29彼女を知る人
「……ん?」
不思議そうな声が聞こえてきて、僕は顔を上げた。
テスト三日目。最後の追い込みに向けて僕も必死にノートを見ている中、たまたま横をとった誰かが足を止めて僕を見下ろしていた。
顔を上げて、思わず息をのんだ。ここ最近、僕の思考の一部を占めていた飯星くんがどこか冷たい目で僕を見ていた。
「……何かあったか?」
シルバーフレームの奥の眼が、僕のすべてを見透かすように細められる。その視線から逃げるように顔を伏せて「別に」と答える僕がいた。
ノートの上を目が滑る。覚えているか確認をしようと脳を動かすけれど、頭の中にはあれだけ必死に詰め込んだはずの知識が出てこない。
飯星君は、動くことなくそこにいる。なぜだか、無性にいら立ちが募った。それは、しとしとと降り続けている雨によって湿っている靴下の不快さのせいかもしれないし、逃げるように電車に乗った近藤さんの背中を思い出したからかもしれない。
車窓から僕を見た彼女は、すっと目をそらした。その姿を見て、僕は――
「……何?」
「いいや。ただ、熱が薄くなったように見えただけだ」
よくわからないことを言って、飯星君はようやく自分の席に向かって歩き出した。その背中を眺めて、次の瞬間、僕は立ち上がっていた。
引いた椅子が思っていたよりもずっと大きく音を立てて、クラスメイトの視線を集めた。飯星君もまた、顔だけ振り返って僕を見る。やや長い前髪がさらりと揺れた。
「少し聞きたいんだけど、いい?」
視線で扉のほうを見れば、飯星君は少しだけ考えてから小さくうなずいた。
颯爽と歩きだした彼の背中を追うように、僕も椅子を戻して歩き出す。
通り過ぎた彼女の席は、まだ空席だった。
廊下には登校してくる生徒の姿がある。飯星君が選んだのは、上の階にある音楽室の中。鍵が開きっぱなしになっているそこに入った飯星君は、近くの机に軽く腰を置いて僕を待っていた。
「……それで、話っていうのは?」
「奈津の……近藤さんのことなんだ」
飯星君の片眉が上がる。それから不審げに眉を顰める。何か、おかしなことを言っただろうか。
「いい、続けてくれ」
「飯星君は、近藤さんとどういう関係なの?名前で呼んでるから気になったんだ。飯星君って、別に近藤さんと同じ小学校ってわけじゃないよね」
「ああ、まあな」
自己紹介の時に印象に残っていたから覚えている。有名な私立高校からわざわざ公立のそれほど偏差値の高くないこの学校に入ったという飯星君が少しばかり不思議だったのだ。
「……それで、教えてくれないの?」
「……それが、お前のためになるのか?それを聞いて、何か変わるのか?」
僕のためになるか――ためには、なると思う。少なくとも、疑問が解消することでこの後のテストに集中できるだろう。逆に、話の内容によってはテストに集中できなくなってしまうかもしれないから一長一短だ。
何かが変わるか。それは、正直よくわからない。そもそも、答えを知らないんだから、変わるかなんてわからない。でも、知らないよりは知っていたほうがいいと思うんだ。それがたとえ、特に意味のない、知人同士のかかわりであっても。
ふ、と飯星君が窓の外を見る。雨に濡れた窓ガラス。その向こうには、いつもよりも少しばかり高いところから見える、やや新鮮味のある街並みが広がっている。雨に煙る灰色の町はひどく弱弱しく感じられた。
その横顔に、灰色が広がる。弱さが、伝播していく。細められたその目は僕を見ることなく、町のどこか、何かを探しているようだった。
「……俺と奈津に直接の接点はない。高校に入学するまで、会ったことだってなかった」
目が閉じられる。瞼の裏に映る誰かを見ながら、飯星君は小さく息を吐く。机に置かれた手が強く握られる。体の中で、激しい感情が暴れていた。
「ただ、話には聞いていた。何度も、何度も聞いてきた。奈津の話になることはそれなりにあった」
「近藤さんの友人と、知り合いだったってこと?」
「いいや。友人じゃなくて姉だ。近藤花奈。奈津の双子の姉で、俺の恋人――だった」
「……近藤、花奈さん」
「あいつは、すごい奴だった。俺とは比べものにならないような人間だった。俺の隣にいるのが理解できないような、夢なんじゃないかと思えてくるような、そんな奴だった」
それくらいに優れていた、完全無欠な人間だったのだ、まるで悪魔と契約でもしたんじゃないかと疑うほどにな――寂しそうに笑いながら、語る。
すべては、過去形。別れたとか、そんな単純な話じゃない。そんなこと、もうわかっていた。
お腹の中がひどく重かった。聞かなければよかった――後悔が芽を出した。
「花奈の唯一の欠点が、妹の奈津のことになると口が悪くなることだった。妹の話を始めると愚痴の嵐だ。まあ、そうして欠点があったからこそ、負い目ばかりの付き合いをせずに済んだんだけどな」
「好き、だったんだね」
「阿呆が。今も好きに決まってんだろ」
誰もいない音楽室を背負い、飯星君はすっぱりと告げる。その顔は、どこか晴れ晴れとしているように見えた。
けれど、そんな表情はすぐに曇ってしまう。
「……花奈に、頼まれていたんだよ。もし、私の手には負えないとそう判断した時には、妹に手を貸してあげてってな。できる姉の苦悩だなんて、険しい顔で言っていたな」
「花奈さんは、近藤さんにできることがなくなった」
「ああ、だから俺は、唯一の頼みをかなえるためにこうしてここにいるわけだ。……そんな頼みしか残していかない花奈も馬鹿だと思うし、俺自身も馬鹿をしていると思うさ。こうしてこの学校での三年間を選択してなお、俺はただ奈津を見ているだけだったんだからな」
「……どうして?」
「決まってるだろ。別に、俺が手を差し伸べる必要はないと判断したからだ。花奈の願いは、自分の亡霊にさいなまれている妹を救うこと。出来のいい姉と比べられてきた哀れな妹に、救いをもたらすこと」
花奈という存在は、死を経て完全無欠に至ってしまったんだ――その言葉は、わからなくはない。近藤さんの中で膨らむ劣等感は、姉の像を作り出した。なんでもできる姉。花奈さんは、けれどもう近藤さんの中で情報が更新されることはない。ただ、絶対に自分が勝てなかった超人として、近藤さんの中にあり続ける。
その像が、近藤さんを苦しめているというのか。どうすれば、それを払うことができる。
――どうして、僕はそれを、自分がやらなければならないだなんて考えているんだろう?どうして、これこそが僕の使命だなんて、そんなことを考えているんだろうか?
「……覚悟は決まったか?」
「覚、悟」
「そうだ。俺は、お前が奈津のために動くと判断した。だから静観を選んだ。俺に出る幕がないのならそれでいいんだ。死者を心の中心に据えたような男の言葉が、奈津に届くなんてうぬぼれはしてないからな」
「……ねぇ、どうすれば近藤さんは、幸せになれるのかな」
「俺に聞くな」
「どうすれば、近藤さんは姉の花奈さんの幻影から解き放たれるのかな?」
「少なくとも、部外者の俺たちができることじゃないな。できるとすれば、それは奈津自身がそうしようと思った時だけだ。俺たちは奈津にかかわることはできても、奈津を変えることも、奈津を通して誰かを変えることもできない」
呪縛だ――ため息交じりの声が、耳の奥で反響する。
あの家には、花奈の呪いが宿ってしまった。花奈に魅了された親はこう言うんだ――「どうして花奈なの」ってな。奈津じゃなくて、どうして花奈なの?
「花奈との別れの日に、俺が聞いた言葉だ」
だから俺は、ここへ来たんだ。
強いまなざしが、そう告げる。その熱が、僕の心に炎を燃やす。
許されるはずがない。そんなことを、言っちゃいけない。もしかして、それを近藤さんは聞いてしまったのだろうか。ううん、聞かなくたって、雰囲気で、言動でわかるだろう。もし生きていたのが花奈だったら――そんな目で、両親が見てくるというのか。それを、近藤さんは一人で抱えているの?
どうして、僕に相談してくれないんだ・
予鈴が鳴る。もう、近藤さんも登校しているころだろう。今頃、教室で最後の追い込みをやっているかもしれない。
目元にクマを浮かべ、しょぼしょぼと瞬きしながら。
「……久徳の好きにしろ。奈津にどうかかわるのか。この話を、聞かなかったことにするのか。すべて自由だ」
ただまあ――そこで言葉を切って、飯星君は僕の横を通り過ぎて去っていく。
窓の外、雨音が強くなる。寂しげにたたずむグラウンドピアノに影が落ちる。雷が落ちる。轟音にチャイムの音が重なる。
よろよろと動き出した僕の頭の中では、まとまらない思考は泡沫のように浮かんでは弾けていた。




