14自覚
更新が開いてしまいすみません。
「おはよう……って大丈夫!?すっごく顔色悪いけど?」
「おはよう。そう、かな?あんまり寝れなかったから」
朝から元気のいい野江に、けれど私は苦い顔を返すばかりだった。
頭の奥で鈍痛が絶えない。体がひどく重い。
昨日の夜に目にした一文が絶えず頭の中で巡っていて、眠ることができなかった。頭を布団で隠して全部忘れてしまおうとしても、ぐるぐると思考が空回りを続けた。
泡沫のように無数の感情が浮かんでは、行き場を見失ってしぼんでいく。不安と恐怖に駆られた眠れぬ夜は長く私を苦しめた。
寝不足と体調不良のせいで今日の私は絶不調。
その一部は花粉症の薬を飲んだせいかもしれない。イネ科の花粉が舞い始めていた。
若干ひんやりした野江の掌が私の額に触れる。ふっと、張り詰めていた緊張の糸が切れた気がした。
体から力が抜ければ、どっと疲労が襲ってきた。睡魔はまだ遠い。けれどそう遠くないうちに眠ってしまいそうだ。今日の授業の内容は全く頭に入る気がしない。
わずかに跳ねた野江の髪が視界で揺れる。健康的な肉つきをした腕が視界を覆っている。早くも衣替えをして半そでになっている野江の白い腕がなまめかしい。
「熱はないね」
「うん。ただの寝不足だから大丈夫だよ」
「そう?でもどうしても辛かったら行ってね。保健室に連れて行くから」
保健委員としての使命感ではなく、友人として心から心配する声音。
もう一度、確認するように私の額に触れた野江は、友人たちが集まる一角へと歩いていく。その背中を見送ることもなく、私は体を投げ出すように机に伏せる。
机の冷気が心地いい。熱を帯びた頭を冷やす。
今日は、友人つきあいをする気力はない。特に中身のない会話を続けられるほどの余裕が今の私にはない。
孤高を気取ったいやな奴だと思われるだろうか。ボッチだと、そう認識されてしまうだろうか。
その時、男子たちのあいさつの声が聞こえてきた。教室に入ってきたクラスメイトの声が、喧騒に満ちた教室の中にあってするりと私の耳に飛び込んでくる。
落ち着いた、男の人らしい声。
――久徳くんの声。
「……おはよう。どうしたの?」
頭上から声が響く。そっと、真綿で触れるような、ささやくような声。
喧騒にかき消されてしまいそうなそれは、けれど確かに、そこに込められた思いを私に届ける。
机の上に投げ出していた手をわずかに上げる。大丈夫だと、そう証明するように。
「ん、眠いだけ。……おはよう」
顔を上げることもせずに挨拶を返す。
頭の中、どこか心配げに、きゅっと眉間に力を込めた久徳くんの顔がありありと思い浮かぶ。きっと、今の彼はこんな顔をしていると思う。
ああもう、私の友人は優しい人ばかりだ。
心配をかけたくない。これ以上、久徳くんを私の事情に巻き込みたくない。
同時に、すべてを打ち明けてしまいたいという思いもあった。彼の知らない彼のことを、告白のことを、私が巻き込まれる超常現象のことを語ってしまいたい。そうすれば、少しはこの肩の荷も下りるのではないかと思って。
けれど、できない。これ以上、彼を巻き込みたくない。
心が悲鳴を上げるように、心臓が小さく痛んだ。その痛みを抱えるように腕を組んで頭をのせる。
すぅっと、世界の音が遠くなる。まどろみの中、もう一度「大丈夫?」と久徳くんの声が聞こえてきた。
その声に何かを返す前に、私は急速に襲い掛かる睡魔に飲まれた。
体を揺さぶられて意識を覚醒させる。
気づけば担任が教卓に立っていた。まだ始業の鐘は鳴っていないらしく、教室には喧騒が満ちていた。
無数の声の波にくらりときた。小さくかぶりを振る。
「ありがとう」
「いいよ」
起こしてくれた久徳くんにお礼を言ってから、私はまだ頭に残る眠気を、首を振って追い払う。
軽く頬をはたく。少しだけ驚いたような気配が隣からした。
「気合が入っているね」
「違うよ。ただ眠気を覚ましてるだけ」
「そう、かな。少し、いつもと違う気がするけれど」
いつも、と、違う。
その言葉をかみしめながら、私はまっすぐ久徳くんへと視線を向ける。
気遣うような優しい瞳が私を映す。対して目立たない、平凡な容姿。けれどその顔は、時に覚悟を宿して凛々しくなる。
そんな彼の覚悟は、すべて無駄になっている。なかったことになっている。
不義理を働いている私を、彼は知らない。私の罪の意識を吹き飛ばすように、彼は少しだけ安堵したように息を吐く。
鐘が鳴る。今日という一日の始まりを告げるチャイム。
久徳くんが教室の前方へと向く。
小さく、胸が痛んだ。
その目に、ずっと私を、私だけを映していて――心に浮かんだ言葉に罵声をまき散らしながら、私もまた久徳くんと並んで前を向く。
内心、激しく動揺していた。
私は、今、何を考えた?何を思った?
脳裏に、どこか恍惚とした気配を漂わせる友人(北条さん)の姿がよぎった。まばゆいものを見ているように目を輝かせ、頬は紅潮し、潤む瞳はただ一心に彼を見つめている。
心臓が、とくん、と鳴る。高鳴る。響く。
血潮が、全身に満ちていく。顔が熱い。体が熱い。
心が叫んでいた。この想いから目をそらすなと、叫んでいた。
今にも動き出したい衝動を抑えるように、膝の上で右手を左手で握りこむ。
ちら、と隣の久徳くんの顔を盗み見る。平凡な容姿。けれどその姿はひどく輝いて見えた。
目を閉じる。己の心に問う。いや、尋ねるまでもなかった。
だって私の心は、初めて彼が見せた本気の顔を目にした瞬間からずっと、確かに高鳴っていたのだから。
私は、彼が――
〈告白され続けて満足か?〉
文字が、走馬灯のように瞼の裏を走り抜ける。
瞬間、あれほどに暴れていた熱が体から消えた。震えるほどの寒気に襲われて、思わず腕を抱きしめた。
寒い。怖い。苦しい。
どれだけ振り払おうとしても、ごまかそうとしても、昨日見た文字が私に牙をむく。悪意を持って、私に迫る。
逃げるな、目をそらすな、これはお前が望んだことだろう――声が語る。
体が傾く。視界がふっと消える。
わずかに、衝撃を感じた。
「――さん、近藤さん!」
焦るような久徳くんの声が、どこか遠くで聞こえてきていた。
ごめんなさい。ごめんなさい。不相応な願いをしてごめんなさい。あなたを傷つけることを願ってごめんなさい。
もし、叶うならば――
あの日に戻って、すべてをやり直したい。
そんな願いが届かぬことを知りながら、私は意識を闇の底へと沈めた。