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2自己紹介

 私が大っ嫌いだと公言するものが、この世で三つある。それはダンスとシイタケ、そしてクラス変えの際の自己紹介だった。

 三十人以上の前で端的に自分のことを告げるそれが、私は嫌いだった。

 今後の友人関係を見極めるような視線を向けて来る者、関心のなさそうな態度を示す者、獲物を見定めるような気味の悪い顔をする者。様々な思惑を抱く者たちの中で話すその瞬間が、苦痛だった。

 自分の番が近づくほどに、緊張で体が震えた。今すぐにこの場から逃げ出したかった。

 本当は、学校を休んでしまいたかった。けれど、できなかった。入学式に休むなんて、流石にどうかしている。クラスになじめないし、仲の良い友人だってできないだろう。だから私は決死の覚悟で来たのだけれど、時間が過ぎるほどに胃がしくしくと痛んだ。

 前の席、久徳千尋が立ち上がる。次は、私の番だ。

「回陽中学から来ました、久徳千尋です。趣味は読書と……音楽を聴くことですかね?最近は洋楽にはまってます。ミステリーが好きな人はぜひ声を掛けてください。好きな教科は国語です。中学時代進路が中々決まらなくて困ったので、高校では将来に向けての情報収集を積極的にしていきたいです。これが抱負ですかね?一年間よろしくお願いします」

 慣れた様子で挨拶をした久徳くんが座り、私の番がやって来た。

 拍手が小さくなると共に、私は席を立つ。椅子を引く音が、やけに大きく教室に響いた気がした。

 拍手が止まる。痛いほどの静寂が教室に満ちる。震えそうになる体を抑えるように、片腕をぎゅっと握り、黒板を睨む。大丈夫、今年は話す内容が決まってる。名前と出身校と、趣味、得意教科、そして一年間の抱負――あれ、でも久徳くんはさっき名前を言わなかったような、いや出身校と順番を変えた?じゃあ私もその順番にした方がいいのだろうか?だとすると後の内容は――

 パニックになった私の頭から、用意した言葉が抜けていく。一秒、二秒と、時間が過ぎる。刺すような視線が強くなる。

 早く、早く、何か言葉を――

「わ、わたっ」

 ひどく裏返った声が出た。恥ずかしさで、頬が熱を帯びた。駄目だ。何も考えられない。今すぐこの場から逃げ出したい。大体自己紹介という文化が嫌いだ。名乗りたい人だけが勝手にクラスのみんなの前で話せばいいのだ。私の自己紹介を聞いてる人が、一体クラスにどれだけいることか。時間の無駄。やるだけ無駄。だからさっさとこんな習慣は廃止してしまえ――

 泣きそうな思いで必死に次の言葉を探す私の耳に、コンコン、と机を指で鳴らす音が響く。わずかに視線を上げれば、そこには私の方を見た久徳くんがいて。

 が、ん、ば、って。

 パクパクと口を動かす彼を見ながら、私は大きく息を吸った。

「近藤奈津、東中出身です。趣味はランニング好きな科目は理科系勉強頑張ります」

 言えた――達成感と、それを上回る失敗の絶望と羞恥、さらには極度のあがり症だとクラスのみんなに思われたことで、私は頭がいっぱいになった。

 そんな私の脳裏に、パクパクと口を動かす久徳くんの姿がよぎった。

 がんばって――聞こえぬ声が聞こえた気がした。

 とん、と軽く肩に手が触れた。ゆっくりと伏せていた顔を上げて正面を見る。

 すぐ目の前に久徳くんの顔があって、私は息を飲んだ。近くで見ると久徳くんはとても睫毛が長くて、そしてうらやましいほどきめ細やかな肌をしていた。頬はやや赤く、つやめいた唇がゆっくりと、小さく言葉を紡ぐ。苦笑の気配の混じった拍手の中、彼の声はするりと私の耳に入った。

「お疲れ様。大変だったね」

 涙が出そうだった。慌てて視線を逸らそうとしたけれど、再び開いた久徳くんの口に、私の視線は吸い寄せられた。

「近藤さん、すごく格好良かったよ。僕、君が好きだな」

 突然の言葉に、息が止まった。何を言っているんだ、と思った。こんな、多くの生徒がすぐそばにいる場所で――

 下世話な視線を感じた。針のむしろ。今すぐに逃げたいほど、顔が熱かった。嫌だ、やめて、こんな、晒し者みたくなるなんて望んでいない。

「……やだ、違う」

 か細い声でそう告げた次の瞬間、ピシ、と視界に線が走った。

 その線は急激に増えていき、線が交わってできた小さなかけらが、はらりはらりと剥落していく。

 やがて視界は真っ暗になり、次の瞬間、私は真っすぐ前を向き、自己紹介をしている久徳くんの背中を見つめていた。

「……は?」

 私の困惑の声は、拍手に掻き消される。

 何が起こったのか――また時が戻ったと、そう理解した時には拍手の音は止んでいた。

「次の人」

 先生に急かされ、私は慌てて立ち上がった。

「近藤奈津、東中学校から来ました――」

 時間が巻き戻ったことで頭がいっぱいになっていた私は、無意識のうちにすらすらと自己紹介していた。他の生徒と変わらないくらいの音量の拍手が響いた。私の方を見ていた久徳くんは、目礼だけを私にした。私もまた、視線を下げて返した。

『すごく格好良かったよ――』

 久徳くんの声が聞こえた気がした。

「……あれ、私無駄に二回も自己紹介するはめになった?」

 人生の黒歴史が消えたことを喜ぶべきか、二度も自己紹介したことへの恨みを述べるべきか。とはいえ時が巻き戻ったことに意識を持っていかれていたために二度も恥ずかしい想いをすることがなかったのは良かった。

 ぶつぶつとつぶやきながら、私は先ほどの一幕について考えた。あがり症なヒロインがヒーローに促されて自己紹介をする。そんな文章を、もうずいぶん前に書いた気がした。

 過去の小説をあさろうとスマホを手に取ったところで、わ、という声と共に背中から誰かが抱き着いてきた。ちらりと視線を向ければ、中学からの付き合いである柚木野江がそこにいた。

「野江?」

「どうしたのナッツー。いつもは緊張しいなのに、今日は一回も詰まることなかったじゃん」

「ん?あー、他事考えてたからかな?なんかするっと言葉が出たよ」

「そっかー。じゃあこれで攻略法ゲットだね。いやぁ、ナッツーもとうとうあがり症克服かぁ。緊張のせいで目が潤んで、顔が真っ赤なナッツーがもう見られないと思うと寂しいよ」

「私だって本当に困ってたんだからね?」

「分かってるって。私だって流石に全校生徒の間にでも立てば頭が真っ白になるからねー」

 嫌だ嫌だとそう告げる野江は、中学時代に学年の生徒全員の前で発表をしたことがあった。彼女曰く「あんな苦行二度としない」だそうだ。私も、絶対にそんなことしたくない。平然とみんなの前で発表できる人達は、心臓に毛が生えているんじゃないだろうか。あるいは、私と同じように緊張しながら、それでも緊張を飼いならして臨んでいるのだろうか。

 緊張を飼いならす?できる気がしない……。

「それでナッツーは何を考えてたの?じっと前を見てたよね?……あ、ひょっとして久徳君のこと?彼イケメンだよね!」

 ぴょんと跳んで私の背中から離れた野江は、私の前の席を見る。トイレに行ったのか、そこに久徳くんの姿はなかった。

「そう?ひょろもやしって感じだけど」

「ひょろもやし……」

 なじみのない、けれど聞き覚えのある声が聞こえて、私は慌てて背後を振り向いた。そこには、苦笑を浮かべる久徳くんの姿があった。

「あ、ええと……ごめんなさい。その、いい意味で、背が高いって」

「うん。分かってるよ。自分でもインドア派だって思ってるし、日焼けをすると肌が真っ赤になって痛いから日焼け止めを塗ってるしね」

 困ったように告げる久徳くんは、そのまま私の横を通って席に着く。私の視線は彼を追い、その最中にによによと笑う野江の姿を捉えた。

「野江~?」

 謀ったな、という恨みを込めて睨めば、彼女は楽しそうに笑いながら私の肩をぽんぽんと叩いた。久徳くんよりも遠慮のない、強い動きだった。

「楽しくなりそうだね!」

 いじりがいがあるという副音声が聞こえてきそうな野江の言葉に、私はがっくりと肩を落とした。


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