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人が恋に落ちる瞬間を見たい  作者: 雨足怜


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24/49

24逃避

 ただがむしゃらに勉強を続けた。

 それ以外、何かをしようとすれば余計な思考が頭をかすめた。

 現実逃避だった。私は、ただ目をそらしていた。

 それでもテスト勉強に集中できたのは、今の私にとってそれが習慣化した逃避行動だったから。

 頭の中を勉強一色にして、ほかのすべてを忘れ去る。痛みも悩みも、苦しみも、すべてを情報で押し流す。

 そうしないと、生きていけなかった。そうしないと、息が詰まって仕方がなかった。

 この家は、この部屋だって安心できない。私にとって、ここは世間一般でいう「帰る場所」としての家じゃない。

 ここ以外に行くところがないから居るだけの、ただの仮宿。

 早く出ていきたい。早く、早く、早く。

 それだけを胸に、勉強をしてきた。全寮制の高校に入ることはできなかったし、許してもらえなかった。だから大学だけは家を出てやっていく。

 そんなことを思いつつもバイトをして生活資金を稼ぐわけでもないのだから、私はダメな人間なのだと思う。

 ただ閉じこもり、すべてから目をそらすことだってできた。でも、そうすると私の中で彼女が叫び声をあげた。

 奈津は、そういう生き方をするんだ――そう、嘲っていた。私を見下していた。馬鹿にしていた。

 それはきっと……ううん、間違いなく私の空想だ。

 彼女はそんな人じゃなかった。ただ決定的に、私とは違う、できた人間だった。

 私は、彼女を前にするといつも劣等感で気が狂いそうだった。それでも壊れずにいたのは、彼女が、同時にあまりにもまばゆい希望の光だったから。

 彼女のようにはなれないと思いながら、彼女のようになりたいと思った。

 ――本当に、笑えると思う。こうしている今だって、私の中には彼女がいる。彼女のように、私は陰で必死に努力をする。それは、彼女をただ羨望と嫉妬をもって見ていた昔には理解できなかったことだった。

 私にとって、強烈な輝きだった彼女。部屋にあったすり切れるほどになった本の数々が、夢を憧れで終わらせようとはしなかった彼女を、後になって尊敬していた。

 もう、遅いのに。

 ペンが止まっていたことに気づいて、私は苦くゆがむ口元を手で押さえ、再び問題を目で追っていく。

 彼女のように、私にもなれるだろうか。なれるわけがない。それでも、少しでも近づけたら。

 そうしたらきっと、私はこの地獄を抜け出せる。


 夜、いつものようにベッドに寝そべりながら、最近読み返している自分の小説のひとつを見る。ウェブに登校している短編の恋愛小説。それを読み直せば、わずかに胸が高鳴るのを感じた。

 それから、苦いものが胸の中に広がっていく。

「……何してるんだろう、私」

 自分という人間の醜さを突き付けられるようで嫌になる。それでも、心のどこかで期待している私がいた。

 テスト勉強に必死になる女子高生が、参考書を読みながら駅のホームを歩いている時に人に突き飛ばされる。線路に落下しかけた彼女の手を引いて抱き留めた少年に、少女が淡い恋を抱く話。

 それは、今の私にとっては希望のようなものだった。

 私の身の上に起きている不思議な回帰。私に人が、久徳くんが恋におちて、それから過去に戻る。その流れは、私がネットに投稿している三文小説をモチーフとしているふしがあった。

 私の気のせいかもしれないけれど、もし、本当にそうなら。

 この小説だって、現実のものになるかもしれない。

 もし再び回帰が起これば。それはきっと、久徳くんが私に恋をしたという証明になる。北条さんではなく私を選んでくれる可能性があるということになる。

 ……略奪愛をもくろみ、久徳くんをこれからも振り回そうとする自分が、ひどく醜く思えてきた。

 ベッドにスマホを投げ出し、目元を腕で覆う。腕の隙間から除く白色光のまばゆさは、私が日陰者であることを突き付けているようだった。

 もう、嫌だ。こんな自分も、よくわからない不思議現象も、この家も。全部全部、壊れてなくなってしまえばいいのに。

 そう思いながら、枕元に置いておいたリモコンで明かりを消して、膝を抱きかかえるように丸まって眠りに落ちた。


 相変わらず降り続ける雨のせいで、朝からじめっとした空気だった。電車の中はむわっとした湿度の高い空気に覆われていて、一層気分が悪くなった。

 今日も朝ごはんを食べていなかった。そのおかげで吐いてしまうことはなかった。それくらいに、ひどい匂いだった。

 化粧、たばこ、汗、芳香剤。湿度の高い空気に混じったそれらのにおいは、電車の中を地獄に変えていた。

 手に持っていたノートのページがくしゃりとゆがむ。体が、悪寒で小さく震えていた。

 車外へと吐き出される流れに従ってホームを踏みしめる。そのまま、背中を押し出されるようにホームの端へと非難する。ノートを手に持ったまま。

 目の前を、人の流れが通り過ぎていく。私が通っている高校の生徒も、社会人も、お年寄りも、みんなが、一直線に改札に続く階段へと歩いていく。統率の取れたその進行が、ひどく不気味に見えた。

 誰かを探している自分に気づいて、ノートへと視線を戻す。

 わずかに冷えた空気が頬を撫でていく。ページが小さく揺れる。

 進みだした電車が雨水を散らしながら雨に煙る先へと走っていく。消えていく光をぼんやりと眺めて見送ってから、ため息とともにノートをしまう。わずかに落胆している自分がいることに、嫌になった。

 少しだけ人気のましになった階段に向かって歩き出す。

 傘を開き、駅を出る。しとしとと降っている雨がポンポロンと傘で軽やかに弾んで音を立てる。前を行く生徒の集団から離れて、私は一人学校へと歩く。

 一人。それに何も思わなくなったのはいつからだろうか。

 ぼんやりと雨でかすむ街を眺める。幅の広い褐色の建物、灰色のビル、雨に濡れる無数の窓ガラス、霧雨を切り裂く信号の緑の光。

 雨だからか、それともまだ時間が早いからか、門の横に先生の姿はなかった。ゆっくりと土間に向かって靴を履き替える。水で濡れた廊下はひどく滑りやすく、自然と歩幅は小さくなる。あるいは、教室に入ることを恐れているのだろうか。

 ためらいが、あった。それに気づくとともに、何かにのしかかられたように肩が重くなる。

 自然と足は止まっていた。鞄の紐を強く握りしめながら、目を閉じて深呼吸を繰り返す。

 並ぶ教室の中から喧騒が響いてきていた。それに混じる雨音に耳を澄ませながら心を落ち着ける。

 平常心。平常心。

 それでも、心は落ち着かない。ざわつく心に、どうして落ち着いてくれないのかと文句を言えば、「久徳くんが隣の席なんだから仕方がない」という言葉が返ってくる。

 隣。久徳くんは、隣の席。私に何度も告白してくれて、けれど私は不義理なことをした。その罪を、けれど誰かに話すことはできない。だって、気が狂ったとしか思えない。

 それこそ、好きなあまり告白される夢を見て、それを現実に起きたことだと錯覚したイタい人になってしまう。

 そんなのは嫌だ。さすがにその誤解は受け入れられない。

 扉に手をかければ、ひんやりとした持ち手の金属の冷気が体の中に走っていく。背筋に衝撃が走ったように動けなかった。

「……入らないの?」

「あ、入るね。邪魔してごめん」

 後ろから話しかけられて、私はあわてて扉を開く。女子クラス委員長の水谷さんに先を譲る。怪訝そうな顔をしながらも、彼女はさっさと私の前を通過して教室に入っていった。

「おはよう」

「おはよー」

「ミズ、おはよう。今日はいつもより遅いね?」

 聞こえてきたあいさつの一つ。その声にドキリとした。

 最近少しだけ仲良くなった、北条さんの声だった。北条さん、久徳くん……胸の中で広がる言葉にならない感情を必死で封じ込め、私は教室へと一歩を踏み込んだ。

「おはよう」

「……ぉはよう」

 友人との話に盛り上がっていたのに、久徳くんは目ざとく私の登校に気づいて声をかけてきてくれた。

 そんなところが、嫌いになれない。嫌いになってしまえば、こんな罪悪感を抱えずに済むのに。

 今日は声が出た。多分、多少覚悟ができていたから。

 それでも、それ以上話す気にはなれなくて、私は机に突っ伏して眠っているふりを始めた。

 早く、時が過ぎて。学校が終わって。それからついでに、世界が終わってしまえばいいのに。


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