19目撃
その姿が目に入ったのは、偶然だった。
私は、時間をつぶすために教室に残ってテスト勉強をしていた。人気のない教室は、普段とは全く違った空気に包まれていて、どこか居心地が悪かった。
誰もいない教室、吹き抜ける風にカーテンが揺れる。わずかに汗ばんだ額をぬぐう。
問題集を解き進めながら、けれど私の頭は問題以外のことでいっぱいになっていた。
理解不明な超常現象のこと、友人だと言ってくれる北条さんのこと、倒れたこと、心から心配してくれて無事を確かめるように抱き着いてきた野江のこと、そして久徳くんのこと。
たくさんのことが頭の中でぐるぐると回り続ける。その思考が加速するほどに、問題を解く速度は反比例で遅くなっていく。
今日で化学基礎の問題集を終わらせてしまう予定だったのに、まだ予定の二割も進んでいない。日々コツコツと進めていないのが悪いのかもしれないけれど、この調子だとテスト当日までに問題集を終わらせることができるかもわからない。
まだテストまでにやらないといけない数学と日本史の問題集があるし、そもそもテスト勉強をしないといけない。このままだとかなり点数が低くなりそうだった。
まあ、低くなったところで何かがあるわけでもない。
「……ふぅ」
集中力が完全に切れているのを感じて、ペンを置いて体を伸ばす。天井に向かって組んだ両手を伸ばし、椅子にもたれかかるように背後へと体を倒す。ぱきぱきと背中が鳴った。
腕を下ろし、手首を軽く回しながら気づけば私の視線は久徳くんの席へと向いていた。そこには当然、誰も座っていない。すでに久徳くんは帰っている。
グラウンドから聞こえる声が、やけにむなしく教室の中で響いた。
同時に、私の口からため息が漏れる。
もう一度ペンをとるけれど、気が乗らない。
あきらめて問題集を閉じ、普通にテスト勉強を始めることにした。
教室で声を出すのは恥ずかしいから、口を動かすだけにとどめてノートの書いた内容を思い出す。国語はとりあえず板書を完璧に覚えておけば七十点はかたいと思う。高校のテストは初めてだからあまり油断はできないけれど。
国語、社会、英語、と文系科目を続けていれば、校内放送が鳴り始めた。完全下校時刻を知らせるアナウンスを聞いて我に返るくらいには、私は勉強に熱中していた。
硬くなった体をほぐし、カバンの中に荷物を積める。一応家で勉強するために教科書やノートを持ち帰る。……多分、勉強できないけれど。
「よし」
忘れ物がないことを確認してカバンを腕に下げる。重くて、その場に倒れそうだった。
ふん、と力を入れて歩き出す。誰もない廊下に、私の足音だけが響く。電気の消された廊下は、西日に照らされて不思議な雰囲気を放っていた。どこか神聖で、同時に怖くもある、寂しげな廊下。
誰もいない下駄箱で靴を履き替え、カバンを肩にかけなおしてのろのろと歩き出す。
青々と枝葉を広げる銀杏並木を横に、車通りの多い道を進む。
駅まではそれほど遠くはない。それでも、早く電車に座ってカバンを下ろしたいという思いが、私の足を速めた。
そんなこと、しなければよかった。
早くも泣き出したセミの声に顔を上げる。駅まで続く一本道。その先に同じ高校の制服を着た男女の姿を見つけた。
わずかな既視感に目をこする。心臓が大きく跳ねた。
「……嘘」
並んで歩くのは、久徳くんと北条さん。仲睦まじげに話す北条さんの横顔に、それに相槌を打つ久徳くんの真剣な顔に、胸が締め付けられる。
胸元にあてた手で服を握りながら、私は二人から目をそらすこともできず、立ち止まることもできずにその背を追う。
その時、北条さんが久徳くんの手を握った。指を絡め、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべて、久徳くんを引っ張るようにして歩き出す。
久徳くんは、その手を振りほどかなかった。背中しか見えない彼が何を考えているのか、本当のところはわからない。けれど多分、まんざらでもなさそうな顔をしているのだろうなと思った。
北条さんはすごく明るくて、どこか男らしくて、格好良くて、楽しい人だと思う。根暗で、人見知りで、臆病で、うじうじ悩んでいるような私とは違う。
久徳くんには、北条さんのような人がお似合いだと思った。
西日を浴びながら並んで歩く二人の背中は、一枚の名画のように見えた。
心の中に、どす黒い感情が湧き出す。
どうして、と悲鳴が響く。
私が好きだと言ってくれたのに。何度も何度も、好きだって、そう言ってくれたのに。
ねぇ、久徳くんは私が好きじゃなかったの?何度も告白するくらい、私という人間が彼の琴線に触れるような存在だってことじゃなかったの?
久徳くんは何を考えているの?私のことが好きだっていうのは、本当だったの?それとも、好きだったけれど、今はもう私のことは好きじゃないってこと?今の久徳くんは私に恋に落ちていなくて、北条さんを好きになったの?
ねぇ、振り向いてよ。私を見てよ。何か言ってよ。
視界がにじむ。最後まで陰ることなく照り付ける日差しが、万華鏡のように視界の中で輝く。
少しずつ、歩みが遅れる。久徳くんたちの背中が遠くなる。
いかないで、私を置いていかないで。一人にしないで。苦しいよ。つらいよ。悲しいよ。ねぇ。
手を伸ばす。頬を涙が伝う。
その手は彼に届くことはなく、気づけば私は歩道の真ん中で立ち止まっていた。
スピードを出した車が横を通り過ぎていく。セミの鳴き声はぴたりと止まり、梢が鳴る音が耳朶を打つ。
「嫌だよ、久徳くん……」
こぼれた本音は、誰にも届くことなく梅雨前の湿った風にかき消される。
そこにはただ一人、運命か、あるいは神か何かに弄ばれた道化師が立ち尽くしていた。