11体力テスト
憂鬱な体力テストが始まった。
ただでさえ憂鬱だった時間は、けれど輪をかけた憂鬱なものになった。
私は水谷さんたちの会話を遮るように、あえて音を立てて立ち上がった。そのせいか、どうにも水谷さんたちからの視線が痛かった。私の気のせいかもしれないけれど、こう、背中がぞわぞわして、何か目に見えないものが体に刺さるような感じがあった。
ひょっとしたら寒気があるのかもしれない。熱の可能性がある。ああ、でもここで体力テストを休むというのも嫌だ。だって、休んだら別の日に改めて体力テストを受けることになる。せっかく今朝は朝食を抜いてきて少しでも体重の数値が小さくなるようにしてきたのに。
……あれ、このけだるさと寒気って、ひょっとして朝食を食べていないからだろうか。
そうかもしれない。そうだといいな。朝食を抜いたせいだ。
だからきっと、視界の端に映る、親の仇のように私をにらむ水谷さんの存在は気のせいだ。
水谷さん、怖すぎない?本当にクラス委員長?
ああ、現実逃避はやめよう。今から体重測定。だからそう、水谷さんも気が立っているんだ。
燃え尽きた。この約一週間、頑張った甲斐はあった。さすがに五キロも十キロも痩せたわけじゃないけれど――というか十キロも痩せたらそれはもう完全に不健康なはずだ――、とりあえず目標数値を達成した。心なしかお腹周りも絞れている気がする。
まあ寸胴体系な私が腰を絞ったところで、女性らしさが出るわけではないのだけれど。
体重測定が終わったからか、あるいは時間が経ったからか、水谷さんからの視線は感じなくなった。
(……ん?)
安堵を胸にこっそり水谷さんを観察していた、目が合った。水谷さんと一緒にいる北条さんと。
ちら、ちらちら、と北条さんが私を見てくる。どうしたのだろうか……ってああ、これだけガン見していれば気になるかもしれない。
目をそらした先、保険医さんからバインダーを受け取った保健委員の野江が私の視線に気づいて手を振ってくれる。
ああ、野江はやっぱりかわいい。明るくて人懐っこくて、かわいくて、胸もあって頭もよくて運動もできて、優しくて……あれ、ひょっとして完璧?そういえば、野江の欠点を考えても思いつかない。
せいぜい、少しばかり飽きっぽいところだろうか。あとは、少々薄情かもしれない。だって、新しい友人付き合いがあるからってあまり私と関わってくれない。まあ、野江の友人と付き合うのは精神的に疲れるから、むしろ今の方がいいのだけれど。
大名行列のように続く行列は、身長と体重測定場所である特別教室への入室を待つ同学年のほかの女子たち。やっぱり高校生にもなると、みんな中学以上にあか抜けている気がする。
ふと目が合った中学時代の友人に小さく手を振り返しながら、私は運動種目のために体育館へと向かった。
うん、まあ端的に言えば爆死した。
体育館が滑りやすいのが悪いのだ。だから、反復横跳びで滑って転倒した私は悪くない。
あと、笑うならもっと声に出して笑ってほしい。くすくすと笑われるのが一番堪える。
はぁ、本当に、体力テストは嫌いだ。
少しだけひりひりとした足の痛みを感じながら、私は息を整えながら相方をじっと見つめる。額ににじむ汗を袖で拭う。
持久走。あまり広くない運動場で、女子と男子分かれてぐるぐると回っている。二百メートルトラックを女子が五周。その外側、一周二百五十メートルを男子が六周。女子レーンのさらに内側で、私はクラスメイトともに相手の女子の回数を数える。
私の相方は確か陸上部の子で、そのために運動が得意な人が走るという最後の回に走っている。全部で三回。運動が得意な人、普通の人、苦手な人という自己申告で分けて持久走を行うことで、所要時間を減らすのだ。ちなみに私は普通の人のところで走った。普通という響きがいいと思う。
運動が苦手だと自主申告をするというのは苦痛じゃないだろうか?走ることは嫌いじゃないからいいけれど、人によってはひどくコンプレックスを刺激される気がする。
照りつける日差しのまぶしさに目を細めながら、私はトップ集団の中を走る相方を見続ける。
ふと、その集団の中に北条さんの姿があるのに気付いた。
さすがはテニス部。背も高くて足も程よく筋肉がついてすらっとしたモデル体型なだけあって、歩幅が大きい。それに、なんだかすごく体が安定している気がする。私が走るとたぶんもっとこう、ヘロヘロとした感じになる気がするのに。
ぐるぐると回り、もう五周目。ラストスパートをかけて、相方の足の回転が加速する。ぎゅんぎゅんなんて擬態語がふさわしい加速で、日に焼けた浅黒い肌をさらした足が地面を踏みしめる。そのあとを、必死になって北条さんが続く……負けず嫌いなのだろうか。
一瞬視線を交錯させた二人が、表情にキツさをにじませながらも笑い、さらに大きく腕を振る。一騎打ちの様相を呈したトップ争いに歓声が飛ぶ。私も手に汗を握って二人の競争を見た。
北条さんの白い足が地面を踏む。身長がより高く歩幅的にも勝っているだろう北条さんだけれど、疲労で足が重いからか、あまり歩幅が開いていない。
どちらも互角。最後の直線に差し掛かった時には二人とも並んでいた。
そのまま、競い合うようにしてゴールに飛び込んだ。215秒。……10点だ。
感動のままに拍手をしようとしたその時、ぐらり、と北条さんの体が傾いた。あっ、と思った次の瞬間には、北条さんは足がもつれたまま倒れこんだ。
小さな悲鳴が聞こえた。私もまた息をのんだ。
コースから外れて体操座りになった北条さんの白い膝小僧は真っ赤になっていた。
つぅ、と肌を赤い線が伝う。ぽたりと落ちた血が、地面を濡らした。
きゅ、と心臓が痛む。息がひどく荒かった。目を閉じて、唇をかみしめて呼吸を整える。
大丈夫、大丈夫、大丈夫だから。
言い聞かせているうちに鼓動は落ち着いていて、目を開けばまばゆい陽光が突き刺さった。
光に慣れてきたときには、座り込んだ北条さんに野江が近づき、肩を貸して歩き出そうとしていた。ふと、目が合った野江が困ったように私と北条さんの傷との間で視線を行き来させ、ちょいちょい、と手に持ったバインダーで私を呼んだ。
「……どう、したの?」
近づくほどに心臓が痛んだ。脳が近づくのを拒否していた。こみ上げる吐き気のせいで、口の中がすっぱかった。
「これ、お願い」
渡されたそれは、体力テストの間保健委員が管理している工程表と、記録表を留めておくバインダー。今は記入のためにそれぞれが記録表を持っているけれど、たぶんそれを回収して、ここに書いてある競技のところにみんなを誘導しろということだろう。
みんなの前に立って、みんなを誘導する……?ああ、だから野江はこんな困った顔をしているんだろう。
おおおおお、と歓声が上がる。視界の端、男子の一番がゴールを決めていた。たぶんその人は、この四クラスで英雄扱いされるんじゃないだろうか。特にクラスメイトからは球技大会とかで期待されるんだろう。
「ナッツー?」
「あ、……えと、その、野江。私が北条さんに肩を貸すよ」
「………………大丈夫?」
探るような視線を受けて、体が震えた。目の前にまで近づいたからか、血の匂いがほのかに香った。
……うん、大丈夫だ。見えなければ気にならない。
「保健委員は野江でしょ。私にはわからないし、こっちは野江がお願い」
「そう、じゃあお願い。……北条さん、わたしじゃなくてナッツーに肩を貸してもらって」
「あたしは誰でもいいわよ。肩を借りられるだけで十分だし」
……私では不満だという副音声が聞こえた気がしたけれど、気のせいだろうか。気のせいだ、たぶん。
私より頭一つ分くらい背が高い北条さんに肩を貸すとのしかかられているみたいになる。正直すごく重かったけれど、やるといったからにはやり遂げて見せる。