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人が恋に落ちる瞬間を見たい  作者: 雨足怜


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31/49

31夏の夜

 カチャカチャという器にスプーンが当たる音が異様に大きく聞こえる。

 珍しくお父さんが早くに帰ってきた家の食卓は静まり返っていた。四人用の机、四脚の椅子。並ぶ食器は三つ。私と、お父さんと、お母さん。

 私の隣の席からは、まだ椅子はなくならない。きっと、これからもずっと、この椅子がなくなることはない。

 晩御飯は豚丼とみそ汁とレタス。普通に美味しい家庭料理なのだろうけれど、正直全く味がしなかった。

 三人とも、早く食べることだけを意識していた。そしてできるだけ音をたてないようにしていた。

 それが、この家でのご飯。この家での時間。

 かろうじて壊れることを免れたこの空間は、もう帰るべき、心休まる場所ではなかった。

 食器を台所に下げて、逃げるようにダイニングを出る。

 前は自分が食べた食器くらい食洗器に詰めていきなさい、なんてお小言が飛んできたけれど、今ではそれはない。むしろ、食洗器なんか触らずにさっさと視界から消えてくれといった感じだ。

 私が通り過ぎるタイミングで食べ終わったお父さんが無言で両手を合わせる。それは食後のあいさつのようで、追悼のようでもあった。

 立ち上がったお父さんと目を合わせないようにしながら、私は部屋を出る。

 後ろ手で扉を閉めたところで、息が漏れた。お腹の奥に何かがたまっているような気がした。積み重なる感情が圧迫された末にドロドロに液化して、ヘドロのようになっていた。

 こみあげようとする感情を体の奥底に押さえ込んで自室に向かう。

 眠ればいい。眠って、すべてを忘れてしまえ。こんな家のことなんて、さっさと頭から追い払ってしまえ。

 でも、眠れない。きっと今日も、私は夜に目を覚ます。ただでさえ寝苦しい夜に、満足に眠れるはずがなかった。


 ただ目を閉じて、体を休める。そうすればだいぶ体調はましになる。

 気分を変えようと、野江のことを思い浮かべる。

 久しぶりに食べたアップルパイはすごくおいしかった。あのアップルパイにはやっぱりブラックコーヒーが合う。あそこのコーヒーは酸味が少なく、濃くて少し苦く、そして芳醇な香りがする。コーヒーが好きじゃない私でも普通にブラックで飲めるブレンドだった。

 口の中に、シナモンの風味が漂った。コーヒーの苦みが、口の中に広がる。少しだけ、あの味のしない料理がごまかせた気がする。

 ああ、だめだ。また余計なことを考えてしまう。

 眉間に力が入る。

 考え事を続けて、思考がもとに戻って。あるいは考え事の内容のせいで眠気が遠ざかる。

 うとうとできたのは三時のことだった。外はまだ暗い。でも、あと一時間もせずに明るくなる。日によってはカーテンの向こうが明るくなったのを見てしまうから今日はまだましな日だった。

 夢の中、私は姉の背中を追っていた。完璧な人間。欠点のない人間。天才。

 はるか遠いその人を、いつだって私は追っていた。

 花奈。私の、双子の姉。たった数分生まれるのが早かった、それだけの存在。彼女はすべてを持っていた。

 容姿も頭脳も運動能力も社交性も芸術性も、彼女がすべてを持っていた。すべてが、一流だった。少なくとも、小学生や中学生という枠組みで測れるような存在ではなかった。

 花奈をうらやましいと思ったことはなかった。ただ、疲れそうだな、なんて思いながら見ていた。

 天才である花奈に、お父さんとお母さんはそれはもう期待した。将来は何になるのか、政治家か弁護士か、国家公務員かもしれない、あるいは女優として活躍しているかもしれない――夢は膨らむばかりだった。二人がきちんと目の前の姉を見ていたのか、私にはわからない。ただ、二人の期待はすごいプレッシャーだったと思う。

 それでも、花奈はそんなプレッシャーなんて鼻で笑い飛ばすように成果を上げ続けた。才能を開花させていた。

 でも、その才能はあっけなく散った。

 花奈は天才だった。天才は、刹那をかけて、多くのものを残して、惜しまれながらもこの世から消える。

 花奈も、その例にもれなかった。

 多くの者を悲しませ、絶望させ、苦しませ、彼女は世界を去った。

 その傷は、今も私の中にある。だって、こうして夢に見るほどなのだから。

 気づけば、彼女はどこかの駅の花壇のブロックに腰を下ろし、長い足を組んで私をじっと見ていた。

『また来たのね』

 怜悧な目を細めて、花奈が告げる。その目は、妹に向けるようなものじゃなかった。家族に向けるようなものでもなかった。

 これは、私が生み出した花奈の偶像。あるいは、私が膨らませた、未来の花奈。

『まだ、そんなところにいるの?』

 嫌味は感じられない。ただ、心底不思議だとその黒曜石の瞳が語っていた。白い肌に赤い唇が生える。薄い唇から、小さな、艶めかしい吐息が漏れる。

『まだ、って何?』

『それすらもわからないのね』

 目を閉じた花奈が足を組み替える。長くて細い脚。私とは違う。その顔だって、私とは違う。本当にお母さんとお父さんから生まれたのか、それすら疑わずにはいられない。

 あまりにも違う。本当に双子なのか、そう思いながらも、私は花奈を追って生きてきた。

 闇の中、コツコツとブーツのかかとが床をたたく。瞬間、足元が消え去り、私の体は宙に投げ出された。

『せっかくのお膳立てなのに、どうして進めないの?』

 あきれた声が聞こえた。私を見下ろす花奈の姿が遠くなる。

 何を言っているの。私は、花奈に何を言わせたいの?

 手を、伸ばした。どうしてそんなことをしたのかはわからない。ただ、心は、花奈を救わないと――そう叫んでいた。

 それが正しかったことを示すように、花奈の姿を闇が覆いつくした。

 その闇は、ひどくねばついた気持ちの悪い闇だった。

 闇は花奈を飲み込み、それから私のことも飲み込んだ。


 目が、覚めた。

 汗で寝間着はひどく湿っていた。

 タオルケットを体の上からどかし、まだ薄暗いカーテンの向こうをにらむ。

 眠れた気がしなかった。当たり前だ。時間的には一時間も寝ていない。

 外でちゅんちゅんと雀が泣いていた。早くもセミたちが大合唱を奏でていた。それとは対照的に、家の中は静まり返っている。本当にこの屋根の下に私以外にも人がいるのか――そんなことを感じるほどに、この家は静かだ。静まり返っている。

 時が、止まっている。

 花奈が死んだあの日から、この家の時間は動いていない。ただ過去を求め、過去にすがり、過去の中で生きようとあがいている。

 気が狂いそうな世界を拒絶するように、うつぶせになって枕に顔を埋める。

 冷房が全く効いている気がしなかった。首の後ろを伝う汗の気持ち悪さに顔がゆがむ。

 眠いのに、全く眠れる気がしなかった。

 諦めとともに起き上がり、勉強机の上に置いてあったパソコンの電源を入れる。

 自分の中で渦巻く感情を、文字として吐き出していく。

 カタカタと鳴り響くタイピングの音が、朝の静寂の中に消えていく。

 書き上げた短編を投稿しようか迷って、一度読み返す。そこに籠った呪詛のような感情に、強い吐き気を覚えた。

 こんなもの、誰も求めていない。私だって、こんなものは読みたくない。

 保存もしていなかったそれを閉じようとして、保存するか確認が出る。迷って、けれど気づけば保存をしていた。

 タイトルは「怒り」。

「……私は、怒っているの?」

 画面に表示されたタイトルを眺めながら自問自答する。

 当然、答えが返って来ることはない。わずかな疲労感と達成感を胸に保存を終えて、私は時計を確認する。

 もうそろそろ、登校準備を始めないといけない時間だった。


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