25名前呼び
ぐるぐる、ぐるぐる、頭の中で飯星君の声が響いていた。
奈津――そう、彼は近藤さんのことを読んだ。
彼は近藤さんとどのような関係なのだろうか。名前で呼ぶくらいだからかなり死体氏んじゃないだろうか。人によっては名前呼びに大した意味なんて見出さないだろう。僕だって、普段は誰かが誰かのことを名前で呼んでいようが名字で呼んでいようが少しも気にしない。
例えば大して話したことはなかった北条さんのことを、僕は「祈」と呼んでいる。彼女がそう呼んでほしいといったから、そう呼んでいるだけだ。わざわざ名前呼びを気にして恥ずかしがって相手を名前で呼べないほうがおかしい。異性だからという以前に、それは人として不適当な気がする。
だって、名前というものは両親が最初に僕たちに与えてくれるプレゼントだから。それをないがしろになんてしたくないし、絶対に名前では呼ばないなんて言って相手に不快な気持ちにさせるなんて話にならない。
だから、いつもの僕は名前呼びも名字呼びも気にしない。
なのに、飯星君が近藤さんを名前で呼んだことだけが、のどに刺さった小骨のように存在感を主張していた。
梅雨入りした空は今日もどんよりとした雨雲に覆われていて、朝から生活音をかき消すように土砂降りの雨が降っていた。
家から駅に向かうまでに靴はぐっしょりと濡れて、足先から体が冷えていく。不快感が全身に満ちるのを感じていた。何より憂鬱なのは、明日から定期テストだということ。
五月末にやってきた高校に入ってから初めてのテストに急き立てられて、電車の中でもノートを開く。明日の最初の授業は古典。古典はひたすら単語帳を解いて、あとは授業内容を復習しておけばいい。というか、それ以外に何を勉強すればいいのかわからない。
前に持ったリュックの上に乗せるようにノートを開き、ぎゅうぎゅうの電車の中で文字を目で追う。電車が軽く揺れ、握るつり革からぎゅぎゅ、という音が響く。倒れてきた人に押されながらも踏ん張って耐える。
そんな不快な時間が十五分も続けばやっと学校の最寄にたどり着く。
気づけば車両に乗っている人の四割ほどが同じ学校の生徒になっていた。開いた扉へと、一斉に生徒の群れが流れる。ホームにあふれ出した人並みは、そのまま階段へと流れていく。
そんな流れに身を任せながら階段を上り、改札を抜ける。
地面をたたく雨の音に憂鬱な気分になりながら傘を開く。屋根の下から出れば、途端に傘の下は激しい雨音に飲み込まれる。普段は二列になって歩く集団も、今日はまっすぐい列になって進んでいる。
水たまりを回避しながら、ぼんやりと前の傘を追って歩く。校門をくぐって、土間で靴を履き替えてまっすぐ教室へ。
「おはよう」
「おう、おはよう」
「おはよー、千尋」
友人たちに軽く手を振りながら自分の席へと歩く。
椅子に座れば、途端に汗が噴き出してきた。ただでさえジトっとした空気は、窓が締め切られた教室で蒸され、一層凶暴なものになって僕を襲う。
歩いてきた体の熱のせいで汗が止まらない。タオルで汗を拭きながら、視線は隣の席へと向かう。
彼女は、近藤さんはまだ、来ていない。最近彼女は登校が遅い。遅刻してしまわなか、休んでしまわないか、登校中に倒れていたらどうしよう。そんなことばかりが頭をよぎって不安になる。人の座っていない机はひどく寂しげに見えた。
教科書やなんかを机にしまいながら、今度は教室の中をぐるりと見まわす。テストが目前に迫って、それでも勉強している生徒はそれほど多くない。さすがに朝の短い時間にも必死に勉強するほど切羽詰まっている人は、あるいは勉学に熱が入っている人は少ない。
友人たちの話に加わりに席を立とうか。そう思って、けれどそれを実行に移すことはなかった。
今日は珍しく早く――といっても予鈴十分前だけれど――登校してきた近藤さんが教室前方の扉から入ってきた。相変わらず顔色はよくない。顔は青ざめ、目の下にはクマがある。心なしか頬がこけているような気がする。
うつむきがちに教室に入ってくる様は、まるで人目を忍んでいるよう。雨で湿気が強いせいか、髪の毛が少しばかりウェーブしている。
ふらふらとした足取りで机までやってきた彼女は、僕と目を合わせることも、挨拶をすることもなく座る。
「……おはよう」
「…………」
返事はなく、会釈だけが返ってきた。視線一つこちらに向くことはない。
近藤さんの横顔を眺めながら、僕は彼のことを思い出す。彼女のことを名前で呼ぶ飯星君。近藤さんは、彼とどんな関係なの?
――そんなことを、知ってどうするというのだろう。なんの意味もない問いかけだ。他人の交友関係に口出しすること以上のお節介なんてないと思う。
でも、気になった。どうしてだろう?飯星君が近藤さんを奈津と呼んでいるということが、僕の中でくすぶっていた。
ぐるぐると、彼の声が僕の中で回り始める。奈津、奈津、奈津――彼が奈津のことを呼ぶ。
一度、視線を前に向ける。そこに、飯星君の姿がある。彼は僕に気づくことなく、頬杖を突きながら小説らしきものを読んでいた。もっとがり勉タイプだと思っていたから少し意外だった。クラス委員長っていうと、なぜだか勉強に関して口うるさいイメージが僕の中にあった。
また、彼の声が僕の頭の中で回りだす。どこか冷たい声が彼女の名前を呼ぶことに違和感があった。違和感――ううん、違和感は僕自身の中にあった。
なんでこんなに気になって仕方がないのか。気になるから、仕方ない。
そんな結論で、僕は彼女へと視線を向ける。
「ねぇ、奈津は飯星君と仲がいいの?」
「………っ」
息をのんだ。大きく見張られた目が僕を映す。やっと見てくれた。やっと、僕と目を合わせてくれた。
「……ぇ?」
唇が小さく震える。何度も目がしばたたかれ、空気を求める鯉のようにはくはくと口を動かす。
次第に、その顔が真っ赤に染まっていく。目が潤み、体は小さくなり、縮こまりながらもうつむきがちに僕をにらむ。
心臓が、トクン、と高鳴った。
「ああ、可愛いなぁ」
――本当に、心から可愛いと思う。
愛おしさが胸にこみあげてきて、僕はそれを言葉にしようと口を開いて――
なんでこんなに、近藤さんと飯星君の関係が気になって仕方がないのか。
答えを求めるように、僕は彼女へと視線を向ける。
鋭い視線が僕をとらえた。その目には、怒りのような、悲しみのような、嘆きのような、絶望のような、僕には理解できない感情を宿していた。
「…………バカ」
小さくつぶやいた近藤さんが唇をかみしめる。
その言葉に、なぜだか僕の心の中には違和感が生まれていた。
どうして、彼女はそんなことを言うのか。どうして、僕は彼女が違う反応をするだろうなんて、そんな予測をしていたのか。
わずかな違和感は、けれど予鈴の音にかき消される。
すぐに忘れてしまったということは、きっと大して大事なことではなかったのだろう。
そう思いながら、僕は彼女から視線を外して教卓に立った先生のほうを見る。
その、一瞬。
近藤さんがすがるような視線を向けていたように見えたのは、僕の気のせいだったのだろうか。




