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18勉強会

 喧噪から遠い学校の奥。四階の角にある図書館はあまり人気がなかった。

 定期テストが近いとはいえ、図書館の自習室にいるのはせいぜい五名ほど。雰囲気からして二年生や三年生。あたしたちは少しだけ浮いているような気がした。

 それでも、千尋と一緒に勉強をするのだと思えば、すぐにそんな心配は吹き飛んだ。

 ひょろりとしていて、少しだけ色白の千尋があたしの対面の席に座ってさっそく教科書を開く。

 あたしもまた、テスト範囲かつ課題でもある数学の問題集を開く。

 国語は何となくで解けるけれど、数学は苦手だ。あとは理科も微妙だ。社会はやる気になればできる。英語は……若干あきらめモードだ。リスニングが鬼門だったけれど、図書館では勉強できない。

 ペンが紙面の上をすべる音だけが聞こえる。すでにテスト週間に入っていて部活動は禁止されているけれど、例外もある。グラウンドでは大会が近い部活が最終の追い込みをしていた。

 業後しばらくすれば校舎内からも人気が消え、聞こえてくるのはわずかな掛け声のみ。静まり返った図書館は、あたしには少しばかり居心地が悪かった。

 ちらと久徳を見る。うつむきがちなその顔で、長いまつげが揺れていた。力強い瞳の輝きを思い出して、少しだけ鼓動が大きくなった気がした。

「……わからないところがあった?」

「あ、そう。ここなんだけど……」

 前に身を乗り出して問題の一つを指さした。わからなかったのは本当だ、けれど少し親権に考えればわかるような気もした。

 千尋の顔が大きくなる。視界いっぱいに映った顔。柔らかそうな唇からかすかな息が漏れる。

「ああ、これはね――」

 ささやくように言葉が紡がれる。わずかに首元にかかる息がくすぐったい。きっと今、あたしは顔を真っ赤にしているだろう。千尋の声があたしの体にしみわたり、全身に多幸感が満ちる。

 ああ、幸せだ。楽しい。こんな時間がずっと続けばいいのに。

「わかった?」

「多分大丈夫」

「そう、よかった」

 それだけ話して、千尋は再び勉強に戻る。わたしも、再び問題を解き始める。

 千尋の言葉は全く頭の中に入っていないはずだった。ただ、声の響きだけであたしは腰砕けになりかけていた。

 けれど、思い出そうとすれば頭の中で千尋の声が再生された。一言一句変わりないその声が、あたしに解き方を指導してくる。

 ペンを走らせる。気づけば問題は解けていて、けれど繰り返される千尋の声は消えない。

 次の問題を解き進めながら千尋のことを考える。千尋は、あたしのことを女だと意識してくれているだろうか。

 こうして二人きりで勉強に付き合ってくれているのだから、少しは意識しているのではないかと期待したい。けれど、こう、千尋はほかの男子とは少し違う気がする。

 こうしてあたしが誘っても、千尋は舞い上がるような気配を見せなかった。ただ、頼られたからには応えたいという、そんな責任感で動いているように思えた。

 まだまだ、千尋の中にあたしはいない。だから、もっと一緒にいる時間を、思い出を積み上げないといけない。そうすれば、きっとすぐにでも千尋はあたしを意識してくれるだろう。

 身だしなみには気を使っているし、ばれないくらいに化粧もしている。手入れだって欠かしていないし、体系を維持するために運動だって欠かさない。

 あたしは、自分に自信がある。少なくとも自分の容姿には誇りを持っている。

 だから、大丈夫。きっと千尋はあたしに応えてくれる。

 そう、思いたかった。


「今日はありがと」

「気にしないで。僕もすごく勉強がはかどったよ。これはいい成績がとれるんじゃないかな」

 冗談めかして告げるけれど、たぶん千尋はあたしと勉強しなくてもしっかり対策をしていただろう。今日だって、すでに問題集は解き終わっていてノートに二周目を解き進めていた。あたしとは始めからして違う。

 昔のあたしだったら、そんな千尋のことを「がり勉」だなんて評価していたかもしれない。けれど今は、そんな真面目なところもいとおしく思える。

 恋は人を変える。その価値観の根本のところから、あたしは変わっている。今は、千尋のすべてが受け入れられると思った。

 二人並んで歩きながら、揺れる千尋の手のひらを見る。ここであたしが手をつないだらどう思うだろう。さすがに少し早すぎだろうか。嫌悪されるのは嫌だ。恥ずかしがってくれればいい。嬉しそうに笑ってくれたらもういうことはない。

 わずかに伸ばして、けれど触れることはできなくて。そんなもどかしさすら愛おしかった。

「明日からも一緒に勉強しない?あたし、ああいう場所じゃないと勉強できる気がしないし、見張っていてくれると嬉しいわ」

「んー、そうだね。……いいよ。僕も図書館での勉強はすごくはかどったし。そうだ、ほかに誰か勉強会に誘うのはどう?例えば共通の友人の近藤さんとか」

 ここは、反対すべきだろうか。反対したい。千尋を独り占めできる時間を失いたくない。けれど、ここで断固反対するというのは、独占欲の強い女だと思われるかもしれない。

 それは嫌だ。

「いいけど、近藤だけだと男子一人じゃない?」

「そうだね。じゃあ仁を誘うかな」

「お、クラス委員長。じゃあ女子クラス委員長も……って言いたいところだけど、ミズはダメかなぁ」

 まだ微妙な空気だし、そもそも水は飯星が苦手だって話していた。嫌いな相手と勉強させるために呼ぶのはダメだろう。男女二対二でいいでしょ。

「それじゃあ明日は四人で勉強しようか。……ああでも、近藤さんは大丈夫かな。最近すごく体調悪そうだし、倒れちゃってたし」

「あー、近藤は寝不足だって言っていたけどなぁ。寝不足で倒れるって相当じゃない?」

「だよね……」

 遠く、西日を浴びる高い建物を見ながら千尋が吐息を漏らす。その背中にある寂寥を払うように、手を伸ばす。

「え?」

 手を握って。困惑した声を無視して、あたしは千尋と指を絡める。

 恋人つなぎをして、一歩前に出て千尋を見る。

 あたしだけを見て。近藤を心配する千尋も格好いいけれど、今はあたしだけを見て。

 そんな思いが伝わったのか、千尋はわずかな吐息を漏らして、あたしに引っ張られるままに歩き出した。

 駅が近づいてくる。千尋は確か、あたしとは逆向きの電車に乗る。

 別れの時を予感しながら、あたしは赤くなった顔を隠すように前だけを向いて他愛もない話を続けた。


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