23委員長
雨音に包まれたその世界に溶け込みそうなほどに気配の薄い飯星君。僕たちのクラスの男子のクラス委員長の彼は、祈には見向きもせずにただじっと僕のことを見ていた。
雨音がふっと消える。視界を邪魔するしずくも、僕の意識には入らない。
ただ、飯星君だけを見ていた。その目を、どこか光のないその暗い目を。雨のせいか、その立ち居振る舞いには言いようのない影があるように見えた。まるで、喪に服しているようだと、そんなことを思って。
バチ、と土間の蛍光灯が音を立てる。明滅したその光で、僕は思い出したように息を吸った。
完全に、空気に飲まれていた。飯星君には、そんな不思議なところがある。静かで、けれどその身から放つ空気は誰もを黙らせるような不思議な圧がある。例えるならば、人生の酸いも甘いも噛み分けた年長者が持つ威厳のようなものだろう。
彼は、僕と同い年のはずだ。ひょっとすると一浪している……なんてことはないと思う。高校浪人しているようには思えないし、飯星君がそんなことを話していた覚えはない。
ただ人生経験の差と断じるには、彼と僕は決定的に何かが違った。
何か――それを考えるよりも早く、ゆっくりと彼が唇を動かす。
「言えないのか?」
小さな、けれど響く声。雨音に決して負けない声。まっすぐ僕を見るその瞳にはわずかな揺れもない。
逃れることは許さない――気分は蛇ににらまれたカエルだった。わずかに、足が震えた。気圧されるように後じさりしようとする自分がいることに気づいた。
「……近藤さんとの関係、のこと?」
「ああ」
僕と飯星君の間にある不思議な空気を察して黙っていた祈が訪ねる。飯星君が小さくうなずく。その視線は、僕から動かない。
強く、傘の柄を握る。伝わってくる雨の振動が、少しだけ僕の緊張を解いた。
「……そう、だね。近藤さんは大事な友人だよ。高校で初めてできた友人かもしれない」
ああ、そうだ。僕にとって近藤さんは高校でできた初めての友達だった。入学式の日から、僕はなんとなく彼女と仲良くなれる気がしていた。だから、時々彼女を目で追っていた。
最初に話したのは、いつだっただろうか。
その疑問に、内心で首をかしげる。近藤さんは高校での最初の友達のはずだ。最初というからには、早くに近藤さんと話して打ち解けたということだ。でも、そんな記憶は僕の中にはない。最初に話しかけたのは、学校は始まって一週間したくらい、だろうか?でもその時にはもう、僕はなぜか近藤さんを友達のように思っていた気がする。だから特に気負いなく話かけた……そのはずだ。
「どうした?」
「……あ、ううん、何でもない」
雨の音が戻ってくる。いぶかしげな飯星君に首を振って返し、近藤さんとの関係について考える。
……あれ、さっきまで、僕は何を考えていたんだったっけ?
「近藤さんは、友人。うん、友人だよ」
「そう、か」
たったそれだけ告げて、飯星君は真っ黒な傘をさして雨の中へと一歩を踏み出す。そのまま、何も言わずに僕の隣を歩いていく。
「……え、それだけ?」
あきれたような祈の声に、飯星君はぴたりと足を止める。わずかに傘を傾けて、空を仰ぐような振る舞いをする。黒い傘を伝う雨粒が、パンパンに膨らんだリュックに垂れてしみこんだ。
「それだけだな。友人だというなら、それ以上何も話すことはない」
「友人じゃないと言ったら?」
気づけば、そう尋ねていた。ゆっくりと振り返った飯星君が、片眉を上げて僕を見る。
「何が言いたい?友人ではなかったのか?」
「ううん、友人だけど、もし違うと言っていたら飯星君が何を言おうとしていたか気になって」
「気になって……か」
空を見上げ、すっと目を細める。僕もまた傘を傾けて彼の視線の先を追ったけれど、そこには真っ黒な空が広がるばかりだった。
気になる、か。もう一度ぽつりとつぶやく。
「……そうだな。俺もまた、ただ気になっていただけだ。奈津とお前がどんな関係だろうと、俺には何の関わりもないな」
目を閉じて、かみしめるように告げた飯星君が背を向ける。
その背を、茫然と見送りながら。
奈津――頭の中で、彼の声が反響していた。奈津、奈津。そう、飯星君は呼んだ。気安く、あっさりと、そう呼んだ。
僕は、彼が近藤さんと話しているところを見たことがない。もう少し仲が良ければ名前呼びだって自然かもしれないけれど、親しくない異性を名前でさらりと呼べるものだろうか。
近藤さんが、名前で呼んでと彼に言ったのだろうか?だから、飯星君は近藤さんを名前で呼んでいる?そうかもしれない。じゃあ、今の質問の意図は?どうして彼は僕と近藤さんの関係を聞こうとしたんだろう?
俺にも何のかかわりもない――どこか自嘲めいた苦笑が頭の中に思い浮かぶ。
飯星君の背中は、ゆっくりと雨の向こうに消えた。その背中が見えなくなってからもしばらく、僕はそこに立ち尽くしていた。
「……千尋?」
「………………なに?」
肩を揺さぶられて、意識が現実に戻ってくる。心配げな、どこか起こったような顔をした祈が僕を見ていた。
「そろそろ帰らないと」
言われて見れば、渡り廊下のところで職員が施錠をしていた。僕たちに築いたその男性教員が「早く帰れよ」と声を張り上げる。
頭を下げて、隣に並んだ祈と一緒に歩きだす。
頭の中では、ぐるぐると先ほどの飯星君との会話が巡っていた。
「――でね、ミズが『数学なんてもういい』って完全にあきらめモードで……って聞いてる?」
「ん?うん、聞いてるよ」
「そう……」
「うん」
手の中で傘を弄びながら、祈がうつむく。泥で濁った水たまりのをよけるように、僕たちの間の距離が開く。
「……ねぇ、千尋はさ。あたしを名前で呼ぶのは嫌じゃないの?」
「嫌ではないけど、それがどうしたの?」
「嫌ではない……かぁ」
どこか含みのある声で告げた祈が水たまりの端を踏む。飛んだ泥水がシューズにかかり、その赤色がくすむ。
「あーぁ、これだか雨は嫌だっていうのよ」
「僕ももう靴はじっとりしてるよ」
唇を尖らせた北条さんが僕の靴を見て、それからふぅんと鼻を鳴らす。
「……千尋にも掛けてあげようか?」
「いや、どうして靴を汚そうって発想になるの?」
「だってあたし一人だけ靴が汚れるなんて許しがたいからさ」
「だからって僕を巻き添えにしないでよ」
あきれたように小さく首を振った祈が数歩先を進む。
くるりと振り返った祈が、のぞき込むように僕を見る。かわいいと、素直にそう思った。それはたぶん、そのしぐさがあまりにも完璧だったからだと思う。自分が相手にどのように見えるか、分析しきったしぐさのように思えた。
だからどうってわけではないけれど、その祈を見て僕の鼓動が高鳴ることはなかった。
「さっき考えていたことを当てようか?――奈津っていう名前呼び」
足が止まった。祈もまた歩みを止め、僕をじっと見ている。無言になったからか、雨が強まったような気がした。
「奈津って、委員長がそう呼んだから動揺してるんでしょ?内向的な近藤の異性の友人は、親しい相手は自分だけだと思っていた。違う?」
「……そんなことは思ってないよ。近藤さんなら男子の友人だっていくらでもいるでしょ。これまでずっと女子校にいたってわけでもないんだろうし」
「問題はそこじゃない。千尋、あんたはどうして目をそらすの?どうして気づけないの?それじゃあどこかの物語の鈍感主人公そのものじゃん」
「……僕が、鈍感?」
「鈍感以外の何者にも見えない」
断言して、それからふっと、あきらめたように笑った。その笑みは、なかなか僕の中から消えなかった。
鈍感。それは、何度も何度も僕に近藤さんとの仲を聞いてきたことと関係があるのだろうか。
僕と近藤さんは友人だ。たぶん、好きじゃないかとか言いたいんだろうけれど、そんな感情はない。はっきり言える。
こう、心がさっぱりしているような感じだった。恋だとか愛だとか、そういう燃え上って、大事で、苦しくて、切ない思いから解放されたような、すがすがしい感じ。
今はなんとなく、恋をする気にはなれなかった。昔は、保育園の先生だとか小学校で分断が一緒だった上級生の女の子だとか、クラスメイトの子だとか、それなりに惚れっぽかった気がするけれど、ただ今はそういう気持ちがじゃなかった。
だから、はっきり言えんるだ。
「僕は、別に近藤さんが好きなわけじゃないよ」
「…………じゃあ、さ。千尋、あたしを見て」
まっすぐ、強いまなざしが僕を見ていた。
雨の中、僕たちは一歩もそこを動かず、互いに互いを見ていた。
どれだけそうしていただろうか。薄暗くなった世界を切り裂く車のヘッドライトと、タイヤが水しぶきを上げる音。それによってようやく動き出した僕は、小さく首を振った。
「ごめん、今はそんな気になれないんだ」
「……それは、近藤がいるから?」
「ううん。ただこう、すっぱり失恋できたみたいな、そんな気分なんだと思う?」
言ってから、どうして失恋なんて単語が出てきたのかと思って首をひねる。
その時、するりと北条さんの腕が僕の手に絡みついた。
「……駅までだから」
うつむきながら告げる彼女は、わずかに涙声だった。
その腕を、振りほどくことはできなかった。
駅前について、彼女は小さく手を振る。その目元は、わずかに赤くなっていた。
祈の口が動く。必ず、振り向かせて見せる――そう、宣言されたような気がした。
背を向けて、駅へと歩き出す。ホームにちょうど電車が入って来たところだったけれど、走る気にはなれなかった。




