目は私を見ることはない。
「負ける気なんてなった。勝つつもりで、好きになってもらう気でアプローチをしたさ」
でもだめだった――ため息交じりに告げて目を閉じる。
教室に吹き込む温風が大きくカーテンを揺らす。北条さんの長い髪が、横にいる私の頬を撫でる。片手で髪を抑えた北条さんは目を開けることなく続ける。
「好きだった。振り向いてほしかった。あたしだけを見ていてほしかった。……あたしは千尋が好きだった。いいや、違う。今も好きだ」
断言する声は震えている。唇をかみしめて、黙り込む。
一瞬、ここに私はいないんじゃないかなんて、そんなおかしなことを思った。北条さんは独り言を言っているだけ。私は、なんの言葉も求められていない。ただ、サンドバッグのような、言葉を投げつける先が欲しかっただけなんじゃないか。
――違う。
「……知ってたよ」
だろうな、とささやく。
北条さんは、久徳くんが好きだった。好きになったその瞬間を、私は見ていた。
あの日があったからこそ私は、ほかの誰でもない久徳くんが恋に落ちることが私の回帰の原因になるんじゃないかと考えるようになった。……それは、救いがなさすぎるとも思う。
んん、と小さく体を伸ばした北条さんが、勢いよくカーテンを開く。窓に背中を向けてもたれて、横目で私を見る。
「近藤は?」
「……何?」
「近藤は、久徳のことをどう思ってる?」
ごまかすことはできなかった。そんなことは許さないと、北条さんは険しい顔で私を見ていた。
「……私は、」
一度目を閉じる。口にしてしまったら、もう引き返せない。だから、口ごもる。
そんな私を見る北条さんは目を細めて、そして。
「ふざけないでっ」
胸元をつかんで北条さんが叫ぶ。怒りに顔を染めて、息を荒らげた北条さんの威圧に呼吸が止まる。
「なんで……」
「あたしは告白したわよ!そのうえで振られたの。それなのに、まだ踏み出さないの!?ずるずると関係を続けるの?いつまで、そんな風に続けるつもり……?」
悔しくて仕方ないと、吐き出すように告げる。目には涙が浮かんでいた。
そんな北条さんを、私はただ茫然と見つめていた。
「……もう、好きにすればいいわよ。このまま踏み出すこともできず、ずるずるとやって入れば?」
このまま、ずるずると。何もできず、関係を進めない。
あざ笑うように口の端を吊り上げる。
「近藤も振られてしまえばいいのよ。千尋と進展できず、苦悩しながら時間を浪費すればいいのよ。……何か、言ったらどうなの?」
「…………」
何を言えというんだろう。何を、言わせよというんだろう。
……本当は、わかっている。一歩を踏み出せと、関係を進めて見せろと、そう言っているんだ。
でも、そんなことできるわけがない。踏み出して、それはきっとすべて徒労に終わる。
だって、理解できない超常現象が起きてしまうはずだから。覚悟を決めて告白して、それがすべてなかったことになったら、私はきっともう何もできなくなる。
……そんなことを、私は久徳くんにしてしまっている。私のせいで、久徳くんは傷つき、しかもそのこと自体を忘れてしまっている。
深いため息に肩が跳ねる。気づけば振り向いていて、恐る恐る顔を上げる。
「もう、好きにすれば」
突き放すような言葉とともに、北条さんが去っていく。
私は、ただ茫然と立ち尽くすばかりだった。
「どうしろっていうの……?」
答えは、どこにもない。誰にも分らない。




