10仲裁
ゴールデンウイーク。それは至福の日々だ。
学校に行く必要のない一週間ほどの休み。五月頭に訪れる連休は、新学年が始まってからの怒涛の日々の羽休め。
高校に入ってから起こった奇妙な出来事。白昼夢だとか錯覚だとか、そう思えたらどれだけ良かったか。
久徳くんが私に恋に落ちるところを見て、その後時間が巻き戻る。
自分で思い返してみても、馬鹿げていると思う。一時は頭がおかしくなったんじゃないかと、自分で自分を疑った。そんな精神的な疲労のせいか、休日に用もないのに登校してしまう始末だ。
もう末期と言えるかもしれない。
私を襲う不思議現象に頭を悩ませるために、勉強にもあまり手がつかない。開いていた数学の問題集は、数問解いたところで止まっていた。ノートには心の乱れを現わすように、ぐにゃぐにゃとした線が伸びていた。まるでうたたねしてしまった痕跡のようだった。
「…………はぁ」
無意識のうちに漏れた大きなため息は、宿題の問題集の進みの悪さに関してじゃない。それと、呪いのような怪現象のことでもない。
ちらりと部屋の壁に吊るしてあるカレンダーに目を向ける。お母さんが職場から貰って来たシンプルなカレンダー。五月のそこには、第二週にぐるぐると赤い丸がしてある。
それは絶望の日を示したもの。
体力テスト。魔の一日がやってこようとしていた。
体を動かすこと自体は嫌いじゃない。球技やダンスは滅べばいいと思うけれど、個人競技に対して思うところはない。走るのも跳ぶのも柔軟性や筋力測定も、チームメイトに迷惑をかけることを気に病まなくていいというだけで最高だ。
ただし、体力テストの日には同時に身体測定がある。いいや、もっと端的に言おう。
体重測定があるのだ。
高校受験があって、私の外出頻度は著しく落ちていた。もともと余り出歩かない方だとはいえ、前は近くの県立図書館にしばしば足を運んでいた。運動不足解消のために、時折ランニングをすることもあった。朝早い時間、家からニ十分ほど走った先にある緑地公園をぐるりと回るルートは、都会にあって緑さわやかな空気を感じることができるお気に入りの道だった。
とはいえ受験による精神的な疲れは、私からランニングをする気力を奪った。外出する気力すらなかった。
机にかじりつく日々は、私から運動を奪った。そしてプレッシャーは食欲として現れた。
それらがどう作用するか……ああ、もう逃げるのはやめよう。私は太ったのだ。
少し体が重いとは思っていた。あまり顔には出ないタイプだから目を背けていたけれど、特にお風呂で座るときなどは、明らかにお腹周りに肉がついていることを確認できた。
ああ、そうだ。私は太ってしまったのだ。
再び、親の仇のようにカレンダーを睨む。Xデーまでもう一週間もない。たったそれだけの期間で痩せるなんて不可能だ。けれど、このままだらしないお腹を見せるのも、今の体重を測定する保険の先生に知られるのだってご免だ。……まあ、今の体重、なんて言っていても、そもそも怖くて体重計に乗れていないのだけれど。
計らなければ数値として示されることはない。つまり、計るまでは私が太ったという端的な証拠は存在しないことになる。体重計に乗らない限り、私は太った“かもしれない”というあいまいな状況であり続けることができる。それはさながらシュレディンガーの猫のごとく。
私は太っているかもしれないだけだ。太ったわけじゃない。まあ中学二年から身長はもう全くといっていいほど伸びていないし、気になるお腹周りと言い、確実に太って……ああそうだ、私はたぶん太っているのだ。
いい加減に現実逃避はやめよう。私は太っている。だから痩せなければならない。
「…………よし!」
頬を軽く張って立ち上がる。その勢いのまま、クローゼットに向かってジャージに着替える。ブルートゥースイヤホンを耳に差し、ウェストポーチに入れたスマホで音楽を流せば準備は完璧。
「ちょっと走って来るね」
そう告げた私に、お母さんからの返事はない。思わず小さなため息が漏れた。
「……いってきます」
陰鬱な気分を振り払うように、私は陽光差す春の世界に一歩を踏み出した。
「あー、やばいわぁ。絶対太ったわこれ」
「えー、うそぉ。ミズは細いよぉ。私なんてほら、このぷにぷにな二の腕。もー最悪だよぉ」
斜め後ろから聞こえてくるのは、クラス委員長の水谷さんとその友人の声。ちなみに、水谷さんは少しぽっちゃり気味だと思うけれど、私の目が悪いだけかもしれない。
全く最悪とも太ったという絶望感も感じられない白々しい言葉の応酬を聞きながら、私は憎いほどに晴れ渡った空を睨む。もし雨だったら測定は明日に伸びたのに、これだけ晴れていたらグラウンドコンディションも完璧だから、確実に今日体力テストが行われる。まあ、一日伸びたところで無駄な努力を積み重ねるだけに終わるからさっさと済ませてしまった方がいいのかもしれない。
無駄な努力……いや、絶対に無駄ではない。運動しようと意気込んで運動しないと、帰宅部生というものは運動をしない生き物なのだ。お腹は減るし、甘いものだって食べたい。けれど運動部に入っているわけでもないから十分なエネルギー消費ができない。甘味の余剰カロリーはお腹や腕、顔に向かい、ブクブクと太っていく……
大丈夫。毎日意識して体を動かして、気力のある週末に運動をすればいいのだ。こつこつと運動をすれば痩せられる。……それをできないから太るのだけれど。
やっぱり運動部に入るべきだろうか。そうすれば意識せずとも運動をする習慣ができる。若い頃に部活動などを含めて運動習慣がある人は、文化部や帰宅部だった人に比べて生涯の運動量が多くて寿命も長い傾向にある、という統計を見たことがある。その信憑性や寿命の長さはともかく、今後の体形維持のためには今という若いうちからの運動習慣の形成が必要というのは確かなのだろう。
運動部……何があっただろうか。確か、陸上と水泳、バスケ、バレー、ハンドボール。あとは……ああ、テニスだ。
水谷さんと会話をするクラスメイト、北条さんがテニス部に所属していることを思い出しながら、私は運動部入部について考える。体験入部期間は四月末に終わってしまっているけれど、少し遅く入部できないわけではない。まあ部活内の空気やグループも固まって、そこに後から入るというのはひどい心労を感じることになるのだろうけれど、ダイエットに苦悩するよりはまし……でもないかもしれない。
正直なところ、すでに出来上がった人間関係に割り込む心労よりもダイエットに励むためのやる気と根気のほうが容易く捻出できる。ゴールデンウイークにあろうことか毎日半日もランニングをしたように。
「……祈は相変わらず細いよねぇ。どうしたらそんな綺麗な体型を維持できるのよ」
「やっぱり運動よ。テニスをするべきなのよ」
快活に告げる北条祈さんの声を聞きながら、私は背中に刺さる視線を感じた。これは北条さん……ではなく久徳くんのものな気がする。久徳くんの隣の席に座る北条さんを取り囲むように話す女子たちの姦しい声は、男子にとってはあまり居心地のいいものではないだろう。
でも、私に救援を求められても困る。明らかに陽キャな集団に私が話しかけられるわけがない。面倒だし、住む世界が違うし、第一緊張で声が出る気がしない。
だから耐えて。もしくはさっさと席から移動してしまって、久徳くん。無力な私を許して――
「でもさぁ、美緒ってばちょっと太ったよね」
その時、北条さんの一言に空気が凍った音を感じた。水谷美緒さんの怒りが、背中越しにも感じられた。
無言の圧がクラスに広がり、少しずつ会話の声のトーンが落ち、やがて静寂がクラスを包み込む。
「……どうしてそんなことを言うのよ!?」
怒りの声が響く。同時に、机に手を叩きつけた激しい音が鼓膜を震わせた。まあ、先ほどの言葉は私でもわかる失言だった。太ったなんて禁句だ。北条さんもそれが分かっているからか、言い返すことはない。
ヒステリックに叫ぶ水谷さんもどうかと思うけれど。
「ま、まぁ落ち着いてってミズ」
「落ち着けるわけないでしょう!?」
鈍い音が聞こえて、私はそろりと背後を振り向く。視界の端、北条さんの襟をつかむ水谷さんの姿がそこにあった。垢ぬけていて、日焼けのせいで若干髪の色が落ちた北条さんは少しギャルっぽい。そんな北条さんにまさしく委員長らしいかたさのある水谷さんがつかみかかっている光景は、違和感でくらくらしそうなものだった。
ダン、と激しい音が響く。机に手を突いた北条さんが立ち上がり、鋭い目で水谷さんを睨む。
「そこまで怒らなくてもいいでしょ!第一、普段からもっと気を付けていればいいのよ!」
「太らない体質の祈がそんなことを言わないでよ!むかつくのよ!」
もはや一触即発どころか沸騰寸前。剣呑な光を目に宿して互いの襟をつかむ北条さんと水谷さんは今にも殴り合いを始めそうに見えた。二人と話していた女子は顔を真っ青にして数歩後退り、机に腰をぶつけて痛みに顔を歪める。少なくとも、彼女が仲裁に割って入ることはできそうになかった。
沈黙に満ちる教室。ギスギスとした二人に割って入る勇者の役割を、互いに視線で押し付け合う。不幸にも、こうした仲裁を得意とする男子のクラス委員長が、今はクラスにいなかった。
男子の中でも人望のある久徳くんに視線が集まったのは、水谷さんたちへの距離を踏まえても自然なことだったかもしれない。
ごくりと喉を鳴らす音が私の耳にも聞こえた。それくらい、今の教室内は静まり返っていた。
「……ま、まあ落ちつい――」
「「男は黙ってて(なさい)!」」
雷が落ちたような大声に肩を跳ねさせた久徳くんは口ごもり、男子に視線で仲裁不可能と語る。揺れる視線が私を捕え、困ったように、縋るようにゆがむ。いや、それは私の見間違いだったかもしれない。けれど、久徳くんが私を頼っているかもしれない――そのことが私の心を震わせた。
神か何かに呪われていそうな、私の願いに巻き込まれたらしい久徳くん。私が告白から逃げ、不誠実を働いている相手。せめて少しでもその贖罪となるのなら。
でも、やっぱり、私ごときが仲裁に乗り出しても先ほどの久徳くんの二の舞になるだけだ。
けれど、それでも。
私が求められているというのであれば。
体が震えた。喉はからからに乾いていて、頭は真っ白だった。
けれど、思考が吹き飛んだからこそ、私は立ち上がることができた。
ガタン、と勢いよく立ち上がった拍子に椅子が大きな音を立てた。その音のせいで、クラス中の視線が私に集まるのを感じた。
今更になって、恐怖が足先から這い上がった。注目を浴びている――そのことに動転して、倒れてしまいそうだった。
自己紹介の際の悪夢を思い出した。
縋るようにクラス内に視線を彷徨わせるも、友人の野江の姿はなかった。横から、強い視線を感じた。すがるように上目遣いをした久徳くんが、じっと私を見ていた。
吸い込まれそうな黒瑠璃の瞳を見ていると、なぜだか少しだけ心が落ち着いた。
「あ、あのっ――」
きゅっと握った手を胸に当て、勇気を振り絞って声を上げた、その時。
がらりと教室前方の扉を開いて、何やらバインダーのようなものを片手に持った男子クラス委員長の飯星くんが教室に入って来た。
「……どうしたんだ?まだ着替えていなかったのか?」
シルバーのメガネフレームをくいと持ち上げた飯星くんが、怜悧な視線でクラスを見回す。その存在が、あるいは抜身の刃のような雰囲気が、教室に立ち込めていた重い空気を切り裂き吹き飛ばした。
クラスメイトから頼られ、女子たちからの人気も高い飯星くん。いさかいを彼に見られることを恐れたからか、水谷さんと北条さんは素早く互いの襟から手を離し、何事もなかったかのように動き始めた。
「……ありがと」
体操服を手に持った北条さんが横を通り過ぎる際、聞こえるかどうかと言った声でそううつぶやいた。
それから、彼女は何事もなかったように飯星くんの横を通り過ぎ、着替えのための女子更衣室へと向かうために教室を出て行った。
ふと、飯星くんと視線が合った気がした。眼鏡の奥、すっと細められた眼光は鋭く、けれどまるで目礼するように視線がわずかにうつむきがちになった気がして。
「……近藤さん?」
久徳くんの声に、私はようやく我に返った。注目を浴びていたという事実が今更ながらに私を襲い、膝から床に崩れ落ちてしまいそうだった。
「……えっと、どうしたの」
振り返った先、私は久徳くんの顔を見て思考が飛んだ。
そこにいたのは、いつもと同じ、どこか熱を帯びた瞳をした久徳くんの姿があった。
口が開かれる動作が、スローモーションのように私の目に映った。続く言葉は、もう予想するまでもなくて。けれどその声に、その雰囲気に、どこかいつもと違う空気を感じた。まるで、何かを焦っているような気がした。
口の端は、小さく歪んでいた。笑っているような、泣いているような顔で口を開いた久徳くんは、ぱくぱくと口を数度開閉させて。
「……着替えに行かなくていいの?」
「え……あ、うん。行くよ」
思っていたのとは違う言葉に、私は一瞬頭が真っ白になった。改めて教室を見回せば、男子たちの視線が私に集中していた。学ランを脱いでシャツ姿になった男子たちは、けれどそこで着替えを止め、私の退出を待っていた。
途端に顔が真っ赤になって、私は慌てて机の横に掛けてあった体操服に手を伸ばして。
かがんだ私の視界に映る自分の手が、ねじれた。まるで肌の色を構成する光がプリズムで分光されたように極彩色に変わり、線が歪み、ねじれ、世界が壊れる。
わずかな浮遊感にきゅっと目を閉じた私の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んで来た。
「あー、やばいわぁ。絶対太ったわこれ」
姦しい声。水谷さんに張り合うように、童顔なクラスメイトが言葉を重ねる。その声は、けれど聞こえてはいたものの私の頭に入って来ることはなかった。
確かに、久徳くんが私に惚れた顔を見た。けれど、告白はなかった。ただ、告白をためらうように久徳くんが口ごもって、そして、時間が巻き戻った。
私は、どうやら勘違いをしていたらしい。告白は、時間が巻き戻るトリガーではなかった。
考えてみれば、それほどおかしな話ではない。何せ、私は「人が恋に落ちる瞬間を見たい」と願ったのだ。「告白を見たい」とは願っていない。
告白はあくまでもオプション、あるいは熱に浮かされた久徳くんの暴走。
そこまで思考が追いついたところで、私は徒労感と絶望感で机に突っ伏しそうになった。
先ほど、勇気を振り絞って水谷さんと北条さんを止めようとした私の一世一代の覚悟は無意味になった。その行為はなかったことになり、ただ私の心労だけが残った。
私の覚悟は、行動は、全て時間の間に消えた。
それは、ひどく重くて、辛いことだった。
こんなことを、私はこれまで久徳くんにさせていたのだ。告白という覚悟をともなう行為を何度も繰り返させ、それを無効化した。
ああ、私は本当にひどい人だ。
私は、私が嫌いになった。今すぐに、善良かつ私に巻き込まれただけの久徳くんから離れたかった。
体操服を手に立ち上がる。その際にやけに椅子が大きな音を立てた気がしたけれど、気にはならなかった。周囲から、わずかに集まった視線だって、気に留めるほどでもなかった。止まった水谷さんたちの会話だって、どうでもよかった。
ふらふらと、覚束ない足取りで歩き出す。
この苦しみを、全てが無に帰るこの痛みを、私は久徳くんに与え続けている。たとえ彼が覚えていなくても、その事実がなくならないわけじゃない。
ああ、消えてなくなりたい。
惨めで、苦しくて、泣きたくて、私はただ、うつむいて教室を飛び出した。