27ホームで
一年の一学期中間試験の日程は四日間。火曜から金曜まで。一日に二科目から三科目入っている。
そんな試験もついに半分が終わった水曜日。その日は梅雨の切れ間の青空が空に覗いていた。
昨日まで降り続いていた雨の気配はひどく遠く、今が好機とばかりに街路樹にとまったセミがけたたましく求愛をしていた。
照りつける日差しはひどく強い。まだ昼頃だからというのが大きいのだと思う。
雨は登校時の電車の人の数が増えるし湿気とにおいのせいでひどく気持ちが悪いから嫌いだ。でも、こんなに晴れているのも暑いからいやだ。
学校は午前中で終わって、弁当を持ってきているわけでもない私は家に帰ることにした。本当はどこかで時間をつぶしたいところだったけれど、テスト勉強をするために学校に残る気にはならなかった。
教室にはだらだらと残るクラスメイトがたくさんいたし、久徳くんは今日も北条さんと一緒に図書館で勉強をするらしいから。横で二人一緒に弁当を食べる久徳くんと北条さんの姿は恋人以外の何者にも見えなかった。
やっぱり、一昨日の回帰は気のせいだったのだろうか。寝不足で一瞬白昼夢でも見ていたのだろうか。久徳くんが確かに私を好きになっていたこと、彼が北条さんを好きだというわけではないこと――二人が付き合っていないこと。それをようやく理解して、おかげで昨日は久しぶりにぐっすり眠れた。
でも、今日の二人の姿を見て、私は自分の見たものが幻だったんじゃないかと思い始めていた。
まあ、実際幻のようなものなのだ。私以外、回帰前のことを何一つ覚えていない。すべてをきれいさっぱり忘れて、私に気味の悪さを与える。申し訳なくさせてくる。
ふっと、セミの音が止まる。気が付けば駅にたどり着いていた。
昼下がりの駅は生徒であふれていた。そんな中、私は列の一つに並んで小さく息を吐く。
しっかり眠れたはずなのに、強い眠気が襲ってきていた。時間のせいか、あるいは下手に眠ってしまったせいで体がもっと眠りを求めているということか。
午睡をしたくなるような太陽なのが悪い。まあ、夏かと思うほどに暑くて汗が止まらないのだけれど。
家に帰ったら冷房をつけよう。
頭痛に顔がゆがむ。そういえば今日はあまり水分補給をしていないことを思い出して、カバンから水筒を取り出してお茶を口に含む。今日は冷蔵庫にお茶の作り置きがなかったから水出しの緑茶だ。氷と一緒に入れてきたそれは、けれどどこかのタイミングでティーパックが破れてしまったみたいでお茶っ葉混ざりのものになっていた。
「……」
視界が、少しだけぼやけていた。落ち着かなかった。遠近感が狂っているような感じがあった。
熱中症で倒れた日のことを思い出した。確か中学の体育大会の通しリハの日に倒れたんだ。それも、朝一。
のどは潤って、けれど頭痛は消えてくれない。そう簡単には水分不足の状態は解決しない。気持ち悪さを紛らわせるように、あるいはただしなければという強迫観念に駆られて私はカバンから明日試験の教科書を取り出した。
周囲、私の動く場所を封じるように後から後からやってくる生徒がホームの端のほうへと器用に人込みをかき分けて歩いていく。
そんな人の腕が、私に当たった。
突然のことに、体はとっさに反応しなかった。多分、寝不足がたたっていたせいで反応が遅れた。
手の中から教科書を落ちる。体は、そのまま倒れていく。その先にはホームがあって、そしてつかしていこうとする快速電車はスピードを緩めるだけで前身を続けていく。
ぶつかる――恐怖に目をぎゅっと閉じて。
「奈津!」
その時、私を抱きとめる掌を感じた。名前を呼ぶのは彼――ここにいるはずのない、久徳くん。
電車が背後を走り抜けていく。ブレーキの音は聞こえなかった。
足の裏に点字ブロックの凹凸を感じながら、私はゆっくりと顔を上げる。腕の中で、彼の顔を見上げる。
「な、んで」
「近藤さんがいつも以上にフラフラしていたからだよ。もし倒れたらどうしようって思って、後ろをついてきていたんだ」
簡単に語って見せ久徳くんはひどく怖い顔をしていた。息は荒く、声には心なしか怒りがにじんでいた。
ぎろりと、ホームの奥をにらむ。その先に、私にぶつかった誰かがいるのだろう。
「……いいよ。久徳くんのおかげで怪我一つなかったし」
「一歩間違えれば大怪我だったんだよ」
「でも、そうはならなかった」
「それは僕が間に合ったからで……っ」
「うん。ありがとう。だからそれでこの話は終わり。もとはといえば体調が悪いのに無理をして学校に来ている私が悪いもの」
「……ようやく体調が悪いって認めたね」
「…………あ」
しまった。これ以上久徳くんとのかかわりを増やしちゃいけないと思って、体調に問題はないってかたくなに言っていたんだったっけ。顔を見ないようにして勉強に集中すれば、余計なことはすべて忘れられるんじゃないかなんて思った。このおかしな超常減少からも解放されるんじゃないかなんて思っていた。
彼に背中をさせられながら、ホーム中央へと歩く。早く電車に乗って家に帰りたいけれど、それよりも今はどこかへ座り込んでしまいたかった。電車にひかれそうになった――そのせいか、張り詰めていたものがぷっつりと切れてしまっていた。
電車が入ってくる。生徒の半分ほどが一斉に電車に乗り込む。
「……もう、離していいよ」
ホーム中央、ちょうど空いたベンチに座れば、その横に座った久徳くんは私の手を握った。こうしてさりげなくボディータッチをできるあたりが、嫌だ。こんなことをされるから、久徳くんを嫌いになれない。だから、久徳くんの告白を、想いを汚してしまっている自分が許せなくなる。
久徳くんの手は離れない。それどころか、逃がしてなるものかと、強く、強く握られる。
「っ、痛い」
「ああ、ごめん。でもこうしないとどこかへ行ってしまいそうだから」
「どこかって、どこへ?」
あいまいな笑みを浮かべながら、久徳くんはベンチの背もたれに背中を預けて空を見上げる。青い空。澄み渡ったその色が目に染みる。
彼の眼は、ただ虚空を見ている。あるいは、青空の先を見据えている。
空の先――天国のようなものを見ようとしている。
私がふっと死んでしまうと、そう思ってるということだ。確かに、今の私はそんな感じに見えるのかもしれない。別に、そんな気はないけれど。少なくとも自殺なんて嫌だ。それに、そもそも死にたくなんてない。
「……死なないよ」
「どうして、そんなにも苦しそうなの?何か、重い病気ってわけじゃないんだよね?」
「まさか」
そんなわけがない。どうしたらそんな発想になれるんだろうか。そう笑い飛ばしてしまいたかった。でも、できなかった。
真横、どこまでも真剣な顔で私を見る久徳くんの眼の奥に、強い輝きを見た。
電車がホームに滑り込んでくる。私たちの背後で、電車の扉が開き、生徒たちが一斉に乗っていく。
やがて、電車がホームから出発したその時、久徳くんは口元を苦しみにゆがませながら告げる。
「君が倒れて線路上に落ちてしまいそうになったあの時、僕は気が気じゃなかったんだ。もし君が死んでしまったら――そう考えるのと同時に体が動いていた。自分でもよく動けたと思うよ」
「……うん」
「走馬灯のように、いろいろなことが思い浮かんだんだ。それは全部、君の、奈津のことだった」
当たり前のように、彼は私のことを名前で呼んだ。何か変化があったのか、私には何もわからない。けれど、この後の展開だけはわかってしまう。
わかりたくなんて、ないのに。
久徳くんが、握る私の手を持ち上げる。その手を、両手で包み込む。
視線は逸れることなく私をじっと見据えている。
世界から音が消える。ホームにまばらにいる生徒の存在も、鳥の鳴き声も、セミの声も、車の走る音も、すべてが私の意識から消えて。
「好きだよ」
ただ、彼の声がどこまでも響く。
「奈津がいない日々なんて考えられない」
私の手を包むその両手は、小さく震えている。
「奈津、ずっと、僕と一緒にいてほしい。僕と一緒に、君に笑っていてほしい。……そんな、苦しい顔をさせたいわけじゃないんだ」
泣きそうな顔をしながら、久徳くんが言う。私は、そんな顔をしていた。
辛くて、苦しくて、泣きたかった。
久徳くんの言葉が、心にしみこんでくる。
うれしかった。幸せだと思った。久徳くんに好きだと言ってくれて、鼓動が早くなっているのに気づいていた。久徳くんの言葉を期待していた自分がいることに気づいていた。
久徳くんと、ずっと一緒にいたいと思った。恋人になりたいと思った。なれたらいいな――でも、なれない。
この告白だってなかったことになってしまう。
視界がにじんだ。苦しくて、せつなくて、張り裂けそうに痛む胸元を強く握りながら、精いっぱいの笑みを浮かべた。
「……ごめんね」
今度は、ちゃんと答えられた。返事ができた。それで、少しだけ救われた気がして。
それ以上の痛みが私の心を占めた。
世界から色が消えていく。時間が、巻き戻っていく。輪郭が揺らぎ、絡まり、もつれあう。
崩れ行く世界、それでも離さないというようにつながれたその手のぬくもりも、消える。
涙があふれた。その涙も、次の瞬間には消え去って。
誰かの体がぶつかる――そうわかっていたから、今度は踏ん張ることができた。
視界の端、彼の姿を見た気がした。私に向かって手を伸ばしかける彼に気づかないふりをして、私はホームの先に向かって歩き出した。
やがて電車がホームにやってきて、生徒の群れの一部として私は電車に乗り込む。
動き出した電車の車窓。その先に、私を見つめたまま立ち尽くす久徳くんの姿が見えて、泣けてききた。
……ああ、好きだ。好きだ。久徳くんが好きだ。
膨らむばかりなこの気持ちはもう、抑えきれる気がしなかった。
それでも、私の願いは私に恋を成就させてくれない。
でも――一縷の望みにすがるように、私は久徳くんの顔を思い浮かべる。
ホームの中央、迷子の子どものような顔で私を見ていた久徳くん。拒絶されたと、それに絶望したような、そんな顔。
期待してもいいのだろうか。記憶はなくなっても、告白なかったことになっても、久徳くんは私が気になっているという事実は消えないのだと、そう理解してもいいのだろうか。また彼が告白してくれることを待ってもいいのだろうか。
――その告白に、答えられないのに?
窓に額を張り付け、流れていく景色を眺める。
青空ばかりだと思っていた空の端に、分厚い雲が見えた。
梅雨の切れ間は終わる。次の雨は、もうすぐそこに迫っていた。




