20拒絶
梅雨入りした空は真っ黒な雲で覆われていて、朝からしとしとと雨が降っていた。ただでさえじっとりと湿っている空気は、満員電車の中ではさらに恐ろしいものになる。
人の熱を帯びたむわっとした空気の中、必死に吐き気を抑えた。胸に抱きしめた鞄を抱きながら、明日はもう少し早い電車に乗ろうと決意して。
けれどたぶん起きられないだろうなと、どこか現実逃避気味に考えていた。
高校に入って初めての定期テストを控えているからか、教室の中はまるで入学当初のようにピリッと張り詰めた空気になっていた。
朝から問題集を触ったり、ノートを読み返している人の姿が目立つ。
一部のクラスメイトは今日も変わらずに集まってのんびり話しているけれど、その話題もテスト勉強に関することだった。女子クラス委員長の水谷さんたちは、あまりいい点が取れる気がしないとため息を漏らしていた。
多分、その裏ではかなり真面目に勉強しているのだろう。何しろ、水谷さんの言葉には焦りが全く感じられなかった。
そして、それは水谷さんに同意する北条さんも同じだった。
――昨日の帰り道、久徳くんと腕を絡めていた北条さんのことを思い出した。まるで恋人のように近い関係。いや、たぶん恋人なのだろう。
並び立つ久徳くんと北条さんはとてもお似合いに見えた。ひょろりと背が高い久徳くんと、格好いいタイプの北条さん。二人が並んでいる姿はひどくしっくり来た。少なくとも、久徳くんと私が並ぶ姿は凹凸感があるだろう。
社交的で明るい久徳くんと、人見知りで友人も少なく内向的な私。
考えてみれば、本当に正反対だ。久徳くんのような明るさを、臨んだこともあった。人前で普通に話せるようになりたいと望んで、頑張って練習したこともあった。
けれど、いざ人の前に立つと極度の緊張が私の全身を縛り上げて、頭の中は真っ白になって、思うように声が出てこなくなった。
……久徳くんは、かつての私が理想とした人そのものだった。
多くの友人がいて、毎日楽しそうで。人前に立って何かをすることに対する強い拒否反応なんてなくて。
ああ、羨ましい。ずるい。苦しい。
話に夢中な北条さんは、私が登校してきたことには気づかなかった。そのまま、こっそりと席に向かう。こっそり――そうして、どうするのだろうか。だって、私の席の隣には久徳くんがいるのに。
なるべく目を合わせないようにうつむいて席に近づく。
声が聞こえた。席に座ったまま友人と話す久徳くんの声。
鞄の紐を強く握りしめる。
椅子を引けば、久徳くんが私へと視線を向けたのを感じた。
「おはよう」
「……ぁ」
声が、出なかった。これまで、私はどういう風に久徳くんとかかわっていただろうか。どんな風に挨拶していただろうか。普通に、さらりと挨拶していた?笑顔で?無表情で?困ったように?声のトーンは?はきはきとしゃぺっていた?挨拶だけをしていたっけ?そのあとに世間話は?
無数の思考が、私を絡めとる。のどが震える。久徳くんに、視線を向けられない。
「どうしたの?やっぱりまだ体調が悪いの?」
心配そうな声。たぶん声と同じくらい心配そうな顔をしているんだと思う。でも、顔を見られない。見たら、泣いてしまいそうだった。
胸の奥、ぐるぐると渦巻く感情が存在を強く主張する。熱は全身に広がっていって、心臓が鼓動を早くする。
痛いほどに鞄の紐を握って。その痛みに、少しだけ心が落ち着いた。
「おはよう」
「うん、おはよう」
大丈夫だとか、気にしないでとか、もう元気だよとか。
そんな気遣いの言葉はけれどただの一つものどを出ることはなくて。
私は机の上に鞄を置いて、座ることなく久徳くんに背を向ける。
久徳くんが何かを言っていたみたいだけれど、意味のある言葉として脳が受け入れてくれなかった。
教室を出て、足早にトイレに駆け込む。授業まであまり時間がないせいか、トイレには誰もいなかった。
ぐるぐると、視界が回っていた。心が悲鳴を上げていた。お腹のあたりがどんよりと重くて、頭も少しだけ鈍痛がしていた。
「うぅ……」
苦しさを噛み殺しながら、鏡を見て。思わず悲鳴を上げそうになった。
そこには、死にそうな顔をした女子高生の姿があった。
顔からは血の気が引いて、髪はところどころ寝ぐせのようにはね、目の下には隈があり、肌は若干パサついていて、唇は青いうえに噛む動きのせいか一部がぱっくりと割れてしまっていた。
その傷を舐めるように、下唇を軽くかむ。お腹の中でぐるぐるとしているものを、必死にこらえる。
蛇口をひねって水を出し、両手にためた水で顔を洗う。ぬるい水が、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
額に張り付いた前髪を払う。少しだけ、顔付きはましになった気がした。
でもこれじゃあまだ久徳くんに心配されてしまう。でも、心配されないかもしれない。
さっきのアレはなかった。心配してくれているのにお礼の一つも言えなくて、逃げるように久徳くんから離れた。
失望されただろうか。呆れられただろうか。怒っているだろうか。
多分、久徳くんはそんなことは思っていない。彼はそんな人じゃない。
――じゃあ、久徳くんってどんな人?
鏡の中にいる私に問いかける。
久徳くんは、私のクラスメイトで、私に何度か告白してくれたことのある男の子。ひょろりと背が高くて、あまり日焼けはしていない。勉強はできるほう。少なくとも授業で寝ているところや、つまらなさそうにしているところを見ていない……気づけば視線を送っていたから、知っている。
彼は友人が多いけれど、よく話している女子は、私以外には知らない。
妹さんがいて、あとは少し前に助けた女の子に告白されたことがある。
それから……北条さんの恋人。
輪郭が、少しずつ固まっていくようで、けれどひどくあいまいな像しか結ばない。こうして改めて考えると、私は久徳くんのことをあまり知らない。知ろうとしてこなかった。
だって、彼のようないい人を、私の事情に巻き込みたくないから。
彼の想いを、彼の覚悟を、無に帰すようなことはもうごめんだ。
北条さんとなら、彼は幸せになれる。だって、告白されて、それを受け入れたんだもんね。あるいは、久徳くんが告白したのかな?
彼は、どんな風に告白したんだろうか?
君が好きだ?君と一緒にいたい?君ともっと話していたい?隣にいてほしい?一緒に歩いて行こう?
耳の奥、なかったことになった久徳くんの声が響く。覚悟を目に宿した姿が、告白の記憶が、ぐるぐると頭の中で回る。回る、回る。
ぐにゃりと、視界が揺れた。
バランスを崩して、手洗器を支えにしながら倒れこむ。こみ上げる吐き気のままに、吐き出すけれど、酸っぱい胃酸しか出てこなかった。そういえば、朝は何も食べていない。
予鈴が鳴る。
わずかなめまいと吐き気を覚えながら、私は教室へと戻った。
「近藤さん、本当に大丈夫?」
「大丈夫」
今度はしっかりと言葉が出た。
久徳くんと顔を合わせることもできず、前を見ながらだったけれど。
きゅっと、ひざの上で拳を握る。ぐらぐらとしているお腹の中の感情に必死で蓋をしながら、私はただじっと前をにらみ続けた。




