1プロローグ、あるいは落とし物
『人が恋に落ちる瞬間を見たいです』
手のひらを高らかに打ち鳴らし、私はそう祈った。
私がWebで投稿している小説に、一つの感想が送られて来た。
どうして主人公がこんなことで恋に落ちるのかわかりません。そんな一文から始まる感想は、最終的に作者である私の人格否定で結ばれていた。
すぐさま相手をブロックしたけれど、投げかけられた言葉は私の中でぐるぐると回り続けていた。
私は、おかしいのだろうか。いいや、おかしくはないはず。だって、私が書いている小説は、主人公は、私を映した鏡ではない。作り上げた虚構、像だ。だから私のセンスに問題があっただけで、私の人格には問題がない――はずだけれど、その言葉は呪詛のように私の中に残り続けた。
お祓いをするために、神社に足を運んだはずだった。手を打ち鳴らすまでは、私の心の中は怒りで満ちていた。あるいは、私という存在が本当に普通ではないのか、気が気でなかった。
暴言を書きつらねる存在に怒り、そして自分という存在に不安を抱いていた。
けれど、神様に願ったのは全く別のことだった。
感想の始め、恋に落ちる瞬間が、主人公が恋に落ちたその流れが理解できないという言葉が、強く私の中で主張していた。それはたぶん、私も同じ思いでいたから。
月並みな文章は書けた。危機的状況で颯爽と現れた正義のヒーローに救われ、少女が恋に落ちるというような話だ。けれど、そんな作品はありふれている。私が書きたいのは、もっと現実味を帯びていて、それでいて心に響くような話だった。
だから、オリジナリティにあふれる展開を踏んだ。それは、私にも微妙だと思える内容だったけれど、他にその主人公らしさが現れるストーリーは思いつかなかった。
もっと私にたくさんの経験があれば、私が多くの人生経験を得ていれば、違った作品が書けたのではないか。もっと面白い作品になったのではないか。
そんな思いから、私は恋の瞬間を求め、神に祈りを捧げた。
これまで他のどんな神頼みだって実現しなかったのに、そんなどこか俗めいた願いは、神様に聞き届けられた。きっと神様は下世話で、あるいは暇で死にそうなのだろう。
こうして私のおかしな日常は始まった。
◆
その日は、高校入学の日だった。
遅刻しないように朝早くに学校に向かった私は、クラス発表が行われる中庭の片隅にあるベンチに座って、じっと時が過ぎるのを待っていた。まだ、時刻まで一時間近くあった。
その時、きょろきょろと視線を彷徨わせる、おそらくは私と同じ新入生と思しき男子生徒が、中庭に足を踏み入れた。
背丈が高く、けれど肉つきが悪くて、もやしのような人だなと思った。病的なほど色白なせいで、顔つきは悪くないのにどこか残念さがうかがえた。
彼はベンチに座る私を一目見てから、再び何かを探すような動きに戻った。どこか焦りがにじんでいるのは、もうクラス発表が行われてしまったと思っているからだろうか。影も形もない生徒たちを探すように、彼は大きく視線を動かしていた。
ふと、彼の胸元から光るものが落ちて、芝の上を転がった。黒いそれを落としたことに気づかず、彼はふらふらと中庭の奥へと歩いていく。
迷ったのは一瞬。私はため息と共に立ち上がり、彼が落とした物へと歩み寄り、緑の中で光る黒いペンを拾った。
金色の装飾が施された落ち着きのあるそれは、万年筆らしかった。
「落としましたよ」
呼びかければ、彼は不思議そうに私を見て、それから私の手元に視線を下ろし、零れ落ちそうなほどに大きく目を見開いた。
「ありがとうございます!これ、祖父の形見なんです。このまま失くしてしまっていたらと思うと……」
慈しむように形見だというそれを撫でる彼を見る私の顔は、きっと苦々しいものだった。
そんな大事なものを学校に持ってくるなとか、落としたことに気づけよとか、いろいろな思いがこみ上げていた。
けれどそれ以上に、状況に既視感を覚えていた。
彼は万年筆を学ランの胸ポケットにしまい、改めて私を見て深々と頭を下げた。
それから顔を上げるなり、花が咲いたように笑みを浮かべた。頬は赤く、目は潤んでいた。それはたぶん、人が恋に落ちる瞬間だった。
「好きだ。僕と付き合ってほしい」
するりと、彼の口から言葉が零れ落ちた。
「違う!そうじゃない!」
私の口からは、そんな悲鳴が迸った。
既視感が、答えを得る。これは、私が書いた三文恋愛小説の一つのシナリオそっくりだと。いつでも大事に持ち歩いている形見の品を拾ってくれた相手に、イケメンの優男が恋に落ちる――そんなシナリオを、私は思い出していた。
同時に、予感した。これが運命の――神のいたずらであることを。
そのことを肯定するように、ジジ、と音がして、私の視界に線が走った。景色が歪み、まるでブロックが崩れるように視界が剥落していき、全てが闇に染まった。
「……え?」
次の瞬間、私はもう座り慣れた気がする中庭のベンチに腰を下ろしていた。
そして、視界の端から、きょろきょろと落ち着きなく視線を彷徨わせる、見覚えのある男子生徒がやって来る。
慌てて腕時計を見た。先ほど、彼と関わる前に見た時から、時刻はほとんど変わっていなかった。
時が戻った――そんな予感があった。
それを肯定するように、やって来た男子生徒は私の目の前で万年筆を落とし、そのことに気づかぬうちに歩き去っていった。
「……は?」
夢の世界に迷い込んだような面持ちで、私はただ黙ってその生徒が歩き去るのを見ていた。やがて後続の生徒がやって来て、そのうちの一人が、やっぱり見覚えのある万年筆をひろう。
視線を彷徨わせた彼女は、その場に居合わせた先生へと落とし物を渡した。
「……どうなってるの?」
新しい生活への期待に胸を膨らませる同級生の背中を眺めながら、私は呆然とつぶやいた。
万年筆を落とした生徒は、久徳千尋といった。同じクラスの生徒だった。私が近藤奈津だから、出席番号順で彼は私の一つ前だった。私は彼の背中に穴が開くほど見つめながら、今朝のことを考えていた。
まるで時が戻ったようで。私に恋に落ちたように見えた久徳くんと、覚えのあるシナリオ。そして何より、つい先日祈った内容を、私は思い出していた。
人が恋に落ちる瞬間が見たい――私はそう、神様に祈った。その祈りが、叶ったのではないだろうか。
「……馬鹿げてる」
新しい友人づきあいを始めている生徒たちを横目に、私は頭を抱えた。