26バカ
『ああ、可愛いなぁ』
考えていることがぽろっと漏れてしまったように、久徳くんは告げた。その言葉が、私の心を震わせる。
今日から一学期前期の定期テスト。でも、私は全く集中できていなかった。
昨日は全くと言っていいほど眠れなかった。かなり久しぶりにも思える回帰、そのことで頭がいっぱいで、眠気はどこかに行ってしまっていた。
連日睡眠不足を積み重ねているせいか、体はひどく重い。頭の奥は絶えず熱を帯び、靄がかかったように思考がうまく働かない。脳が異物のように思えるほど痛みは存在感を持っていた。目の奥がひどく痛み、視界はかすむ。肩が重くて、軽く首を動かすだけでバキバキと音が鳴った。
めまいがして、机に手を突く。倒れずに済んだけれど、その拍子に、見ないようにしていた彼の姿が目に入ってしまった。
久徳千尋くん。彼はいつだって私を悩ませてきた。
人が恋に落ちる瞬間を見たい。そんな私の願いは実現して、久徳くんが私を好きになるその瞬間を、私はもう何度も見てきた。
彼はどうやらかなり惚れっぽいみたいだった。何気ない私の行動を取り上げては、そんな私が素敵だなんて、そんなことを言ってくる。
それが本心であることは、熱を帯びた視線を見ればわからないはずがなかった。けれど、その熱はすぐに消えてしまう。私が何度も「人が恋に落ちる瞬間」を見られるように、何かが時を巻き戻してしまうからだ。
あるいは、私が予知夢のような形で仮初の未来を見ているのかもしれない。そのほうがよっぽど救いがある。それはつまり、久徳くんが私に振り回されているわけではないということだから。私が勝手に未来を予想して、勝手に告白を夢想しているだけ。それだけだったらどんなによかっただろうか。どんなに、救われただろうか。
でも、なかったことになってしまうその記憶は、実に生々しく私の記憶に焼き付いて色あせてくれない。
彼の告白の一挙手一投足が、言葉が、表情が、私の中に深く刻まれている。それはもう、きっと一生消えないだろうと錯覚するほどのもの。
彼は、これからも私に告白を続けるのだろうか。そして、その告白はなかったことになって、次の瞬間にはその瞳から熱を失ってしまう。
そうして、私は彼への贖罪をするように、異なる未来へと手を伸ばす。彼が無駄に私に振り回されてしまわないように、彼を守る。
些細な私の言動で未来は無数に分岐する。そうして、私は昨日も分岐地点に舞い戻り、違う道を選んだ。
昨日、久徳君は私を好きになった。告白しようと、覚悟の決まった顔で口を開いた。その口から告白の言葉が告げられることは簡単に予想できた。何しろ私はもう何度も久徳くんの告白を知っているから。
けれど、今回はその言葉が私の耳朶を揺らすことはなかった。
それよりも早く、時間が巻き戻った。あるいは、私という人間が過去に回帰していた。
同時に、彼の恋愛はなかったことになった。私が、なかったことにしてしまった。
許されないことをしていると思う。許されるわけがない。
人の恋心をもてあそんでいるようなものなのだ。こんなことが、許されるはずがない。
思いながら、けれど私はどうしようもない喜びを感じている自分がいることに気づいた。
理由は、彼が私を好きになってくれたから。
彼は誠実な人間だ。まっとうな人間だ。私のようにうだうだうじうじするような人じゃないし、友人も多いし、社交的だ。彼は、二人を好きになるような器用なことをできる人間じゃない。どうしてそんなことが言えるのか――何度も告白を言いていれば、なんとなくわかるようになる。
彼は一人しか愛せない。一人分の愛を心の中で燃やす彼を、私は今まで何度も見てきた。そして、昨日もそうだった。
彼は、私が知る限りいつも通り、私に告白をしてようとしてきた。瞳に熱を浮かべ、私を見ていた。つややかなその唇が、身の丈をつむごうとした。
そう、彼は私に惚れていた。そして、告白をしようとした。彼の眼には、ほかのだれかへの思いはなかった。北条さんへの熱は、彼の中には存在しなかった。
それが何を意味するか――北条さんと久徳くんは付き合っていない。そうわかって、それを教えてくれるかのように恋を一つ捨て去った久徳くんが、いとおしくて、悲しくて、悔しくて。
「……バカ」
心がぐちゃぐちゃになりながら、私は悲鳴をその一言に集約された。
言いたいことは山ほどあった。どうして惚れてしまうのかと、どうしてまた回帰してしまうのかと。私はもうこれ以上久徳くんに迷惑をかけないように必死だったのに――あふれる思いをかみしめながら、不思議そうな彼の眼を見つめる。
バカ。バカだ。バカなんだ。どうして、名前なんて呼ぶの?いきなりどうしたの?聞き間違いなんかじゃなかったよね?確かに「奈津」って、そう私のことを呼んだよね?
だから、私は意識してしまったんだ。彼を見てしまったんだ。そして、私の表情を見るだけで、彼は恋に落ちた。
ああ、本当にばかげている。すべてがばかばかしくて仕方がない。気持ちが悪い。何かの掌の上で踊っているだろう私が、踊らされてしまっている久徳くんが、彼が突然私を名前で呼んだという事実が、北条さんの視線が、頭の奥の痛みが、すべてが気持ち悪い。
担任が教室を出ていく。気づけば朝の連絡は終わっていた。
慌てて机の中のものをすべてリュックにつめて廊下に向かう。
そうこうしているうちに監督の先生がやってきて問題が配られ始める。最低限の筆記用具を机の上に置いて、大きく息を吐く。
今は久徳くんのことなんて考えている場合じゃない。テストに集中しなきゃ。
「はじめ!」
一斉に解答用紙をめくる音が聞こえる。雨音かと錯覚するような、ペンを走らせる音。その音が、私の意識の中で渦巻いていた思考をすっと薄れさせてくれた。
頭の中から知識を引っ張り上げながら、解答用紙の一番上に名前を書き、問題用紙を読み始める。……よし、授業で習った文章しか出ていない。これなら古文でもそれなりに点数が取れそうな気がした。
気づけば三つ目のテストも終わっていて、今日のスケジュールが終了した。
テストの最中は消えていた思考が、再び私の頭の中を埋め尽くす。脳が悲鳴を上げていた。本当、バカみたいだ。どうして、こんな苦しいことばかり考えているんだろう。
自分で自分が嫌になる。
揺れる視界が落ち着くまで、ただぼんやりと教室前方の黒板を見ていた。
ふと視線を隣に向ければ、そこにはもう久徳くんの姿はなかった。
小さなため息とともに、私も筆記用具とテスト問題をもって教室を出た。




