40終業式
長い式が終わり、喧噪とともに列を作って教室へと向かう。
聞こえてくる話題は、話す内容は、どれも明日からの夏休みのこと。まあ、中にはこれから受け取ることになる通知表が怖くて仕方がないとぼやく友人もいた。なんでも5段階の成績の2がひとつでもあったら、夏休みの間スマホでゲームをできなくされてしまうらしい。
安心フィルターなんて掛けさせないようにすればよかったとボヤいているけれど、それよりももう少しだけ勉強すればよかっただろうにと思うのは、僕がまじめだからじゃないはずだ。だって彼はテスト週間で部活動がないテスト前の一週間を、ひたすらゲームをして過ごしたと豪語していたんだから。
うだるような暑さに包まれた廊下を進む。
扉があきっぱなしになっていた教室からはすっかり冷房の冷気は消えてしまっていて、窓を閉め切っていた部屋は廊下よりも蒸し暑さが感じられた。
冷房をつけたばかりの教室。近くの窓を開けてから席に座るけれど、残念ながら心地よい風が入ってくることはない。
むわっとした湿度の高い暑苦しい風が頬を撫でる。
これなら窓を閉めているほうがましだった。
再び立ち上がって窓を閉めているところで、すぐ後ろで椅子を引く音がした。振り向けば、近藤さんが席に座って、頬杖を突いてぼんやりと教室前方を見ていた。
まだ担任はいない。今ならチャンスかと、そう思って、ポケットに手を入れて。
そこに目的のものがないことに気付いて、鞄をあさる。
ようやくスマホを取り出したところで担任の先生が入ってきて、慌ててスマホをポケットにしまった。
廊下に出た担任を追うように、出席番号一番のクラスメイトが扉の向こうに姿を消す。順番に通知表を受け取っては部屋に戻ってくる。扉を開いたクラスメイトの頬が緩んでいるのは、成績ではなく教室の冷気のおかげだろう。
気づけば蒸し暑かった部屋の中は、再び心地よい室温に戻っていた。
僕の前の出席番号の人が廊下に出て行ったところで立ち上がって教室前方、扉の前に向かう。
「千尋は自信ありそうだな」
「そうでもないよ。特に英語と地理が微妙かな」
「俺の英語に比べればましだろー?」
すでに通知表を受け取った友人が、ひらひらと僕に紙面を突き付けてくる。小学校中学校とは違って、この学校の通知表はただのコピー紙だ。厚紙ですらない。
「……すごくきれいだね」
「まあなぁ」
どこか誇らしげに告げるけれど、その成績は誇らしいものではないと思う。
きれいに3が並ぶ通知表なんて初めて見た。普通は得意科目の一つや二つは成績が良くて、逆に苦手科目は成績が悪いものだよね?全部きれいに同じ値って、狙ってやったとしか思えないよ。
そんなことを考えているうちに扉が開いて、僕は入れ違いで廊下に出た。
成績は、可もなく不可もなく。個人的にはもう少し上を目指せたかもしれないと思う。特に副教科の成績が思ったより良くなかった。筆記テストがあった科目は多少巻き返せたけれど、実技評価の割合が大きい科目は微妙だった。
通知表を見ながら教室に入れば、すれ違い近藤さんが廊下に出る。扉が閉まるまで、僕は彼女の背中をぼんやりと眺めた。
「……どうした?そんなに成績が悪かったのか?見せてみろよ」
「恩田君よりはよかったよ」
「……だなぁ」
つまらないとばかりに舌打ちをする彼の手の中から自分の通知表を回収して席に向かう。その途中で友人と結果を話していれば、すぐに近藤さんも教室に戻ってきた。
二人、ほとんど同時に席に座る。
僕たちに意識を向けている人はいない。成績と夏休みの話をしているクラスメイトの話し声を聞きながら、今がチャンスなんじゃないかと思った。
近藤さんに、聞きたいことがあった。話したいことがあった。それは、飯星君から聞いたことの確認であり、体調の心配だった。
テストの日、僕は近藤さんの家庭の事情について少し飯星君から聞いた。
双子の姉がいたこと。姉が亡くなってしまったこと。家が、針の筵であること。
奈津じゃなくて、どうして花奈なの?――彼女の親が告げたという言葉。飯星君の声が、僕の中で響く。
ひどい言葉だった。許せないと、義憤にかられた。
親が、親だからこそ、そんなことは決して言ってはいけなかった。それを聞いた近藤さんがどんな気持ちだったか、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。
前。座る近藤さんは、体を小さくするように背中を少し丸めている。それはまるで、丸まって身を守るダンゴムシようで。殻に閉じこもって耐え忍んでいるように思えた。
その背中は、ひどく寂しげに見える。一人教室に座る彼女が、友人たちと夏休みの話に花を咲かせることはない。ただ早く時間が過ぎてと、そんな言葉が聞こえた気がした。……ううん、違う。絶望しているんじゃないだろうか。
だって、夏休みが来てしまうから。家で過ごす一か月がやってくるから。
近藤さんにとって、多分家にいるということ自体が苦痛なんじゃないだろうか。だから、六月ごろには少し顔色がよくなっていたのに、最近ではまた目の下に濃いクマを作ってしまっているのだろう。
何か、僕にできることはないか――考えてすぐに思いついたのは、近藤さんを家から連れ出すことくらいだった。
どこかに、遊びに誘えばいいんだ。でも、僕は近藤さんとの連絡手段を持っていない。だから夏休み前に連絡先を交換しておかないといけない。
このクラスは全員のトークグループがない。あるのは女子のグループと、男子の小グループがいくつか。別に仲が悪いというわけではないけれど、率先してみんなをまとめてグ連絡ループを作るような人がいなくて、ずるずるここまで来ていた。
連絡手段を教えてもらって、彼女と遊びの誘いをする。先生がいないこの時間がチャンスだ。こっそりと声をかけて、素早く連絡先を交換して、終わり。
それだけ。たったそれだけなのに、僕は近藤さんに話しかけられずにいた。
すぐ目の前にある背中が、ひどく遠かった。
握りしめていた手のひらの中はひどく汗ばんでいた。声をかけようとして、言葉は出なくて、口を閉ざして。
そうしているうちにどんどん通知表の配布は進んでいく。
話さないといけない――どうして、しないといけないのだろう。義憤に駆られているから?近藤さんがかわいそうだと、なんとかしてあげようと思うから?
「……ぁ」
先生が、出席番号最後の生徒に続いて教室に戻ってくる。
そうして僕は近藤さんに声をかけられないまま、大掃除が始まった。
「大掃除でトイレ掃除とかツイてないよなぁ」
ぼやく友人に苦笑で同意しながら掃除を進める。教室とか特別活動室の掃除のほうが楽だし、普段はやらないようなことをするから、正直楽しかったりする。ただ、トイレ掃除が楽しいなんてことはない。
だらだらと掃除を進めていく。大掃除だからと特別なことはしない。いつものように掃除を終えて、我先にと同じ班の男子が教室に戻っていく。
手を洗い、そっと手を顔に近づける。さび付いたモップを握っていたせいでまだ少し鉄さびのにおいがした。
再び液体せっけんを手のひらに押し出して念入りに手を洗いながら、頭では近藤さんのことを考える。この後、下校中に連絡先を聞こう。大丈夫、別に気負う必要なんてない――
ふと、見上げた先にある鏡に映った自分の像と目があった。
――僕は、別に近藤さんが好きなわけじゃないよ。
いつだったか、祈に告げた言葉が、耳の奥でよみがえった。鏡の中の僕が話したように思ったけれど、さすがに気のせいだった。
同時に、目の前の像が揺れて、あの日の祈の顔に変わる。
『千尋、あたしを見て』
強い熱を宿した瞳が、まっすぐに僕を見ていた。逃げることを許さないというような、強い輝き。それを思い出したのは、話の流れからであり、そして鏡に映った僕の目が理由だったのだと思う。
鏡の中。まっすぐ僕を見つめるその像の瞳には、強い輝きがあった。何かを、求めるような光。
何か――って、何?
「……っ」
小さく目の奥が痛んだ。考えてはいけない――そう警告するようだった。
「考えちゃダメって、なんで?」
ささやくように問いかけるけれど、頭の中の僕も、鏡の向こうの僕も、答えをくれることはない。
しばらくじっとしていれば痛みは治まった。再び鏡を見れば、そこにはどこかぼんやりとした目をした僕が映っていた。
ぞくりと背中に冷たいものが走った。
気づけば、僕は逃げるように鏡から目を背けてトイレから飛び出していた。




