39悪魔
会長が進む方向には、なんとなく覚えがあった。一本裏の道に入った瞬間に、私の予想は確信に変わっていた。
会長が向かったのは野江が気に入っている喫茶店だった。入口が狭くて奥行きのある、どこか隠れ家を思わせる。
小さなベルの音が鳴る。冷房の心地よい空気が体を包む。汗をかいているせいか、あまり長いこといると風邪をひいてしまいそうだった。
「いらっしゃい」
おや、とマスターの灰谷さんが私と会長の間で一瞬視線を行き来させる。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
「……こんにちは」
なんとなく居心地が悪くて、少しだけ体を小さくしながら会長について行ってテーブルへと向かう。この喫茶店でカウンターではなくテーブル席を利用するのは久しぶりだった。いつもカウンターが開いているし、なんとなくカウンター席を利用するのが常だったから新鮮さがあった。
今日は私たち以外にお婆さんが二人、奥のテーブルでにぎやかに話しているだけだった。
汗臭くはないか気になりつつも、私は会長の対面に座る。
運ばれてきた水を一息に飲み干せば、グラスの中で氷がカランと涼しげな音を立てる。
「ブラックコーヒーでいいかしら」
「あの、お金が……」
「私が払うから気にしなくていい」
お金を使う予定なんてなかったから手持ちがなくて会長に払ってもらうことになってしまった。これは、後で返すべきだろうか。
「ありがとうございます。……ブラックでお願いします」
早速注文をした会長が、グラスに口をつける。
手持無沙汰のままじっと会長を見ていれば、「どうしたのか?」と視線が向けられる。
「ええと……会長って、このあたりに住んでたんですね。全然知りませんでした」
「そうだな。中学が違うし、帰宅時間がかぶらなければ意識もしないか。ところで、近藤はここへよく来るのか?」
「よく、って程ではないです。友人と一緒に、数か月に一回くらいだと思います」
一人で足を運ぶほど、私は喫茶店が好きじゃない。別段コーヒーが好きというわけでもないし、一杯数百円するコーヒーのために通うのはお財布的にも厳しい。
そんなことを理解したのかどうか。会長は納得したように何度かうなずいて見せる。
「なかなか渋い趣味を持った友人がいるんだな」
「こういうお店の、趣が好きらしいです」
「君自身はどうなんだ?」
「落ち着くとは思います。ただ、少しこう、背伸びをしていうような気がするというか……」
「背伸び、か。それなりにこの空間になじんでいると思うがな」
そう、なのだろうか。自分ではあまりよくわからない。
ただまあ、姦しく話をしているお婆さんたちに比べれば、私のほうがこの静寂になじめているよな気がする。
運ばれてきたコーヒーカップを両手で包むようにもって、そっと香りを吸い込む。黒々とした水面に口をつけ、少しだけ口に含んで、落ち着いた店内の空気をかみしめるように楽しむ。
少し効きすぎじゃないかと思った冷房は、けれど喉を通ったコーヒーの熱のおかげで程よいものに変わったように思う。
「……それで、何か話があったんですか?」
会長がカップから口を話したところで声をかける。ただコーヒーをごちそうする、あるいは自分が気に入っている店を教えるというわけじゃないだろう。そもそも私は会長と話したことなんて一度きりしかない。
……ああ、そうか。球技大会のあの日、会長に言われた言葉がやけに強く記憶に残っていたから、私は会長についてここまで来たんだ。
――良くない星の下にいる。
そんなことを言っていた。その真意を問う前に会長はあわただしく去って行って、私は取り残されてしまった。その記憶も、けれどそのあとの久徳くんに感じた強い感情によって薄れてしまっていた。
今、この時までは。
「……そうだな。私は霊感が強い、と言ったら信じるか?」
東雲会長の口から「霊感」などという言葉が告げられるのがすごく不思議な気がした。そもそも、不思議だと思えるほど私は会長のことを知らないのだけれど。
「それって、幽霊が見えるってことですか?」
「その理解でも間違いではないが、この場合はオカルトの手合いに触れることが多いという、もう少し広い範囲での話だな。例えば妖怪とか、精霊、幽霊、占い、そんなもののことだ」
「見えるんですか?」
「見えるというよりは、感じるといったところか?直感的に、そういう存在を認識するんだ。私の家はそういう変わった人が多くてな。血筋なんだろう」
「……その感覚が、私に反応しているということですか?」
声は、少しだけ震えていた。怖いと、そう思った。同時に、わずかな希望も感じていた。
会長に私はどう見えるのか。どのように感じているのか、それを聞くのは不安で、けれど自分ではどうしようもないこの身に起きている不思議な現象の解明につながるのであれば、聞かないわけにはいかない。
暗闇の中に一筋の光が見えたような気持ちで、私は会長の言葉を待つ。
「君の場合は、精霊というよりは妖怪、あるいは怨霊よりだな」
「怨霊……恨みを持っている死者が、私にとりついているということですか?」
もしそうだとしたら、心当たりがないわけじゃない。どうして私を恨んでいるのか、それはわからないけれど。
「……いや、少し違う。こう、君の体に残り香のようなものが存在するような感じだ。気配はそれほど濃くなくて、けれど鳥肌が立つくらいには強烈で独特な気配をしている。……君は、私の話を笑わないんだな?」
「……そう、ですね」
まったく笑えなかった。そんなオカルトはありえないと、馬鹿にすることもできなかった。
だって、私は現実に経験しているから。この不思議な体験は、確かに現実に起きている。
この苦しみは、幻想なんかじゃない。
「……詳細は話せない、か」
「…………ごめんなさい」
「いいや、誤ることはない。そうか、心当たりがあるのか」
ふぅ、と息を吐きながら会長が背もたれに体を預ける。少しだけ力を抜いた彼女が、壁にかかった古時計を見る。長く居たような気がしたけれど、まだ店に入ってから十分しか経っていなかった。
入口の窓ガラスから差し込む光はまだまだ強い。
ふるりと、小さく体が震えた。服が吸った汗が冷えて、寒かった。
再び私のほうへと視線を戻した会長が、鋭く目を細める。その視線にどこか責めるような気配があったような気がしたのは、ただの気のせいだったのだろうか。
「ところで、怨霊のような何かって、具体的に何ですかね?」
鳥肌が立つような異様な気配。それを、会長は私に感じているという。その気配はたぶん、回帰の瞬間に濃くなるのだろう。
「そうだな……悪意のような、邪気のような……ただ、文字通りの“悪”というわけでもないような……感覚としては悪魔が一番近いんだがな」
首をひねる会長の言葉には、普段集会などで聞いている声にこもっている自信がかけらも存在しなかった。思い出すように天井を見上げる会長は、やっぱり悪魔が一番違い、とうなずきながら繰り返す。
「悪魔……」
「契約によって人を堕とす存在だ。契約によって悪魔に魂を売ったものは地獄に落ちるとか、悪魔に魂を食われるとか、いろいろと言われるがな……私の知人、家族にも悪魔に魅入られた人間がいた」
「悪魔に、魅入られた」
「彼女は私のいとこでな。同じようにオカルトに強い血を引いていた。彼女はオカルトに傾倒していた。そのうちに悪魔召喚を始めとする魔法陣に集中するようになった。そうして気づけば、彼女は別人になっていた」
「別人……こう、魂を抜かれてしまって、廃人になった、みたいな感じですか?」
「いいや、廃人とはむしろ逆だ。彼女は非才な存在になっていた。あるいは私が嫌いな“天才”という言葉がふさわしい人になっていた。もともと、彼女は運動が苦手で、休みの日には家の外に出ることもないような人だった。それなのに気づけば学校一の運動能力を身に着け、学年一の頭脳を得て、誰をも虜にするような社交性を手にしていた。その変わりようはひどく不気味だった。とてもではないが、ただの努力で得られる限界を超えていた。目の前にいる彼女が本当に私の知っている彼女と同一人物なのかと、疑わずにはいられなかった」
「……努力で得られる限界を超えた、天才」
天才――天賦の才を与えられた人。その言葉に、花奈を思い出したのは偶然だろうか。
「それで、彼女はどうなったんですか?」
尋ねれば、会長は苦虫をかみつぶしたような顔をして口ごもる。すっかり湯気が消えたコーヒーを一口飲み、目を閉じる。決意を決めたような目が私を映す。
「……彼女は、消えた。ある日ふっと、霞のように姿を消して、それきりどこに行ったのかわからない。今も生きているのか、それとも死んでしまっているのか、何も、な」
警察に相談しても、目撃情報を集めて捜索しようとしても無駄だったと、どこか声を震わせながら語る。その目に宿るのは恐怖であり、あるいは悲しみ。
そうして、会長のいとこはどこかへ消えた。死んだのか、生きているのか、それすらもわからない。
普通に考えれば家出が近いと思う。でも、会長の話を聞いて、普通にどこかで暮らしているとは思えなかった。
何かが、闇の奥底で私を見ているように思えた。這い上がる恐怖がのどまでせりあがる。
それを押し込むようにコーヒーを胃に流し込んだ。深い香りのそれは、ひどく苦く感じた。
結局、それからしばらく、私たちは何も話さずに、ただ流れるクラシックに耳を傾けていた。
感じた肌寒さは、きっと冷房だけのせいではなかった。




