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人が恋に落ちる瞬間を見たい  作者: 雨足怜


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22/49

22雨に包まれながら

 図書室。

 静寂に包まれたその空間には、ただ雨が屋根や窓ガラスを打ち付ける音だけが響いていた。

 外の雨はますます激しくなっていて、もう百メートルほど先を視認するのは厳しくなっていた。

 普段は小さく聞こえてくる、紙の上でシャーペンを走らせる音も聞こえない。

 雨音に交じって聞こえてくるのは、図書室に設置された大きな振り子時計が時を刻む音ばかり。

 ふと、見つめた自分の手はもう長いこと止まっていた。集中できなくて教科書やノートを読み返すのから問題を解くのに変えたけれど、だからといって集中できるわけではなかった。

 視線は文字の上を滑っていく。見覚えのあるはずの問題なのに、内容は全く頭に入ってこず、問題を思い出すこともできない。

 それなりに手ごたえを感じられていたはずの化学基礎がひどく自分には遠い存在に思えてきた。

 視線を上げれば、集中を続ける祈の姿があった。

 今日も僕たちは二人で勉強している。近藤さんが一緒に勉強しないことになった時点で、ほかに誰かを誘う気にはなれなかった。近藤さん以外に僕たちの共通した友人はいない。知人止まりな相手をこの場に加えたところで勉強会に集中できるとは思えず、二人だけでいいと思っていた。

 ……誰か、例えば祈の友人の女子がいれば、もう少し勉強に集中できただろうか。

 もう一度問題集へと視線を向ける。頭の中には、やっぱり近藤さんのことばかりがあった。ぐるぐると空回りを続ける思考は、建設的な答えを導かない。小さく頭が痛んだのは、雨のせいか、脱水症状のせいか。

 立ち上がり、顔を向けてきた近藤さんに視線で断りを入れ、水筒をもって図書室の外に出る。飲食禁止なところが図書室の面倒臭いところだった。水分補給の一つにも、一度部屋の外に出る必要がある。

 ひどくのどが渇いていたみたいで、水筒から口がなかなか離れなかった。手を放し、けだるさを感じながら視線の先に広がる窓を見る。

 雨に濡れた窓。土砂降りの世界。この中を、今頃近藤さんの歩いているのだろうか。それとも、電車に乗っているころだろうか。

 ……どうして、僕はこんなに近藤さんのことを考えずにはいられないのだろうか。

 図書室に戻れば、祈は一度顔を上げ、再び自分の勉強に戻った。近くの席でひそひそとささやくような会話がする。上級生だろうか、内容を聞いてもいまいちよくわからない質問のやり取りが飛び交っている。

 目を閉じて、気持ちを切り替えるように小さく深呼吸をして。

 今度こそ、僕は集中して問題集に向き合った。

 雨音が僕の世界から余計な音を削っていく。他者の存在が、僕の中から消えていく。

 殻に閉じこもるように、現実を拒絶するように、僕は無心で問題を解き進めた。

 下校時刻を告げる音に顔を上げる。途端にわずかな物音が戻ってくる。

 すでに図書室の中には、帰り支度を始めた生徒たちが立ち上がる姿があった。

 前の席で祈が大きく伸びをする。近藤さんに比べるとずっと大きな胸元が主張されて――慌てて目をそらしながら、僕は内心で頭を抱えた。

 どうして女子のそれを自然に比較なんてしているのだろう。失礼にもほどがある。

「帰らないの?」

「……あ、うん。帰るよ」

 気づけば祈も帰り支度を終えていて、僕は慌てて机の上に広げていた問題集や教科書を回収して彼女を追った。

 隣に並んで歩きだす。小さくあくびをする図書委員に軽く会釈して図書室を後にする。

 廊下にはもう誰の姿もなかった。

 そのもの悲しさのせいか、なんとなく僕たちは言葉を交わすことなく土間に向かった。

 靴を履き替え、外をにらむ。相変わらず、バケツをひっくり返したように雨が降っていた。

 近く、屋根から続く雨どいから流れ落ちた水が排水溝の金網にぶつかってしぶきを上げていた。傘を手に空をにらむ。足を入れた靴はまだじっとりと湿って冷たかった。

 傘を差し、外に出る。雨の音が強くなる。傘を打つ雨音が、途端に僕を孤独にさせる。

 何かを求めるように隣を見る。そこには、誰もいなかった。

「……祈?」

 背後を振り向けば、傘を開くことなく屋根の下で僕を見つめる祈の姿があった。

 つかみどころのないその顔は、けれどこれまで僕が見てきた中で一番の真剣な顔をしていた。

「ねぇ、千尋はさ」

 ためらうように口を閉ざす。うつむきがちになった北条さんの瞼の先、長いまつげが小さく揺れる。

 形のいい唇が軽くかみしめられる。痛みを、こらえるように。

 顔を上げた祈は、鋭い目で僕をにらんだ。なぜだか、責められているように思えた。

「千尋は、近藤をどう思ってるの?」

「すごく心配だよね。最近ずっと体調が悪そうだし、病気なんじゃないかって気がかりだよ」

「そうじゃないわよ」

 ガス、とコンクリートをたたいた傘の先が重い音を鳴らす。まなじりを釣り上げた祈の豹変に、僕はしきりに目を瞬かせるばかりだった。どうして、僕は祈に、祈にまでそんな目を向けられているんだろう?僕が何かをしたの?おかしなことは言っていないと思うけれど。

 小さく祈の口が動く。その言葉は、けれど雨のせいで僕の耳に届くことはなかった。

 地面を打つ雨がはね、ズボンの裾を濡らす。しみこむ雨水の冷気が足から体を這い上がって、寒気となって背筋を走る。

「……そうじゃ、ないのよ。ねぇ、千尋は、近藤とどんな関係でいるつもり?」

「どんなって、友人だよ」

「……本当に?」

 祈が、ひどく遠く見えた。雨の中と屋根の下。降りしきる雨に隔たれた僕たちはまるで異なる世界の人のよう。祈の考えが、僕には理解できない。僕の思考が、祈には理解できない。

 食い違い――違う、たぶん、僕がおかしい。だって、近藤さんも同じような目を僕に向けていたんだから。同じ、というほど似てはいない気もするけれど。

「もう一度聞くわよ。あんたは、近藤をどう思ってるの?近藤を一人の人間として、どう感じているの?」

「……わからない」

 僕の中で近藤さんは心配な人だ。記憶にあるのは顔色が悪かったり、何かを必死でこらえるような表情ばかり。あとは、その視線は、顔は、僕に向いたものではなかった。

「……あれ?」

 ふと、よくわからない困惑が僕を襲った。その違和感に、指が引っかかる。これまで手ごたえのなかった何かが、僕の中で形になろうとして。

「――その話、俺も聞きたいね」

 そんな声に、思考が妨げられた。

 小さく肩をはねさせた祈が背後を振り向く。

 そこにはどこかけだるげな様子をしたクラス委員長――飯星君が立っていた。


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