1-4.燻ぶる感情
時刻は既に午後八時を迎え、長かった一日も段々と終わりに近づく頃。ひとたび窓の外に視線を向けてみれば、今もなお深まり続ける夜の帳と共に今宵を彩る魔光石の街灯が幾重にも連なって、無数の夜光を描いている。
夜光煌めく西都『ファーメルン』は眠らない。街中を自由自在に行き交う妖精たちの姿も相まって本当、幻想的な景色だ。
それこそ、食器洗いなんか途中でほっぽり出してずっと、見ていたいくらいに……。
「ん……なんだ、フィアーナはもう寝ちまったのか?」
ぼくが食器を洗い終えるのとほぼ同時、首もとに白いタオルを巻いた湯上り姿のお父さんが再びリビングへと戻ってくる。
見たところ、まだまだしっかり水気を切っていないのだろうか?
髪から滴り落ちたいくつもの水滴が点々と、お父さんの足元に大きな軌跡を作っている。
「はぁ……お父さん、ちゃんと髪くらい拭いたら? じゃないと風邪、引いちゃうよ?」
「あっはっはっはっ! なぁに、心配には及ばんさ! これでも一応、身体はしっかり鍛えてる方だからな……この程度のことで風邪なんて引かないぜ、俺はっ! それにフィオーラ、昔からよく言うだろ? 『水も滴るイイ男』ってな! あっはっはっはっはっ!!」
「お、お父さんったら……」
ぼくの心配なんかよそにお父さんは、腰に両手を携えて鼻高々に大きく笑い声を上げる。
いやいや、最終的に床の掃除するのぼくだからそれ以上、部屋を汚さないでって言う意味もあったんだけど……この人、我が父ながらまったく空気を察してくれない。
というか、いくら容姿がそれなりに整っているとは言え、『水も滴るイイ男』ってソレ、自分で言うなし……。
でもまあ、今さら何を言ったところで仕方ないか。お父さんがこう言った『ひょうきんな性格』なのも、今に始まった話じゃないし……。
ため息もそこそこにキッチンを出て、ぼくはゆっくりリビングのソファーへと腰を下ろす。
「ふぅ……フィアなら、お父さんがお風呂に入ってる間に寝ちゃったよ。特に今日は久しぶりに遠出したこともあって、すごく疲れてたみたいだし」
「ほぅ、そうか……確かにあんだけはしゃいでりゃ、そりゃあ疲れるわな。だがまあ、お前達の年頃ならそんぐらい元気があり余ってる方がむしろ、健全なわけなんだが……」
椅子に座ったかと思えばその場で頬杖をつき、お父さんはぼくに向かいゆっくり目を細めていく。
聞けば聞くほど、何だか意味ありげな物言いだ。さもぼくがフィアとは異なり、健全でないかのような口ぶりで……。
まあ確かに、自分でも『どこか子供らしくないなぁ』って思うところは今までに何度もあったけど……それでも、改めてそういう目で見られると、何だか複雑な気持ちになってしまう。
特にそれが『身内からのモノ』であればなおさら……。
「……それはそうとフィオーラ、俺がここを留守にしてる間に『何か変わったこと』はなかったか?」
「ん、変わったこと……? ううん、特にコレと言ってなかったよ。まあ強いて言えばここ最近、フィアが少し元気がなかったかなってことくらい。ほら、もうそろそろでしょ? お母さんの『命日』……」
「あ、あぁ……そう言えば、そうだったな……」
ぼくがお母さんのことを口にした次の瞬間、今までヘラヘラとしていたお父さんの顔付きが一気に強張る。
でもお父さんがここまで表情を曇らせてしまうのも無理はない。普段は冗談ばかり言ってあっけらかんと面白おかしく道化を演じてるけど、お父さんだってぼくたちと同じ人の子だ。最愛の妻を亡くした悲しみはあまりに計り知れないし、そうそう簡単に拭い去れるものでもない。
現にお父さんから進んでお母さんの話題をぼくたちに振ることは今までにほとんどなかったし、逆にぼくやフィアからお母さんの話題を振ることはあっても大体言葉を濁してた上、反応もあまり良いモノではなかった。
だから、ぼくもフィアも次第にお母さんの話をお父さんの前ですることは極力避けるようになっていた。
そうすることがぼくたちにとってみても、お父さんにとってみても『良いことなんだ』って信じてたから……。
「そうか、あいつが……『フィファナ』がお前達を産んで、そのまま病に倒れてもう『十三年』も経つのか……長いようで意外と早いもんだな、時間の流れってヤツは……」
「そう、だね……正直、ぼくとフィアを産んですぐ死んじゃったからあまり実感、湧かないけど……」
「まあ、そうだろうな。ふふ……しっかしまあ本当、お前達を見てるとつくづく『フィファナ』にそっくりだわ。まさに『生き写し』と言ったところか……」
「ん……そんなに似てるの、ぼくたち?」
「おうよっ! あまりに似過ぎて怖いくらいだぜ、まったく!」
再びぼくの顔を見つめて、二カッと眩しい笑顔を浮かべるお父さん。子を想うお父さんの温かな優しい気持ちが視線を介して、ひしひしと伝わってくる。
だけど……同時に感じる、どこか悲しみに満ちたような微笑み。男らしく豪快に振る舞うお父さんの傍らでは確かに、哀愁を誘うどこまでも深い影が際限なく差し込んでいた。
「……なぁフィオーラ、ひとつ聞いても良いか?」
「ん、なに?」
「いや、まあなんつうか……これはあくまでも『たとえ話』なんだが……もしも、フィファナが……お前達の母さんが今もどこかで『生きてる』としたら、どう思う……?」
「……えっ?」
あまりにも突拍子のない質問に、ぼくは思わず吐息混じりの小さな声を漏らしてしまう。
確かに普段から冗談ばかり言ってるお父さんではあったけど、こう言う『湿っぽい話』を自らすることは今までにほとんどなかった。
特にそれが『お母さん』の話ともなればなおさらだ。いつになく、真剣な眼差しを向けてくるお父さんを前にし、ぼくもどう言葉を返して良いのか分からなくなってしまう。
でも……仮にもしも、お母さんがこの世界のどこかで、まだ『生きている』としたら――。
「そう、だね……もう一度『逢ってみたい』と思う。逢って『お母さんと話がしたい』……ぼくとフィアが望むのはただ、それだけだよ」
「……そうか」
「うん、ただそれだけ……でもね、お父さん……お父さんもよく分かってるとは思うけど、お母さんはもう『この世』にはいないんだよ? 死んじゃった人はもう『二度と蘇らない』……そうでしょ、お父さん?」
「……ああ、そうだな……」
ぼくの口からボソッとこぼれ落ちた重たい言葉に、お父さんはただその場で静かに頷く。
死んでしまった人はもう『二度と蘇らない』。それは今も昔も変わらない『自然の摂理』。
お父さんだって、既に理解しているはずだ。でも理解してるからこそ、お母さんの『死』を認めたくないのかもしれない。
今もなお、胸の奥底で燻ぶり続ける感情……目を見ていればよく分かる。じっと窓の外を見つめるお父さんの瞳には悲しみとはまた別に、熱く燃え上がるような闘志の灯火が粛然と揺らめいているのを……。
「さてさて、陰気臭いしけた話はこんくらいにして、たまには酒と肴に洒落込むとすっか! どうだ、フィオーラも一緒に飲むか?」
「ふふっ……いやいや、未成年にお酒勧めるのは普通にダメでしょ、お父さん?」
「あっはっはっはっ! 確かにそれもそうだな! 何より、甘党のお前にはそもそも酒なんて似合わんか」
「そうだね、まあ最近はフィアの影響で甘いモノはちょっと、苦手になっちゃったけど……」
「あ、あっはっはっはっ……確かにフィアーナの甘い物好きはズバ抜けてヤバイからな。特にあの何でも料理した物を甘ったるくしちまうのは、もはや才能のレベルだわ。鉄の胃袋を持つ俺でも、さすがに『アレ』は食えたもんじゃねぇぜ……」
ぼくもお父さんもフィアの話題で盛り上がりながらも、以前食べたフィアの甘ったるい料理が不意に脳裏をよぎり、お互い小さく苦笑いをこぼしてしまう。もしもこの場にフィアがいたらきっと、ぼくたちのことを心底怒っていたことだろう。
それこそ、頬をぷっくらと大きく膨らませながら、耳まで真っ赤に染め上げて……。
「ふぅ……それじゃ、ぼくはそろそろ寝るね。お父さんも夜更かしするのは良いけど、ほどほどにね?」
「おうよ、今日は仕事付き合ってくれてあんがとなっ! ゆっくり休めよ、おやすみ、フィオーラ」
「うん。おやすみ、お父さん」
久しぶりの親子水入らずの時間を十分満喫したところで、ぼくはそのままゆっくりリビングを後にした。
「……『もう【この世】にはいない』か……俺の知らねぇうちに、あいつらも成長してるんだな。いや……むしろ、俺が成長しなさ過ぎるのか、まったく……」