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人が恋に落ちる瞬間を見たい  作者: 雨足怜


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38/49

38誘い

 だらだらと学校で時間をつぶして、下校時刻に家に帰る。

 あと二日で終業式。目前に迫った夏休みに、私はただただ憂鬱だった。

 学校に行かない。朝早くに起きなくていいこと、炎天下の中で満員電車に乗って学校に行かなくていいこと。そういう良い点が思い浮かばないわけではない。

 けれどどうしたって、学校がなければ家で過ごす時間が増える。その時間が、苦痛で仕方がなかった。

 冷え切った空気、関わりのない日々。会話の一つもなく、静まり返った食卓。特にお父さんが飲み会などで早くに帰ってこない日は最悪だ。お母さんと二人並んで食事をするその時間は、私が最も早く過ぎ去ってほしいと祈る時間だ。

 下校中、家に近づくほどに足が重くなっていく。肩を少しずつ何かが推しているように感じる。

 苦しくて、胸元の衣服を軽く握る。気持ちが悪いのは、間違いなく暑さとか脱水症状のせいではなかった。

 同じような外見の建物が並ぶ町の一角に、レンガ調に塗られた一軒家が見えてくる。その家は壁がレンガ色と明るめのベージュ、屋根は深緑色で塗られている。明るい見た目のはずなのに、夏の日差しの中に見えるそれはひどく色あせて見えた。

 まだ、塗り替えてから三年ほどしか経っていない。

 玄関扉へと続く階段にはプランターが並んでいる。以前は季節の花が咲き誇っていたそこは、けれど雑草の群生地になっていた。

 夏真っ盛り。大きく葉を広げて太陽を浴びるその雑草に、家の生命だとか気力だとか活気だとか、そういうものが吸われているんじゃないかと思う。

「……ただいま」

 か細い、聞こえないくらいの声で告げながら、私は静かに家に入る。お母さんの靴はない。車はあったから、多分自転車で買い物にでも行っているんだと思う。

 思わず大きなため息がこぼれた。少しだけ体から力が抜けた。

 手洗いうがいを済ませて自室に向かう。誰もいない部屋は開放感があって、少しだけ落ち着ける場所だった。

 部屋に戻って鞄を置いて、そこで玄関扉が開く音が聞こえてきた。ただいまの声はない。ただ、ビニール袋がこすれるような音がしていた。

 お母さんが返ってきた。そのことに、ひどく心が重くなった。……もう少しだけ返ってこなければよかったのに。

 制服を脱いでハンガーにかける。着替えをあさり、なんとなくジャージを手に取る。

 外はまだ日差しがきつい。日が暮れるまであと数時間は有りそうだった。

 でも、このまま家にいるよりはよっぽどまし。そう思いながら私はジャージに袖を通して、長袖長ズボンに身を包む。

 ポケットに玄関のカギを入れる。

 お母さんがキッチンで冷蔵庫に買ってきた食材を詰めている音を聞きながら、足音を立てないように玄関を出た。

 ミッションコンプリート。厳しい陽射しにくらんだ眼も次第に落ちついてくる。黒のジャージは太陽の光を吸って、すぐに汗が噴き出す。

「……はぁ」

 ランニングの開始にはひどく似合わないため息とともに、私は逃げるように走り出した。

 中学生の頃は、時々こうして走っていた。その日課も、もうしばらく行っていなかった。

 昔は夜か、朝早くに、一人で町を走った。アスファルトを踏みしめる感覚、頬を撫でる風、肺いっぱいに吸い込んだ朝の冷たい空気、流れ落ちる汗。

 五感が刺激されるとともに、走るほどに思考が世界に溶けていくような感じがあった。まるで自分が一陣の風になったようで、どこまでも進んでいけるような、そんな気がした。

 そんな風に、なるはずだった。

 久しくは知っていなくて、運動といえば学校の体育の授業だけ。そんな日々を送っていれば当然体力だって落ちる。

 すぐに息切れした。肺活量がすごく落ちている。いつもだったら、呼吸が苦しくなるよりも先に足が少し重くなるのに。

 いつも休憩場所に選んでいた公園よりもずっと前で私は走るのをやめた。ゆっくり、止まらずに歩き続ける。呼吸を落ちつけながら、滝のように流れ落ちる汗をぬぐう。すでにジャージはひどく湿っていた。

 そのまま、生活音を聞きながら町を歩いた。厳しい陽射しを浴びながら、うだるような暑さの中を進む。時々、家の間から覗く西日が目に入ってまぶしかった。

 公園には子どもの姿はなかった。民家の隙間を縫うようにして存在する小さな公園。遊具はシーソーとブランコ、半分ほど埋まったタイヤ。ベンチに腰を下ろした高齢の男の人が持つリードの先、地面に座る犬がハッハッと大きな呼吸を繰り返しながら尻尾を振っていた。

 公園の端にある水道に行って、手に水をためて口をつける。水分補給の後、そのまま頭を蛇口の下にもっていって水をかぶった。火照った頭が、ぬるい水で冷やされていく。汗のべたつく感じが消える。

 流れ落ちる水を軽く手で絞り、手についた水滴を払う。

 伝う水のせいで襟元がひどく濡れたけれど、汗とは違ってあまり気持ち悪さは感じなかった。

 軽くストレッチをする。本当は、ここまではアップ。体は十分に温まっている。少し足が重かったけれど、もみほぐせばだいぶ軽くなった。

 何度か深呼吸をして気持ちを切り返る。浮かび上がりそうになる思考を捨て置くようにして、大きな一歩を踏み出して公園を出る。

 民家の隙間を、大通りの脇の歩道を、階段を、トンネルを、用水路にかかる橋の上を走る。見覚えのある道は、けれど少しだけその装いを変えていた。

 空地が消え、新しい家が建ち、古い家が消え、果樹がいくつも植わっていた畑から樹木が消えて「売地」と赤文字で書かれた看板が立つ。

 いつも、なんとなく選んで走っていた道が与えてくれる少しの新鮮さに顔を上げる。そうすれば少しスムーズに足が動くようになった気がした。

 ああ、そうか。私はもうずっと、うつむいたままだったんだ。

 登下校で何度も行き来しているはずの、家と駅の間の道さえも、私の記憶にあるそれとは違った様子を見せる。それは何も季節の変化のせいじゃない。ただ、私がこれまで、変化を見ようとしてこなかっただけだった。

 うつむいていた。現実から目をそらしていた。あるいは、自分の身の上に起きたことに苦悩して、自然を愛することを忘れていた。

 百日紅のピンクの花から甘い香りが漂ってくる。駅前の大きな胃腸の木は緑の葉を目いっぱい広げている。

 そんな日常の一幕にある自然を目で追いながら走っているうちに、家のことも、回帰のことも、久徳くんのことも、全部を忘れていた。

 そのまま駅を超えて、ぐるりと回って家に帰ろうと考えて。

「……あら?」

「……え?」

 押しボタン式の歩道で信号が変わるのを待っていた相手と目があった。少しだけ驚いたような声が聞こえて、その顔を確認して。気づけば私の足は止まっていた。

「……生徒会長?」

 東雲生徒会長。私と同じ制服に身を包んだ、凛と背筋を伸ばした芍薬のような立ち姿の彼女は口に手を当て、大きく目を見張っていた。

 多分、私も似たような顔をしていたように思う。

「ランニング中か?精が出るな」

「あ、はい。会長は下校、ですよね」

「ああ。今日も生徒会の活動で学校に残っていたから帰るのが遅くなってしまった。ええと、君は……」

「あ、近藤です。近藤奈津」

「近藤だな。……さて、近藤。日課中に突然だが、少し私と時間を共にしないか?」

 突然の言葉に数度目をしばたたかせ、真意を探るように彼女を見る。まっすぐに私を見つめている彼女が何を考えているのか、少しもわかる気はしなかった。

「……別に取って食おうというわけでもない。ただ、少し話をできないかと思っただけだ」

 言いながら、東雲会長は私の返事を聞かずに颯爽と歩きだす。戸惑いながらも、私は彼女の後を追って歩き出した。


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