16友人たち
誰かが、私を笑っていた。
誰、ねぇ、あなたは誰なの?
尋ねても答えは返ってこない。ただ異様な哄笑だけが響く。
ケケケケケ――
ヒッヒッヒッヒ――
おどろおどろしい洋館にでも迷い込んだような気持ちで、私は闇の中へと目を凝らす。そこに、誰かが、何かがいるのを感じていた。
近づこうと足を動かすけれど、私の体は一向に進んでくれない。水の中を歩いているような、そんな抵抗感があった。
全身を使って空気を掻き、前へと進む。その先にいる何かへと、手を伸ばす。
ギョロリ――闇の中、黒一色の世界においてもなお黒い「目」が私を捉えた。
息が止まった。心臓が激しく鼓動を刻んだ。
見てはいけないものを見てしまった気がした。体はひどく震え始める。
今すぐに逃げなきゃいけない。なのに、体が動かない。見下ろして、気づく。私の体は、そこにはなかった。
目の下、闇の中で赤く避けた口が私を笑う。
『告白され続けて満足か?』
あなたが、あの言葉を送ったの?ねぇ、あなたは誰?どうして私にこんなことをしているの?
神様?妖怪?あなたは何者なの?
それが笑うのを止める。何かが、闇からあふれ出す。
一切の光のない虚無が、私を包むように襲い掛かって――
そこで、目が覚めた。
「……ッ!?」
目を覚ましたら、目の前に久徳くんの顔があって思わず息が止まった。私の顔を覗き込むように間近で見ていた久徳くんがまつげを揺らす。男の子のわりに長い。
なんでこんな近くにいるの?ねぇ先生、止めてくれなかったの?間違いなく寝顔を見られたよね。
恥ずかしい。
つややかな唇がゆっくりと開く。わずかな吐息が私の耳朶に響き、鼓動が跳ねた。
「うなされていたけれど気分はどう?」
「……大丈夫」
なんか、大丈夫ばかり言っている気がする。
高鳴る心臓を抑えるように胸元にかかった布団を握る。心配げに揺れる久徳くんの瞳から目をそらすように、目を瞑る。
『告白され続けて満足か?』
声は、まだ耳の奥に、頭の中に残っている。残響が強くなる。罪悪感が増していく。
久徳くんに、全部話してしまいたい。辛い。
もし、これからも久徳くんが私を好きになったとして、私はそのすべてのなかったことにする。ごめんなさいと返事をするわけでもなく、久徳くんの感情自体がなかったことになる。
それは、ひどく寂しい。ひどい裏切りだ。
ねぇ、久徳くん。もし私が、何度か回帰しているって言ったら、あなたはどんな反応をするのかな。
驚く?嘘だと笑う?どうしてそんなことが起こっているのか理由を尋ねてくる?
目を開く。どこまでも真摯に私に向き合う彼は、私の言葉を嘘だと一笑に付すことはないだろう。でも、それでも、もしもという思いが私をつなぎとめる。
もし、久徳くんに完全に拒絶されたとしたら……
「本当に大丈夫?」
ぼうっとしていたからか、久徳くんがもう一度尋ねてくる。大丈夫だと、そう言おうとして。けれど今度は、唇がわななくばかりで言葉が出てこなかった。
言わないと、言わないといけないのに。それなのに言葉が出てこない。
心配をかけちゃだめだ。秘密に気づかれちゃだめだ。
それ、なのに。気づいてと、踏み込んできてと、そう願う気持ちがあった。尋ねてと、無理やり聞き出してと、私は久徳くんに心の中で呼びかけていた。
強く、強くこぶしを握る。痛みに、少しだけ「私」を取り戻す。
「……大丈夫、だから」
自分でもわかるほど、その声は弱弱しくて震えていた。
それ以上の追及から逃れるように、視線を窓のほうへと向ける。曇りガラスの先、まばゆい陽光に目を細める。
気づけばだいぶ暑くなっていて、早くも夏の訪れを感じずにはいられない。
汗ばんだ制服を隠すように布団を掻き抱いて頭を隠す。
「……ねぇ、本当に抱えきれなくなったら話してよ」
くぐもった声が聞こえた。
丸椅子がきしむ。立ち上がった久徳くんが離れていく。
扉を開閉する音。足音が遠ざかる。
養護教諭の女の先生が文字を書く音とアナログの掛け時計が時を刻む静かな音だけが聞こえてくる。
「……うぁ」
熱くなる目じりに力を籠める。きゅっと目を握っても、心の中で暴れる思いは少しも小さくなってくれない。
……もう、いやだよ、こんなの。
そう泣き言を漏らすことは、私にはできなかった。
結局午前中を保健室で過ごすことになった。お昼が近づいてくるにつれて空腹が私の神経を逆なでした。そういえば朝ご飯を食べていない。
倒れたのは朝食を食べなかったからだろうか……それは嫌だな。食い意地が張っているみたいだ。
がらりと保健室の扉が開く。先生と話す声には聞き覚えがあった。
「近藤、体調はどうだ?」
勢いよくカーテンを開いた北条さんが尋ねてくる。
久徳くんが来た時からまたしばらく寝ていたおかげか、だいぶ体は軽くなっている。やっぱり寝不足のせいだ。そうに違いない。……私は何に言い訳をしているのだろう。
「すっかり良くなったよ。昨日寝れなかったせいかな」
「いや、睡眠不足で倒れるってよっぽどだろ。倒れた時に頭とかぶつけてない?」
頭に触れてみる。どういう倒れ方をしたかはわからないけれど、ひとまずたんこぶができているようなことはなかった。
そっか、私、倒れたんだっけ。今更思い出して、少しだけ怖くなった。
「……うん、痛くないよ」
「そりゃあよかった。……柚木がすごい心配してたぞ。保健室に様子を見に行ってもまだ寝てたって。今の近藤以上に真っ青な顔しているから無事なところを見せてやらないとな」
そっか、野江も来てたんだ。
心がぽかぽかと温かくなる。久徳くんも、野江も、近藤さんも、みんな私を心配してきてくれた。私のことを心配してくれる人がいる。それだけのことで、もう胸がいっぱいだった。
「……様子を見に来てくれてありがとう。すごくうれしいよ」
わずかに目じりに浮かんだ涙をぬぐう。気恥ずかしさをごまかすように告げれば、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。
多分、照れている。耳がわずかに赤い気がする。
「ったく、あたしのことはいいんだよ。ほら、元気になったら早く教室に戻るぞ」
「わ、待って、制服のしわをのばさせて」
軽く身だしなみを整えてから、上履きをはいてベッドから降りる。
特に体に違和感はない。確認をしていた私を、北条さんはじっと見ていた。
「……そういえば、久徳も見舞いに来たんだったな」
「え、あ、うん。ちょうど目が覚めた時に会ったよ。久徳くんにもすごく心配かけちゃったみたいだから謝らないといけないね」
「そうだな。あいつもたいがい青ざめた顔していたからな」
何かを考えるように床の一点を見つめていた北条さんが顔を上げる。まっすぐに私を射抜くその眼には、強い輝きがあった。
「なぁ、近藤――」
「あら、起きたの?」
北条さんの言葉は、先生の声にかき消された。私の体調を軽く確認した先生に太鼓判を押されて――ただし体調が急変したらすぐに言うことと口を酸っぱくして言われた――保健室を出た。
「……さっき、何を言おうとしていたの?」
北条さんが聞きたかったことを予想できていながら、私は何もわかっていないふりをして尋ねた。
北条さんは、質問を繰り返すことはなかった。
「別に」とそれだけ告げて、私の数歩先をすたすたと歩いていく。
伸ばしかけたその手を下ろし、私は慌てて彼女の後を追った。