第六話『泡』
従軍記者がそのシノビを見つけたのはカ・ヌ通りでのことだった。
余りを後ろで結んだ灰色の髪で色白。シノビは古いコロニアル風のホテルの前に置かれたテーブルで薄く微笑みながら、ソーダ水の泡をじっと見つめていた。
この五日間、必ず正午にはあらわれ、ソーダ水を注文し、気が抜けてしまうまで、小さな泡が生まれて消えるまでを見守って、その水を飲み干す。
五日目に、シノビと目が合い、それどころか手招きされた。
「わたしに何か用でもあるのかい?」
口調は飄々としているが、猫のような金色の目が少し厳しく、細められる。
「あなた、シノビですよね?」
「……」
「わたしは記者です。従軍記者のキャサリン・ウォン」
「ミス・ウォン。わたしはあんたのことをきいたことなんてないし、見たこともない。あんたについて知っていることはこの五日間、ここでソーダ水を見ていたわたしをしつこく観察していたことくらいさ」
「そこまでご存知だったんですね」
「そっちは気配を隠そうともしなかったから、意識にしつこく入り込んでしょうがなかった」
シノビが厳しい態度で臨むことは想定内だが、それにしても手厳しい態度、それに目線だった。
だが、キャサリンは何が何でも、今度の取材を成功させるつもりだった。
そして、ピュリッツァー賞を狙うならシノビに密着取材するしかない。
「お願いします。わたし――」
「ミス・ウォン」
シノビの声がわずかだが、せつなくなった。
「わたしを取材したいって言ったけど、あんたは自分がどんなことに巻き込まれてるか、分かってる?」
「どんなに少しでもいいんです。あなたのことを教えてください」
シノビは首をふり、気の抜けたソーダ水を飲み干すと、何枚か硬貨をテーブルに置いて、瞬きする間にそこから消えてしまった。
思わず、あたりを見回すと、建物の影が不自然に歪んでいるところを見つけた。
だが、影はすぐに元の通りに戻り、シノビの痕跡はきれいに拭い去られた。
――†――†――†――
「キャシー、いつまでシノビを追いかけるつもりだ」
編集長が言った。
太った眼鏡の家庭人で、地元の女性と結婚していて、地球やコロニーに戻るつもりはなくなっていた。
「ここで見つけたシノビです。絶対にこのチャンスをつかみたいんです」
「モーゼが海を割ってからこの方、シノビを取材できた記者はいない」
「わたしは違います」
「なんで?」
「わたしだからです」
「ため息が止まらなくなりそうだ。そんな大穴に賭ける余力があるなら、あの従軍記事を仕上げてくれ。検閲局からやっと掲載の許可がもらえたんだからな」
「もう、ほとんど仕上がってますよ」
「ヘイスティングスが嘆いていたぞ。兵士たちと一緒に寺院に入ってからの文章がまだだって」
「すぐ仕上げます」
「とにかく、だ。あんまり深追いはするなよ。シノビについて知り過ぎる人間がどうなるか、少し考えれば、分かるだろう?」
――†――†――†――
翌日、キャサリンは出社し、殊勝に従軍記事を書いているフリをして、隙を見て、外に出た。変な告げ口をされぬよう、同僚のヘイスティングスを連れて。
「なあ、キャサリン。これ、マズいよ」
「なにが?」
「大人しく従軍記事を仕上げたほうがいいって」
「あんたね。本物のシノビが見つかることなんて、そうそうないのよ」
「でも、シノビってヤバい任務を専門に暗殺とか粛清とかにも関与してるって噂じゃないか」
「ブン屋が噂を情報源にしたら、ブン屋失格よ」
「知り過ぎたら消される。そんな予感がするね。だいたい、昨日、接触した感じがそんなに悪いなら、もう、そのホテルにはいないんじゃないか」
「いえ。何か話したさそうな気配があったのよ。何かある。それをつかみたいのよ。だから、大人しく協力して。ヘイスティングス」
シノビは昨日と同じホテルの同じテーブルでソーダ水の泡が弾けていくのを眺めていた。
「あんたか。またきたのかい? そっちは?」
「キャサリンの同僚のヘイスティングスです。えーと、……ミスター・シノビ?」
「棠」
キャサリンが目を輝かせる。
「それって、あなたの名前ですか?」
「それについてはこたえないでおくことにするよ。ただ、ミスター・シノビ、だなんてマヌケな呼び方をされたくないだけだ」
「それで取材の件、考えていただけましたか?」
「考えるなんてひと言も言っていないし、承諾した覚えもないよ。それより、あんた、自分がどんなことに巻き込まれているか、あれからわかったのかい?」
「危険は承知の上です」
「承知できていない危険もある」
シノビは手元のグラスを持ち上げた。
「このグラスには小さな泡がいくつもある。その泡はひとりでに生まれて、水面へと上がり、消えてしまう。わたしにはこれを止めることはできない。最後のひと粒が消えるまで、これは続く。気の抜けた水を飲むのはただ見ているしかできなかった滅びを飲み干すという記号に過ぎない」
「それは、どういう――」
「わたしのことが知りたいと言うなら、考えてみて。じゃ」
「待って――」
だが、また風に巻かれて消えていく。
――†――†――†――
「ヘイスティングスからきいたぞ。まだ、シノビに固執していると」
編集長が言った。
その手にある有機ディスプレイ端末には非常に高い考古学的価値を有する神殿遺跡が空爆で数億片の砂粒にされてしまった記事の草稿。
「どうしても知りたいんです」
「だが――」
「知らないといけない気がするんです」
「キャシー。大丈夫か? 顔色が悪いぞ。このあいだの従軍以来、少し変だ」
「大丈夫です。編集長。記事は書きます。でも、シノビと関わるチャンスは多分、この後にはない。これが最初で最後のチャンスなんです」
――†――†――†――
最後まで編集室に残り、従軍記事を埋める。
記事を終わらせたときには、もう夜中の十二時。
仮眠室に向かうと、廊下が水びたしになっていて、〈水道管破裂〉と看板が立てかけてあった。
「……帰ろ」
タクシーを拾える道路は雑誌社から出て、右へ行った先にある。
街灯は安定しない電力を必死に拾って点滅し、石の瓦を葺いた古い屋根の端に月が引っかかっている。
古い家のあいだには路地があり、暗く光の差さないその小道から何かの気配がする。
声は暗闇のなかからきこえてくる。
「あんたに謝りたい。すまなかった。方法を探したが、どれもダメだった。わたしはあんたが滅びるのをただ見ているしかなかった」
「――え?」
「あんたは従軍し、ある寺院に入り、〈やつ〉に憑依された」
「棠? いったい何を――」
暗闇の声はなおも続ける。
「〈やつ〉はあんたを乗っ取った。もうじき、あんたは鬼になる」
鬼? わたしが?
そんな馬鹿なコトガアルモノカ。
シノビメ。喰ッテヤル。
殺シテヤル!
「これは、――わたしなりの慈悲のつもりだ」
――†――†――†――
落ちた首は鬼のものからキャサリンのものへと変化していき、徐々に黒い煤となって消えていく。
「わたしのことを知りたいと言ったね。あの言葉はまだ生きているかい?」
シノビは最後の涙を浮かべる彼女に向かって言った。
「古い家に生まれ」
と、いいながら右腕を宙に伸ばし、
「古い術を受け継ぎ」
と、いいながら左腕を宙に伸ばし、
「古い仕事をこなす」
そう言いながらシノビは両手を胸に重ね、
「……こんなところで許してもらえるかな?」
――小首を傾け、切なげに微笑む。