3下校とマナー
濃い一日が終わった。
もう一週間ほど高校生活を過ごした気になっていたけれど、まだ今日は高校生活初日。自己紹介の後、私たちは体育館に向かい、保護者同席のもとで入学式に臨んだ。
そうして、私はくたびれた足で駅へと向かっていた。
すでに両親は先に帰宅しており、私は初めて一人で下校することとなった。野江たち中学からの友人は両親と食事に行ったり、高校でできた新しい友人と帰ったりするとのことで、私は一人だった。
本当なら友人とまではいかずとも新しい知り合いがすでにできている予定だったのだけれど、おかしな出来事のせいでそれどころではなかった。おかげで高校初日を失敗に終えた――自己紹介で失敗しなかったのは良かったところだろうか。でも中学時代に自己紹介で大失敗したおかげで野江と友人になれたから、あのまま行けば新しい友人が――
記憶の中、私を励ましてくれた久徳くんの顔がちらつく。
心臓が跳ねた。
落ち着け、私。あの人はおかしい。二言三言目には告白をしてくるようなおかしな人にほだされるな。そう、神様の関係者じゃないだろうか。そう考えれば、たやすく私に恋に落ちているような素振りを見せることにも納得できる。
私はそんな、人から好かれる人じゃない。久徳くんが人一倍恋に落ちやすいだけ。久徳くんが、だ。
私は違う。私は一目ぼれとか否定派だ。だって面白くない。ドラマがない。一目ぼれの後に相応のロマンスが待っているのかもしれないけれど、恋に落ちるまでだってたくさんの試練があってしかるべきなのだ。それが落とし物を拾うだけ、あるいは極度の緊張下で自己紹介をするだけで恋に落ちる?そんなの面白くない。
恋に落ちることは予想ができない。だって落ちるものだから。そこに面白さなんて介在しないけれど、私が書きたいのは小説だ。そこには、娯楽としての面白さがないといけない。
だからそう、私は大勢が共感でき、心震わせるようなドラマを知らないといけない。知れば、それが書けるから。
電車が止まる。小さな揺れが私の思考を現実に戻した。
普段は友人と一緒に登下校するせいか、今日はやけにさみしく感じた。なんとなく周囲を見回して――気づく。私の目の前に、なぜか久徳くんがいた。
ちょっと待て、なんでここにいるの――私は発狂したい気持ちを押し殺し、久徳くんを睨んだ。
「ん?」
私に気づいた久徳くんが本から顔を上げる。ブックカバーのせいで何を読んでいるかわからないけれど、大きさからして多分文庫本だろう。
まあ、それはいい。問題は、まるで計ったように彼が私の前に立っていることだ。
予感がした。新たな恋の予感、そして告白の予感だ。
扉が開く。数名が下りて行き、杖を突いたおばあさんが乗って来る。そのすぐ近く、扉よりの優先席に座っていた私は、一瞬の逡巡の末、立ち上がって彼女に席を譲る。逡巡の理由は、久徳くんの隣に立つことが嫌だったから。告白から逃げた自分が後ろめたかったから。あるいは、恥ずかしかったから。
「どうぞ」
「あら、すまないねぇ」
よっこらしょ、と言いながら座るおばあさんがポーチを漁り、飴玉を取り出す。
「良かったらどうぞ」
「え、ありがとうございます……」
反射的に受け取ってしまったのは、貧乏性の性だろう。こう、無料で配布しているものを見るとつい受け取ってしまうのだ。ポケットティッシュとか、チラシとか。
「あ、金平糖だ。懐かしい」
「あら、お若いのによくご存じで。彼氏さんもどうぞ」
ひゅ、と喉が鳴った。カレシ……?まさか、久徳くんのこと?
困惑している私を置いて、久徳くんは人当たりのいい笑みを浮かべておばあさんから飴を受け取る。
「ありがとうございます。近藤さんは心優しい人なんだね。そんな君が僕は好きだよ。」
顔が熱を帯びた。こっそりと横を見れば、慈母のごとき慈しみをはらんだ笑みを浮かべる久徳くんがいた。目は潤み、熱を帯びていた。その熱は、一直線に私に向けられていた。
あらあらお熱いわねぇ――そう告げるおばあさんの言葉は、どこか遠くに響いていた。
またか、と思った。
こんなことで好きだとか言ってくれるな、と心が叫んでいた。
周囲からの生温かい視線を感じた。私たちは付き合っていないし今日が初対面だ――その言葉は、緊張でうまく出てこなかった。
周囲からの視線が痛い。バカップルめ、と言いたげな視線を感じた。
だから、違う。私たちはカップルじゃない。ただの知り合い――せいぜい学友。
何でこう、今日は無駄に視線を集めているのだろうか。ただでさえ自己紹介で精神をすり減らしていたのに、これ以上余計な注目を集めるのはご免だ。
「嫌だ……これは違う」
告げた、その時。もはや慣れたあの感覚が襲っていた。
視界に線が走り、剥落し、闇が訪れる。
電車が揺れる。
アナウンスが駅に着いたことを告げる。先ほど、おばあさんが乗ってきた駅だ。
瞬きすれば、その先には、かすかに微笑みながら本のページをめくる久徳くんの姿があった。
立ち上がり、転がり出るように駅のホームに降りる。先ほど言葉を交わしたおばあさんを避け、一目散に歩き去った。
視線を感じた気がした。久徳くんの、だろうか。
背中に突き刺さるそれを無視しながら歩いていれば、扉が閉まり、電車が進みだす。
そこでようやく息を吐いた私は、歩みを止めて振り返った。
久徳くんとおばあさんを乗せた電車が、走り去っていく。
告白は回避できた。あるいは、告白から逃げた。
もし、久徳くんが神様の手先のような存在なら、別にいい。それはつまり、私をからかっているようなものだから。
けれどもし、久徳くんが神様とも、私の願いとも関係のない、ただの惚れっぽい人だったとしたら、私はもう三回も、不思議な現象で彼の告白から逃げたことになる。
告白――多分、相当な覚悟がいるもののはずだ。振られたどうしよう、関係が変わってしまったらどうしよう。そう悩み苦しみ、それでも好きだという思いが溢れ、相手と大手を振って触れ合いたい、他の人に取られたくない、友人以上の関係に進みたい――そう思うからこそ、告白する。
私には告白の経験はないけれど、覚悟が、要るはずなのだ。そんな告白を、私は否定している。
自分が、ひどく醜く感じた。私は、どうしてしまったのだろう。
一度深呼吸すれば、都会の自然とはかけ離れた空気が肺に詰まった。
息を吐きだす。
大丈夫。あまり気にするな、と言い聞かせる。だって、久徳くんの告白を聞いたでしょ?息を吸うようなあの告白のどこに、覚悟なんてものがあっただろう。
多分、彼は告白しなれているのだ。あるいは、あれは告白ではなく、無自覚天然な彼が、小学生とか幼稚園児並みの、誰々ちゃんも誰々君もみんな大好き、と言っているのと同じではないだろうか。
だから、気にするな。落ち着け。
スマホを開く。
自分の心の中にある言葉を、思いを、全てを吐き出すようにして、私はメモ帳を開き、文字を書き連ねた。
言葉が溢れた。話が進んだ。
涼しい風が吹き、私は顔を上げる。
太陽はまだ高く、穏やかな春の午睡を誘う光で世界を照らしていた。
書き終えた超短編を確認し、私は大きな手ごたえを感じていた。
話から香る、恋の気配からそっと目をそらして。
私はホームに滑り込んで来た電車に乗り込んだ。