12手当て
北条さんの左手を肩に回し、体を支えてゆっくりと歩く。
汗のにおい。けれどなぜだか、臭くはなかった。やっぱり、美人は汗のにおいまでかぐわしいのだろうか……ってこれじゃあ変態みたいだ。
ゆっくりと、保健室に向かって歩を進める。というか、ちゃんと保健室に誰かいるんだろうか。もしかしたら、私が手当てをすることになるのだろうか。
「……ねぇ、大丈夫なの?」
突然耳元で尋ねられて心臓がはねた。
「あぅあ……その、耳元は、やめて?」
「あ、ああ。ごめんね」
自分が耳が弱いなんて始めて知った。こんなことで知りたくなかった。吹きかけられたこそばゆさと、わずかに聞こえた水音がぐるぐると頭の中で回る。熱い吐息、口を開く際の水の音、漏れる息、耳を震わせる言葉……
「それで、大丈夫なの?」
今度は前を向いたまま北条さんが尋ねてきた。というか、空耳じゃなかったんだ。「大丈夫なの?」なんて、まるで私なんかのことを気遣っているみたいだ。そんなわけないのに。たぶん「あんたなんかに触れていたくないからさっさと離れて」ということを遠回しに言いたかったんだろう。
「……何が?」
「何って、すごく顔色が悪いから。もしかして熱中症?」
「……大丈夫、気にしないで」
びっくりした。北条さんって、意外と人の顔を見る人なんだ。それにしてはさっき、完全に失言を仕掛けていたけど。
もう少し引っ付くようにして、北条さんの左足にかかる体重を減らす。というか、こんなに大げさにするほど痛いのだろうか。
ふと北条さんの方を見ると、目が合った。どこまでもまっすぐな目をしていた。自分に絶対の自信がある人の目。
……私とは、違う目。
「……どうかしたの?」
「いいや……ありがとうな、近藤」
言われて、スッと心が軽くなった気がした。それはたぶん、先ほどなかったことになった出来事のお礼をもらえたように錯覚したから。今のお礼は、きっと肩を貸してあげていることに対してのもの。
錯覚でもいい。夢のようになかったことになったあの時間が、あの勇気が、なかったわけではないと思えるだけで十分だった。
「……私こそ、ありがとう」
「なんであんたがお礼を言うんだよ。近藤って変な奴だな」
「そう、かな?」
首をかしげてわからない振りをしながら、心の中でもう一度お礼を言う。
私に、勇気を出させてくれてありがとう。一歩、前に進ませてくれてありがとう。そんな思いは、きっと北条さんには伝わっていない。けれどそれでもかまわない。
『感謝の言葉は、生きる理由になるんだよ。言う方も、言われる方も』
懐かしい声を思い出した。心の中に沈めていた、痛みを伴う記憶。
(ねぇ、花奈。私は――)
言葉は、続かなかった。どう話しかけていいかもわからない。
少しずつぼやけていく記憶は私の中にある像の輪郭をゆがめていく。
一瞬目を閉じた際、瞼の裏に見えた彼女は、笑っているのか、怒っているのかもわからなかった。
グラウンド脇にある水道で傷口を流す。真っ白な足を水滴が伝って、わずかに血を含んで流れ落ちていく。
赤が、排水溝に消えていく。軽く流し終われば、もう血の匂いはあまり気にならなくなった。
扉を開けば、むわりとした消毒液の匂いが香った。
保健室の中、見える限り先生の姿はなかった。奥にあるベッドのカーテンが閉まっているから、誰かが寝ているのだと思う。だからなるべく静かになるように、そっと中に入った。
少し沈む床を踏んで歩く。黒いソファに北条さんを座らせる。棚へと目を向けて、消毒液と脱脂綿、それからばんそうこう。あとは目についたピンセットを取り出す。勝手に使ってしまうけれど、たぶん大丈夫だろう。
「勝手に使っていいのか?」
「……いいんじゃないかな。先生いないし」
「近藤って意外と適当なんだな」
「北条さんも、意外と模範的なんだね」
顔を見合わせた私たちは、どちらからともなくくすくすと笑った。もっと、怖い人だと思っていた。私とは別の世界に生きている人な気がしていた。野江も、北条さんも、久徳くんも。みんな、私とは違う世界にいるのだと、そう思っていた。みんなの輪の中で生きていける人たち。
けれど、それはきっと、私が勝手に線を引いているだけなのだ。だって、こうして少し顔を突き合わせるだけで笑い合えるから。
ひとしきり笑ってから、私は北条さんの足に残る水気をティッシュでふき取る。下から上へ。拭っていった先、擦りむいた膝から、また血がにじんでいた。
軽やかだった心が、鉛をつけられたように重くなった。胃が震えていた。わずかに、口の中がすっぱかった。
「……どうした?やっぱり体がだるいのか?別にあたしが自分で――」
「いい。大丈夫だから」
勢いのままに言ってから、後悔した。任せておけばよかった。今にも吐きそうなのに、どうして私は北条さんを留めたのだろうか。
恐る恐る、傷口を見る。赤い。赤くて、紅くて、みずみずしくて、少しどろりとしている。命の、液体。血だ。血が、あふれている。あふれていく。
赤が視界に迫る。心臓が締め付けらえたように痛くなった。
北条さんが何かを言っている気がした。自分でやるから、だろうか。けれど声は、まるで水中の中で聞いているようにぼんやりとしていた。
「……大丈夫だから」
果たして私の舌はきちんと回っていただろうか。言いながら、膝下にピンセットでつまんだ脱脂綿を当てて、傷口の少し上に消毒液を垂らす。しみたからか、捕まえている北条さんの足に力がこもるのを感じた。筋肉に包まれた力強い足が、ぎゅっと縮まるような感じ。
脱脂綿で滴る消毒液をぬぐい、大きなばんそうこうを貼る。ふぅ、と吐息をもらして。
吸い込んだ息に、消毒液の匂いに交じって強く血の匂いがした。
「うっ」
胃の中身がこみ上げる。昼食のせいだ。
とっさに視線を巡らせて、流しへと走る。
持久走のことを考えてほとんど食べていなかったからか、胃酸ばかりだった。
涙で視界がにじんだ。すっぱくて、苦しくて、痛かった。
心が痛んだ。声が聞こえた。私を、否定する声。
「大丈夫なの!?」
ふわりと、背中に熱を感じた。声にわずかににじんだうめき声は、きっと勢いよく足を動かしたから。けが人に無理な動きをさせてしまうとか、私は本当に駄目だ。
馬鹿で、平凡。凡人。
「だい、じょうぶ……」
蛇口をひねれば、勢いよく水があふれる。銀色の流しに水滴が散る。
水音が、私の中で渦巻く声を小さくする。
口をゆすぎ、目元をぬぐって顔を上げる。
「大丈夫だから……北条さんは先に行って。あ、一人で、歩ける?」
「…………あ、ああ」
少しだけ、北条さんが悲しそうな顔をしていた。たぶん私は今、北条さんを拒絶した。でも、当然だ。だって、北条さんと私は、今日初めてまともに話したような関係なのだ。
行って、とそう告げるように見れば、私のことを気にしつつも、北条さんはわずかに足を引きずって保健室を出ていった。
大丈夫、あとの種目はハンドボール投げだけ。もう少し、落ち着いたら行くから。
膝を抱え、体操服のズボンに顔をうずめる。汗と砂の匂いがした。
血の匂いは、しなかった。
にじんだ涙が一滴、頬を伝った。
「よしっ」
頬を軽くはたいて、それから視界に映ったカーテンを見て、誰かが寝ていることを思い出した。慌てて息をひそめて、扉に向かって忍び足で進む。
静かに戸を開いて、廊下に出て。
「ッ!?」
扉に背中を預けるようにして立っていた久徳くんが視界に映った。
心臓が口から飛び出すかと思った。バクバクと激しく鼓動し、声にならない鋭い悲鳴が口からほとばしった。
「……どう、して」
「ああ……いや、別に」
どこか硬い声でぶっきらぼうに告げて、久徳くんはなぜか私と並んで歩き出す。保健室に用があったんじゃないのだろうか。
時折、ちらちらと視線を感じた。いつから扉の前にいたのか、何を聞いていたのか。聞きたいことはたくさんあって、けれど口を開けば全く関係ないことを話してしまいそうで、私はきゅっと唇をかみしめた。顔を隠したくて、うつむきながら歩く。
「……つらいなら、言ってくれたらいいのに」
「辛くないよ」
「そう?でも僕には、辛く見えたよ」
久徳くんが足を止める。数歩先に行ってから、私も足を止める。うつむいたまま、ただじっと、久徳くんが歩き出すのを待った。
「辛いなら、苦しいなら、頼ってほしい。話してほしい。僕も、北条さんも、柚木さんも、君に話してほしいと思っているよ」
「……話すことなんてないよ」
久徳くんは歩き出さない。遠く、笛が鳴る音が聞こえた。歓声が聞こえた。
このままだと、ハンドボール投げに間に合わないかもしれない。
「僕は、話すことがあるよ」
その言葉に、縫い留められるように足が止まった。逃げるように、一歩を踏み出そうとして、それなのに、足は動かない。体が、そこに留まることを望んでいるようだった。
熱を感じた。その声に、その気配に、背中に刺さる視線に。
「好きだよ……吐いてしまうほどに血が嫌いでも、誰かのために優しくあれる君が好きだ」
言葉が、私の心にしみる。冷え切っている上に、ひび割れて穴が開いている私という器に、心に、久徳くんの想いが注ぎ込まれる。けれどそれは、穴を通って落ちていく。
ぽたり、ぽたりと、一時はあふれるほどに注がれた想いは消えていく。私の中から、なくなっていく。
空虚だった。むなしかった。私が、好き?そんなわけがない。
痛いほどかみしめていた口を、ゆっくりと開く。
「――私は、私が嫌いだよ」
うつむいたまま吐き捨てるように告げたその時、世界は輪郭を失い、時間が巻き戻った。
「大丈夫なの!?」
悲鳴のような声が聞こえた。瞬きした先、どこか必死な顔をした北条さんと目が合った。
「あ……うん、ちょっと気分が悪いから、自分でやってもらってもいい?」
「もちろん。ここまで運んでくれただけでも十分だって」
私に気遣わせまいとするように、わざとらしいほどに軽く告げた北条さんが、私の何倍も慣れた手つきで手当てをする。そっか、テニス部に入っているんだし、手当てをすることもそれなりにあるんだろう。
あっという間に傷は覆い隠されて、迫るような赤が視界から消えた。
そのことにほっと息を吐いて、それから慌てて呼吸を止める。
五秒、十秒。不思議そうに見つめる北条さんの視線を感じながら、私は壁際に歩み寄って窓を開く。
わずかに蒸した空気が保健室に入り込み、消毒液とわずかな血の匂いを吹き飛ばす。
「……ふぅ」
夏の匂いがした。私の名前の、音の季節。
「大丈夫なの?」
「うん、だいぶ気分がよくなったよ。まだ痛むよね、肩貸すよ」
何かを聞きたそうにしている北条さんを押しとどめるように肩を差し出す。しばらく私をじっと見ていた北条さんは、それからふっと力を抜くように笑って、のしかかるように私の肩に腕を回した。
「お、重い……」
「おお、言うじゃん。まあこの身長差だし、さすがにあたしの方が体重はあるわな。でも、体脂肪率ではあたしの勝ちだろうね」
「…………それは、私の方が太っているって意味?それとも、私は胸がなくて体脂肪率が低いって意味?」
肩に当たる北条さんの柔らかな双丘の感触が、私のささくれだった心をいらだたせる。
「んなもん……両方だな」
「北条さんって、意外とデリカシーないんだね」
「近藤って意外とずばずばはっきりとものを言うんだな」
顔を見合わせた私たちは、再びどちらからともなく笑った。
扉を出た先、わずかな蒸し暑さを感じながら、ふと続く廊下に誰かを探していた。
「……ん、久徳?」
北条さんがその名を口にしたことに心臓がはね、彼女の顔を見て、それからその視線を追った。保健室のすぐわきにある、外へと続く扉。その先に、グラウンドに戻ろうとする久徳くんの姿があった。
「ん、んんー?」
空いている片手を顎に当ててこすりながら北条さんがうなる。なんだかおじさんみたいだ。
それから、大きく目を見張って、途端に頬を染めた。
「ひょっとしてあたしのことを心配して様子を見に来てくれたのか?まったく、涼しい顔して意外とやるじゃん」
動きを留めた久徳くんのもとへと私とともに歩み寄った北条さんは、ばしばしと久徳くんの背中をたたき、まんざらでもなさそうに告げた。
数度目をしばたたかせ、それから北条さんと私の間で視線を行き来させた久徳くんは少しだけ不思議そうに首を傾げた。まるで、自分でもどうしてここに来たのかわからないというように。
それからふっとほころぶように笑って、「そうだよ」と朗らかに告げた。
「……格好いいやつだな」
颯爽と歩き去っていく久徳くんの背中を見送りながら、北条さんがポツリとつぶやいた。その声にこもったわずかな熱に、私は一瞬で感づいた。
恐る恐る、あるいは反射的に北条さんの顔を見た。
朱を帯びた頬。背中を追うその目は逸れることなく、ただ熱を持ってじっと見つめていた。
この日、たぶん私は高校で初めての友達ができて。
その友達が、恋に落ちる瞬間を見た。