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3.オイラSOS!

 ピンポーン


『お、おはよう……新城君……』

「おっす小中野!」

『す、少し待ってくれ……すぐ行くから……』

 インターホン越しに応答があってから一分も経たないうちにドアを開けてくれる小中野。

 彼女はどっかの十年来の親友なんかとはまるで違い、十分の一もかからず俺の前に現れてくれる。

「ま、待たせた……すまない……」

「いやいや、こんなの全然待ったうちに入んねーって」

「そ、そうか……?」

「じゃあ行くか?」

「う、うん……」


 こんな感じで、彼女の迷子防止のため登下校の同伴を始めてから既に半月ほどが経った。

 実のところ最初は「しゃーねーなぁ」って感じだったんだけど。

 それが一転、今では彼女の心情を(勝手に)慮った(つもりになった)結果、自らの意思でこうしている。

 しかも入学したばかりの頃とは違い、学校内での周囲の目に慣れてきたのもあって特に痛痒は感じなくなっていた。

 一緒の登下校も、部屋の前まで送り迎えするのも自分から言い出したことなのだから、それを破るのは男として以前に人としてあるまじき行為だと思っている。


 うーん……何かかっけーぞ俺。


 などと自画自賛してしまったが……誤解のないように念のため言っておくけど、俺たち二人は別に交際しているとか恋人同士だとかそういった関係ではもちろんなく、いわばこれはビジネスパートナー、土木建築会社風に例えれば、JV(ジョイントベンチャー)のようなものだ。

 その比率はといえば彼女が百パーセント、俺はゼロパーセントという完全に一方的な主従関係なんだけど……えっ?

 何だかもっともらしいことをそれっぽく言ってるけど、それって単なる下僕なんじゃないかって?

 ま、まぁ……確かにこれまでの経緯からいけばそうとも……いや、そうとしか言えんのは否定できないけどな。


「あ、あの……、」


 こんな、相変わらずそのご立派なガタイにそぐわず、か細くてトーン低めの声音で話しかけてくる小中野。

「んっ、どうしたんだよ?」

「じ、実は……頼みたいことが……あるのだが……、」

「頼みたいこと? どんなことだよ?」

「そ、それが……今朝で……食材がほぼ……尽きてしまって……、」

「食材?」

「そ、そう……このままだと……今日の夕食を作ることが……できない……だから……、」

 この時、俺は小中野の言いたいことが概ねわかったような気がした。

「か、帰りに……スーパーへ寄りたいのだが……」

 やっぱりか……。

「た、確か……学校から割と近くに……あったと思って……」

「ああ、マックスマートだな」

「だから……そこへ付き添って……くれないだろうか……?」

 そうくるだろうな。

 自分のアパートに帰ろうとするだけでも迷っちまうんだから、寄り道なんかしたらますます泥沼……いや、底なし沼へハマり込みに行くようなもんだ。

 ただ、それはそれで別に構わないのだが……、

 今までは登下校だけだったのに、今度は近所のスーパーでもこの凸凹コンビが一緒にいる姿を晒さなきゃならんのか……。

 ま、でも乗りかかったっつーか乗ってしまった船なんだから、今さら二人でいるトコなんか見られたって別にどってことないんだけど。

 こうなってしまうともう俺、小中野専門のガイドヘルパーみたいじゃね?

「だけど……お前ってさ、」

「ど、どうした……?」

「今まで食材、ってか買い物ってどうしてたんだよ?」

 前々からこの疑問を抱いていたので、話の流れでこれ幸いと訊いてみた。

 すると小中野はこの問いに、少し言いづらそうに口を開いた。

「こ、これまでは……ネットで……、」

 ふむ、なるほど。

 今はITの時代なんだから、つまるところネット環境と金さえあれば家から出なくたって買い物はできてしまう。

 これじゃ部屋に引きこもる人間が増えるわけだとつくづく思う。ホント良くも悪くも便利、恐ろしくも嘆かわしい世の中になったものだ。

 それを聞いた俺は、更に質問を被せてみる。

「でも、何で今になってスーパーで買い物しようなんて思い立ったんだよ?」

「ネットだと……買い忘れとか……切らしているのに気づかないで……今すぐ欲しい時に不便で……それに……、」

「それに?」

「物によっては少し……高くつく時もあって……あと……生鮮品の類は……自分の目で確かめた物を……買いたいと思って……」

 ふぅん……そうだったか。

 こうした感覚って、普段スーパーで買い物なんかしない俺にはあまりピンとこない……てかお前、すぐ欲しい物あっても自分で買いに行けないだろ?

 てことは、そのたんびに俺が呼び出された挙句、付き合わされるってハナシなっちまうんだよな絶対。

 ま、そんなヤボな詮索はこの際、飲み込んどいてやるとして……、

 確かにアパートの一人暮らしってのは食費や家賃、光熱水費とかでかかる経費は割とバカにならないはずだから、実家からの仕送りは大事に使わなければならないという事情くらいは、こういう暮らしをしたことがない俺でもそれなりに理解はできる。

 それに、米や調味料など一定程度日持ちの効くものはともかく、肉や魚、野菜などの生鮮品は現物を自分の目でしっかと見極めて購入した方がいいのかもしれない。

 これは余談だが、俺のスーパーにまつわる話としては、ガキの頃よく母親に欲しい物をねだって駄々をこねた挙句、ダメだと言われれば自分で勝手にカゴに入れたりなんかしていたが、結局はレジ行く前にサラっと元の場所に戻されるってのが定番ムーブだったりしたけれど……、

 母親の立場からすれば、一家の家計を一手に預かる者として、限られた収入の範囲でやりくりしなければならないという経済的事情から買ってあげたくてもできなかったのだろうが。


「あ、後は……あの……、」

「んっ?」


「き、君と……少…でも……長……いれ……から……」


「えっ? 何だって?」

 いつも以上に声がか細すぎるうえに元々の声質が低めなものだから、何言ってるのかが殆ど聞き取れなかった。

「い、いや……何でもない……」

「そ、そうか……?」

 でも……その聞き取れなかった言葉、妙に気になる気になる◯立の木ってか。

 それはともかく……小中野ってすごく家庭的なんだな。

 初めて部屋にお邪魔した時にいただいたお茶のいれ方一つ取ってもそうだけれど、ちゃんと家計の心配もする。

 ご立派なガタイと同じに性格が大らかとか大雑把じゃないかと思われそうだけど、それに似合わずマメで繊細、そして昔カタギの純日本的女性なのかもしれない。

 きっとこれは、一緒にいる時間が長い俺だけが知る彼女の内面の一部だろう。

 高校に入学してからの俺は、毎日のように彼女と登下校を共にしてきた。

 入学式の帰り道、顎に彼女の後頭部が直撃して出血した時なんか、しっとりしなやかつるつるすべすべな手で優しく手当てをしてくれたりもしてくれた。

 寡黙で不愛想なその佇まいは、むやみに他人を近づけたがらない雰囲気を醸し出していると言えば違いないが、こうして間合いに踏み込んでみれば、これほど心優しく思いやりのある人間はいないのではないかとさえ思えてくる。

 そんな一部分を既に知ってしまっている俺は、お茶と手当ての恩返しというわけではないが……、

 よーし! そんじゃまたお財布に優しいコトしてあげるとしますかね。

「わかった。そゆことなら買い物付き合うよ」

「あ、ありがとう……助かる……」

 そう言って礼を述べる彼女の表情は、心の底からありがたいと思っているように見えた。

 それに、女子からお願いオーラ発されながらお願いされると、何か男冥利に尽きるなぁって思ったりなんかする……男子高生のみならず世の男性ならこの気持ち、わかってもらえると思うよ絶対。

 しかも、思うついでに俺はこんなことまで思ってしまっている……。


『早く放課後、ならないかなぁ……』


 え、えっ……………?

 いったいどうしちまってんだ……俺は?

 どうしてこんなこと、考えちまってんだろう……?

 気のせい……いや気の迷いだ。魔が差しただけだ、絶対に。

 俺はぶんぶんと首を振り、この心の呟きを真っ向から否定する……あ、

 くそつまらん授業が早く終わってほしいって意味じゃ否定してないけどな。こんなんエラそうに言えたモンじゃないけど。

「ど、どうした……?」

「えっ? い、いやぁ……何でもないよ。ははっ」

「そ、そうか……」

 俺の妄想からくる行動とも知らず、本気で心配そうな顔をする小中野。

 それを見て、気まずそうな表情の俺。

 そんな中、ふと我に返る。

 そうだ……忘れてはいけない。

 俺と小中野の関係は、あくまでも彼女が外出で迷子にならないためのサポートとか、実家を離れて独り暮らす不安や淋しさを紛らすための相手役っつーかそれだけであって、決してそれ以上でもそれ以下でもない。


 でも……なぜなのだろう?


 そう考えれば考えるほど、自分の心が違和感というか何か得体の知れないもやもやとした思いを抱いてしまうのは……あ、そっか。

 これってきっと、俺が彼女の知らない部分を知りたがっていたが故、つまり単なる好奇心だ。

 そんなことを考えていると、やがて遠目に校門が見えてきた……その時、


「おおーい! 新城ぉー! おおっすうー!」


 聞き覚えのある声で、ムダに元気な挨拶が背後から聞こえてくる。

 言うまでもなくその声の主は、俺の幼なじみで十年来の付き合いがある長峰亜樹だった。

「おう、おはよう長峰」

 何気なく長峰に挨拶を返している俺だったが……今、隣には小中野がいる。

 そう言えば小中野と登下校するようになってから、登校途中で長峰とはち会うのは意外にも初めてだった。

 小中野は長峰をただ黙ってガン見しているだけだ。目線だけでなく心理的にも上から。

 はっきりと確認してはいないがこの二人、今年入学してきた女子で……いや、全校女子レベルでみても高身長と低身長ナンバーワン同士なんだろうなきっと。

 そんな余計な想像はどうでもいいとして、その姿を至近距離で見ていた俺は、二人の間に何やら不穏で張り詰めた空気が漂っているように感じていたが……、


「おはよっ! 小中野さんっ!」


 長峰は、そんな懸念などお構いなしとでも言いたげに、またもムダに元気よく小中野に挨拶をする。

 ただ、その目線はまるで空を仰ぎ見るようにほぼ真上に向けられていて、見るからに首がツラそうだ。

「お、おはよう……」

 不安が拭いきれないでいる俺の眼前で、長峰に挨拶を返している小中野。

 その表情は平静を装いつつも、不機嫌さが滲み出ているように感じられた……いや、

 徐々にではあるが、怒りにも似た顔つきになってきているように見えなくもない。

「うっわぁー! よくよく見るとホントでっかいねえー! やだこれマジヤバー!」

 いくら言っていることが事実とはいえ、本人を目の前にして周囲にも聞こえるような大声で、こんな人をディスってるかのような無礼極まりない発言をする長峰は小中野のすぐ前に立ち、その小柄な身体で目いっぱい腕を伸ばしながら背比べをし始めるが……、

 それでもやっとつま先立ちで、中指の先が小中野の背丈とどっこいどっこいくらいだ。

 しかもお互い正面向き合ってるもんだから、長峰の顔面が小中野のバスト先端に接触しそうになっている。

 傍目には微動だにしていないように見える小中野の身体だが、それでも時折微かに後ずさんでいたのを俺は逃さなかった。

「く、くっ……う、」

 てかこの反応……もう接触してんじゃねーか? そうでなくても吐息はかかってっかもな。

 朝っぱらから女子二人でワケわからんプレイに興じている姿を見ていると、目線で比較すれば俺は小中野のバストのアンダーで、長峰はヘソよりちょい上くらいだ。

 もし、仮に小中野の身長が高校一年生の平均だったら俺は小学校低学年、長峰は幼稚園の年長さんくらいか?

 などとこんな時にこんなコト考えるなんて……ホントにノンキでノーテンキなヤツだよなぁ俺。

 長峰のちょっかい……と言うか、全く恐れを知らない嫌がらせにも似た行動に、小中野の不機嫌な顔つきが明らかに「こいつマジでウゼぇ!」的なものにみるみる変わっていく。

「あー! そーそー! 知ってたー!」

 小中野の表情の変化に気づいているのかどうかはわからないが、いきなりのように長峰が話を挿げ替えようとする。

「な、何をだ……?」

 声のトーンを普段より更に下げながら応じる小中野。

「あたしと新城ってさぁー、幼稚園の頃からの幼なじみなんよねー」

 長峰が口にしたその発言は単なる事実であって、俺にとってはそれほど気にも留めるものではなかった。

 何気なく俺は、隣にいる小中野の顔を見上げる。


「それが……どうした……」


 ところが小中野は、どういうわけか長峰の発言が気に障っていたようだった。

 それが証拠に二人は「ゴゴゴゴゴ……」とか「バチバチッ」とか、何やら穏やかならぬ効果音が聞こえてくるような雰囲気の中、ガチな視殺戦で火花を散らし合っている。

「ひっ! ひいいいっ……、」

 どうにも悪い予感しかしない俺は、気付かれないように少しずつ二人の傍から離れようとしたが……、


「「逃げるな!」」


 シンクロした声が耳をつくや否や、小中野の右手と長峰の左手がほぼ同時に俺の制服の襟首をがっしと鷲掴みにする。

 それでも二人は、他の登校中の生徒の視線など何処吹く風で睨み合いを続ける。

 ただ、こいつらは睨み合おうが何しようが勝手だけど、妙にいたたまれない状況に置かれている俺がとばっちりを受けているってのが腑に落ちない。

 でもこれ、いったいいつまで続ける気なんだろ? もう学校目の前だってのに、これじゃ遅刻しちまうじゃねーかよ。

 何か知らんけどこいつら、お互いワケわからん意地張り合っちまって周りが見えてないみたいだから、俺がどうこう言ったところで事態はなんも変わらないんだろうし……どうしたらいいんだよもう!

 しかも他の生徒の注目も思いっきり集めまくりだし……ったくじろじろ見てんじゃねーよテメーら! 見せモンじゃねーぞオラぁ!

 そうやって俺が人目を気にしながらやきもきしていると、


「………ふん、」


 小さく鼻を鳴らし、先に視線を逸らしたのは意外にも……小中野の方だった。

 同時に二人は、鷲掴みにしていた制服の襟から手を離していた。

「はあああぁー……っ、」

 いろんな意味での息苦しさからようやく解放された俺は、どうにも納得がいかないといったような不満顔の長峰に、小中野と登下校することになった事情を大まかに説明する。

「ふぅーん、そーなんだぁー」

 この返事……まだ何か引っかかる何かがありそうな感じだが、もはや俺にはこれ以上何も説明できることがない。

「そ、そういうワケでさ……ワリィな長峰」

 俺は、ご機嫌斜めそうにしている長峰に軽く手を合わせながら謝罪する。

「さあ……もういいだろう……行くぞ……」

 またも俺は小中野に制服の襟を掴まれ、早足で歩き出した彼女に引きずられながら学校へ向かったのだった。


 ◆   ◆


「し、しまった……、」


 今日最初の授業である数学の小テスト、すっかり忘れてたぞ。

 渡された答案用紙をひと通り眺めてみても、まともに解けそうな問題などただの一つもない。

 そりゃそうだよ……全く準備していなかったんだからなぁ。

 ま、テストあること忘れてなくたってどうせ準備なんかしねーし、元々のアタマのデキ具合もあっから準備段階でちんぷんかんぷんだけどな。

 それにしても……こんなん習ってたっけか?

 でも、よくよく考えたら先生だって教えてもいないトコをテストなんかしないよな。

 周囲をチラ見すると、他のクラスメイトはそれなりに手を動かしてるみたいだし。

 これはもう開き直るしかないと思った俺は、わからないならわからないなりにどうにか回答欄を埋めようとするが……そもそも設問の内容がさっぱり理解できていないんだから無論、ペンが進もうはずがない。

 そして……、


「よーし時間だ! 各列後ろの生徒、答案集めてこっち持って来てくれ!」


 自分でも何書いてんだかよくわからないままタイムアップ。

 普段の授業は開始早々飽きてしまうくらいに時間が長く感じるってのに、テストとなるとどうしてこんな早いんだ?

 ま、済んでしまったものはしょうがない……などと変に割り切っている俺だった。


 その後の授業はつつがなく終了し、放課後になった。

 まだ自席に着いていた俺の周囲が、一瞬のうちに暗黒世界になる。

「し、新城君……、」

 やはり近くには小中野がそびえ立っている。もうこれも毎度お馴染みのシチュエーションだ。

「じゃあ俺は先帰るぞ、じゃあな新城」

「お、おう……じゃあな」

 まるで何かを察しているかのように、藤崎は謎の微笑を浮かべながら足早に教室から出て行った。

「よし、そんじゃ俺たちも行くとすっか」

「う、うん……よろしく頼む……」

 てなわけで、俺と小中野は登校時に約束していた食材の買い物へと向かった。

 今から俺たちが寄ろうとしている「マックスマート」という名のスーパーは、ウチの学校から徒歩三~四分の場所に位置し、地元資本にもかかわらず売り場面積がめっぽう広く、品揃えも大手に引けは取らないくらい豊富なのに加え、生鮮食料品なんかは母親や、たまにおつかいを頼まれる妹の証言から価格の割に品質も良いと聞く。

 しかも、閉店時間が夜十時というのもあって仕事帰りに立ち寄る客も多く、平日の日中はタイムセールも多く催していたりなんかして、その企業努力は目を見張るものがある。

 ちなみに藤崎の母親がパートしているスーパーは、全国に店舗展開している大手企業で品揃えも豊富なのだが、なぜかマックスマートの方が地元民の人気は高い。

 これはおそらく地域に密着した企業方針と、住民の地元企業に対する愛着心の賜物なのだろう。


『う、おっ……、』


 目的地に着いた俺たちは風除室に置いてあるカートにカゴを乗せ店内に入るが、瞬時に周囲の注目を受けてしまう。

 思わず足が止まりそうになったが、小中野はそんなもん何処吹く風という感じで威風堂々と店内を闊歩する。

「気にするな……こういうのは慣れているから……」

「そ、そうか……?」

 ――っていやいやいやいや! そりゃお前はそうかもしれんがな! こっちが慣れてないしマジでいたたまれんわ! しかもお互い制服姿だからそれも何か注目浴びてるっぽいし!

 学校内でこうなるのはある程度慣れてきたが、やはり不特定多数の人間がいる場所では、まだ羞恥心の方が勝ってしまうようだ。

 でも、いくら恥ずかしいからといっても小中野との約束は破るわけにいかない。

 俺は意を決し、カートを押しながら小中野の後をついて行く。

 すると彼女は、鞄の中から手さげバッグを取り出した。

「何だよそのバッグ?」

「何って……普通にエコバッグだが……」

 あーそっか。今は省資源化ってことでレジ袋は有料化されてんだっけか。

 最近はスーパーなんてあんま来なくなったからなぁ……あんま意識してなかった。

 きっと藤崎なんかは嫌でも意識してるだろう。だってよくこのスーパーに世話なってるだろうから。とりわけタイムセールで。

 よく見ると、彼女が手にしたバッグはどうやら中学時代に使っていた学校指定バッグのようであり、側面には擦れて消えかかっている校章が見えている。

 そういや入学式後のオリエンテーション、こいつ確か自己紹介で出身中学言ってなかったな。

「それって中学の時に使ってたバッグだろ? お前ってどこ中だよ?」

 会話もなく、ただ買い物に付き合うよりは何か話題があった方がいいと考えた俺は、軽い気持ちでこんな質問をしてみた。

「そ、それは……あの……、」

 質問を耳にした瞬間、小中野の全身がぴくと反応したかと思うと、俯き加減でこう答える。

「こ、この辺の……中学じゃないから……知らないと……思う……」

 普段からたどたどしい物言いをするやつではあったが、今の口調はニブさにかけては右に出る者がいない俺でも妙だとわかるほどに違和感を覚える。

 でもま、アパート借りてまでウチの学校通ってるくらいなのだから、俺が全く知らない遠方の中学ってのは間違いないのだろうが。

「そ、そうか……悪かったよ」

 俺はなぜか、本当はこの話題を振ってはならないのではないかという思いから、つい謝罪してしまっている。

「い、いや……謝らなくてもいい……それに……、」

「それに……?」

「い、いや……何でもない……」

「あ、ああ……」

 むう……いったいどうしたというのだろう? どこか、昔のことには触れられたくないとでも言いたげだ。


『――ーあ、』


 俺は今、彼女の部屋の本棚にあった昭和アットホーム系ドラマと恋愛小説の存在を思い出していた。

 もしかしたら……これと何らかの関係性があったりなんかするのだろうか?

 またも俺は、彼女の過去や生い立ちを知りたい欲求と衝動に駆られている……。

 しかしそれは、俺にとって何ら知る必要のないことだ。

 俺たち二人の関係はビジネスパートナーだ。ジョイントベンチャーだ。俺には何のメリットもないけれども。

 それに、彼女の過去や生い立ちを興味本位のように探ることは、もしかしたら彼女の心に土足で踏み込むようなものなのかもしれない。だから彼女の心の奥底に潜んでいるであろう不安や淋しさを癒すことを誓った俺には、そんなことなどできるはずがない。 

「さ、行こうか」

 そう思った俺は気を取り直し、彼女に買い物を促す。

「早くしないと夕飯作るの遅くなっちまうぞ」

「あ、ああ……そうだな……」

 小中野は少しほっとした顔をしながら、そう返事をした。

 ようやく俺たちは本来の目的である食材を購入するため、売り場の奥へと歩を進める。

「ところでさ、」

「な、何か……?」

「今日って何作るんだよ?」

 夕食のメニューの問いに、彼女は少し照れ顔で答える。

「か、カレーを作ろうかと……」

 ほほーう、そう来ますか。

 カレーは俺も大好きだし、それに彼女の作ったカレーって何となく期待が持てそうだから、一度でいいから食べてみたいような気がしないでもないけど。

 まず青果コーナーの前で足を止めた彼女は、陳列棚に並々と積まれているニンジン、タマネギ、ジャガイモ等々カレーに必要な食材を手に取り、元々大きな目を更に大きく見開き、まるで職人が一切の妥協も許さないとでも言いたげに自分の作品を厳しく見つめているかの如く、時間をかけてじっくりがっつり吟味した商品を一つ、また一つと買い物カゴにいれていく。

 野菜をひと通り選び終え、お次は豚肉だ。

 食肉コーナーにはカレー用の豚バラが所狭しと陳列されており、小中野は野菜選びと同様にそれを凝視しながら吟味している。

 ふむ……何かこうして傍目から見ているとこいつ、ホント女子力満載って感じだ。もし女子力が計測できるスカ◯ターなんてモンがあったら、その数値はゴミどころか果てしなく上昇し続けた挙句に爆発するかもだ。

 俺に対する今までの無体な扱いから察するに、運動能力も抜群みたいだし……後は学力がどうなのかって話になるけれども。

 もしこれもハイレベルってことなら、なおさら方向オンチってのはあまりに無常で残念すぎる欠点でしかない。

 そういやこいつ……今日の小テストってどうだったんだろ?

「あ、あのさ……お取込み中のトコ悪いんだけど……、」

「な、何……?」

「今日の数学のテストって……どうだったんだよ?」

 豚バラを選んでいる最中だった小中野は両手をピタと止め、おもむろに振り向いたかと思うとなぜかしら訝しげな表情で俺を見る。

「ま、まあまあ……それなりか……でも……たぶん……きっと……、」

 何その答え? 全くイミわからん。◯師丸ひ◯子かよお前は? (by探偵物語)

 この返事を無理矢理解釈すると、玉砕した俺と同じ程度ってのはさすがにないだろうが、そんな極端に良い点数でもないってことでいいのだろうか?

「ま、まあいい……わかった」

 勝手にそう決めつけた俺は、その実何もわかっていないながらもそんな生返事をする。

 それに、どうやらあまり触れられたくない感じにも見受けられたので、これ以上の詮索はよした方がいいのではないかとも思った。


 それにしても……、


 思い返せば、普段から表情は目立った変化を見せず、基本的には仏頂面の小中野ではあるが、「喜怒哀楽」のうち「喜・怒・哀」は既に拝見済だ。

 となると、後は「楽」のみということになるが……こいつって、いったいどんな時に楽しい表情になるんだろ?

 そんなことを考えている俺の目の前で、小中野は豚バラ肉の選別を再開する。

 どうやらお気に入りが見つかったのだろう。しっかりと吟味して選んだ物をすかさずカゴに入れた。

 カレーの食材を選び終えた後は米や味噌、醤油や塩などの普段使うような食材や調味料を購入。無論、価格と品質のバランス重視でしっかりと吟味していたのは言うまでもない。

「ふぅ……こんなものか……」

「とりあえずこれで全部か?」

「あ、ああ……これで暫く……何とかなりそうだから……」

「そっか、よかったな」

 俺の返事に、小中野は満足げで微かに嬉しそうな表情を返してくる。

「じゃあレジ行くか?」

「あ、いや……その前に……サービスカウンターに……」

「サービスカウンター?」

「ぽ、ポイントカードを……、」

 あ、そっか。

 やっぱこいつ、こういうトコはしっかりしてる。今すぐ主婦なっても何らノープロブレムだな。但し、方向オンチっていう欠点さえなければだけど。

 支払いを済ませ、帰りは小中野が購入した品物を持ち、俺が二人分の鞄を持つことになった。

 十キロの米袋を右肩に担ぎながら、左手には食材や調味料がぱんぱんに詰まったエコバッグを持って、颯爽と闊歩する彼女。

 でも……これって普通は逆なんじゃないか?

 いくらこいつの方が俺よりはるかにガタイが良く……まぁこれはあまり思い出したくないが、俺を自分のアパート最上階の四階まで運ぶだけじゃなく、運動部の執拗な勧誘を逃れるために俺を担いで走り回れるくらいパワフルでスピーディーとはいえ、一応はJKだ。

 一見、無双のようでも意外に無理してんじゃないかって感じもなくはない。そう言い切れる自信はあんまないけど。

 それに何か、往来の人々の俺を見る目が「男のくせに女の子(?)にあんな重そうな荷物持たせるなんて……」的な視線を突き付けているような気も……途轍もなく視線の矢がグサグサ刺さって心がいてぇよ。何か不条理な感じしかしねぇなコレ。

「あ、あのさぁ小中野……、」

「何だ……?」

 どうにもいたたまれない思いが抑えられない俺は、心理的動揺と一抹の恐怖感を抱きつつ彼女に持ち物の交換を提案しようとしたが……、


「貴様に……これだけ大量の重い荷物を……私の家まで……持って帰れるのか……このヘタレが……」


 ―ー的な顔をされながら鋭い眼光を浴びせられ、素気なく却下されたのだった……。


 ◆   ◆


 翌日……数学の授業終了後の休み時間。


「おい……新城、」

「は、はあ……、」

「こりゃ何だ?」

「な、何だと言われましても……あはは……」

 思わず苦笑いが口をついてしまうが……先生が言いたいことはわかっているも、俺は敢えてとぼける。

「あははじゃない。何だこの点数はって訊いてるんだ」

「ご、ご覧のとおりで……、」

「ご覧のとおりってお前……、」


 昨日の小テストが散々な結果に終わった俺は案の定、職員室に呼び出されていた。

 俺は先生のお小言と、残念そうな表情の前に返す言葉を失っている。

 そして先生も、俺が何を訊かれてもまともに返事ができないのを見て、二の句がスムーズに告げられずにいるようだ。

「ふう……っ、もういい。但し、」

「た、但し……?」

「中間試験もこんなだったら、放課後補習と追試は免れないからな。わかったらこれからはしっかりと勉強しておくんだぞ。いいな」

「は、はい……どうもすみませんでした」

 そんなこんなでようやく解放された俺は、足取りも重く教室に戻る。

 敢えて結果の公表は控えさせてもらうが……あまりにもひどすぎるよなコレ。

 先生のお叱りは少し癪に障ったが、確かにこんなんじゃいずれやって来る中間テストも覚束ない。


「おいおい……ずいぶんとひどいもんだな」


 答案用紙を見ながらヘコんでいる俺に、更に追い打ちをかけるような声が聞こえてきた。

 声の主はもちろん、幼なじみで十年来の親友、藤崎だ。

「ま、まぁな……」

 今の俺は、親友の言葉に何一つ反論する権利を有していない。

「じ、じゃあお前はどうだったんだよ?」

 あれ? 反論する権利なかったんじゃないか俺?

「ほら、見せてやるよ」

 点数に満足しているのだろうか、藤崎はやや自慢げな顔で自分の答案を差し出してきた。

「ぐ、ぐむう……やるじゃないか……」

 この科白……負け惜しみダダ漏れもいいとこだ。

 確かに藤崎は中学時代から成績は比較的上位で、俺はといえば下の上か、良くてせいぜい中の上あたりをうろうろしていたのは事実だ。

 それにこの高校を志望したのだって、ただ単に家から一番近かっただけのことだったからなぁ……こんなんでよく合格できたものだと今さらながらに安堵する反面、ゾッとしたりもする。

 小テストのあまりにもヒサンな結果に、情けなさと若干の憤りを感じている俺の背後が徐々に暗くなっている……。

「おっと……お邪魔したら悪いからそろそろ失礼するぞ」

「は?」

 状況が良く理解できていない俺を尻目に、藤崎は答案をさっとかすめ取るや否や、疾風(はやて)の如く去って行った。


 すると……、


「ひどいな……」

「ひいいいいいいいいっ!」

 突然、背後から聞こえてきた低いトーンでおどろおどろしい声音に、俺は思いがけず悲鳴を上げてしまう。

 声の主はもちろん、言うまでもなく小中野だ。

「ひ、ひどくて……悪かったな」

 確かにひどい結果には違いないが……、

「そういうお前はどうだったんだよ?」

 それを藤崎以外の人間に面と向かって断言されたことに、少しばかりイラっと感が頭をもたげてきてしまい、若干語気を強めて反論する……ってこれ、ついさっきも同じようなやり取りがあったような気が……。

 対して小中野は、首を左右に振りながら答案を見せるのを拒否っている。

 昨日の帰りに寄ったスーパーで買い物中の本人から訊いた限りでは、撃沈した俺ほどではないにせよ、それほど際立っていい点数でもないという勝手な結論に落ち着いてはいたが……ただ、あの時もあまり触れられたくないような態度だったので、信憑性については全くの未知数だったからなぁ。

「どうして見せないんだよ?」

「え、ええと……あの……、」

「いいから見せろよ。俺のだけ見てお前が見せないってのは不公平だろがよ」

「そ、それはそうだが……でも……やめたほうがいいと……、」

 こんな言い訳めいたことをのたまいながら、小中野は頑なに自分の答案を見せようとはしない。

「何だよ? もしかしてお前もひどかったのか?」

「べ、別に……それは……、」

 言葉に詰まっている小中野は、その巨体に似合わず身を怯ませている。

 だがしかし……、

「そうか……それじゃあ、」

 俺には対小中野用の秘密兵器がある。

 でもこの手段、何か弱みに付け込むみたいであんま使いたくなかったんだけど。

「いいんだな……明日から迎えに来なくても……」

「う、ううっ……、」

 俺の卑劣極まりない最終兵器に一瞬の戸惑いを垣間見せた小中野は、思いがけずも手にしていた自分の答案用紙を落としてしまう。

「あっ……、」

 すると、幸いにも答案用紙はまるで吸い寄せられるかのように俺の足元に舞い飛んできた。

「お、ラッキー、へへっ」

 答案を素早く拾い上げ、さっそく点数を確認すると……えっ?


『こ、これはっ……そんなバカな……』


 全然ラッキーじゃねーよ! 前言撤回っきゃねー!

「す、すまん……返す」

 俺は小中野の答案をやおら突き返す。

 あ~あ……見なきゃよかったなぁ。

 え? 何でかって?

 だって……藤崎よりも点数、上だったんだもん。

 しかも……×が一個もなかったんだもん。

 つまり……点数が三ケタだったんだもん。

 ホント……これじゃただのヘタレバカじゃん俺。今さらだけど。

「だ、だから……やめたほうがいいと……、」

 こんな弁解の声も、今はまともに耳に入らない。

 結局……小中野って超絶方向オンチ以外は完全無欠だったのか。

 はぁ……自分で自分が情けなくなってくるよ……。

「そ、そう気を……落とさないでくれないか……」

 誰の目にも落ち込み具合がハンパないのがわかるであろう俺の眼前で、それでも彼女は普段どおりの口調と声音で話しかけてくる。

 でもそれが、今は何とも言い知れない心の負荷となって跳ね返ってくるのも確かだった。

「はああ……っ、」

 自分自身に対する不甲斐なさと情けなさを噛みしめるように、一つ大きくため息をつく俺。

 仕方ない……中間テストは藤崎んトコでも行って勉強教えてもらうとするか。

 呆然且つ漠然とそんなことを考えていた瞬間……、


「べ、勉強……教えようか……?」


 俺の耳元にはこんな言葉が投げかけられていた。

「―――――へっ?」

 ふと我に返り、項垂れていた頭を上げた俺は、彼女が自分の視界から消えているのに気がついた。

『あ、あれっ?』

 おかしいなぁ……ついさっきまで近くにいたあんなデカい人間が瞬時に視界から消えるなんて……もしかして突発性視野狭窄症?

 不思議に思い、辺りを見回そうとして首を右横に振ってみると……、


「う……っ、」


 眼前には、思いっきり顔面どアップの小中野の姿があった。

 俺は顔面どころか全身が硬直してしまい、声も発せない。

 いつの間にか真横にいた小中野……その距離はおそらく十センチあるかないかで、ひとつひとつの毛穴すら目視できるほどに至近だ。

 どうやら俺の耳元で呟いた瞬間、急に振り向いたものだからこうなってしまったのだろうが。

「あっ……、」

 彼女にしても予想外の展開だったのだろうか、こんな呆気に取られたかのような声を発している。

 こんな状態のまま、俺たち二人は微動だにしない……いや、できないと言った方が正解だろう。

 すると、彼女の顔がみるみる紅潮していく。

 それに、いつもの仏頂面はどこへやら、照れ顔の中にも若干はにかんだような表情をする。

 小中野って……こんな顔もできるんだなぁ。

 普段はお目にかかれないであろう彼女の表情を見られたことに驚くと同時に、言葉では言い表せない安堵感を抱いてしまう。

 でも……どうしてだろう?

 俺と彼女は単なるビジネスパートナーでしかないはずなのに……、

 ま、いーや。あんま深く考えないようにしよっと……ってそればっかだな俺。

 こんなんじゃアタマのデキが悪くてどうしようもなくニブくてヘタレで、加えて軽くて薄っぺらな人間じゃんよ。

 ああ……何だか急激に生きてるのが辛くなって、思わずごめんなさいしたくなっちまったなぁ。

 などと、自己の存在を全否定したい念に駆られてしまったが、結局のところ小中野の誘いに明確な返答をしないまま、放課後になってしまう。


「さ、か、帰るぞ……」

 午前中の顔面どアップの影響が今だ残っていたのだろうか、俺は発語がどもってしまう。

「あ、ああ……よろしく頼む……」

 表面上は普段とあまり変わらない口調の小中野だが、頬がほんのり赤みがかっているように見える。

 その後はいつもどおりに下校する俺たちだったが、道中は彼女にただのひとことも話しかけられずにいる。

 以前、藤崎から登下校中に全く会話がないのもどうなのかと言われていて、それからは努めて話題を振ろうとしていたのは確かだ。

 だから最近は、大して変わり映えしないながらも日々の出来事とか、週明けなんかは休みの日の出来事とかを割と積極的に話したりもしていたのだが……ま、そんな面白そうな話題なんてあんまないけれども。

 対して彼女はというと何かを話してくることは殆どなく、たまに話を振ってもせいぜい言葉少なで応じるくらいだ。

 ただ、いくら一人暮らしに加え極度の方向オンチのために単独の外出がままならないとはいえ、身の回りの出来事が皆無なんてことはないと思うし、仮に休日なんか日がな一日家にいたとしても読書とか勉強とかしているんじゃないだろうか。

 もちろん部屋にはテレビもあったから、自分が持っている昭和アットホームドラマや最近のドラマとかの感想とか、あるいは好きな芸能人やアーティストとかいないのだろうか?

 それに、食事だって自炊しているんだから、例えば夕食は何作ったとか出来栄えはどうだったとか、話題なんてものは例えつまらないこととかしょーもないこととか、挙げようと思えばいくらでも出てくるだろうし、もし自分のプライベートを曝け出すのが恥ずかしいのなら、いくらでも俺の私生活を問うてきたって一向に構わないのだけれど。

 ま、そんな面白くも自慢もできそうなプライベートなんてもん、欠片もねーんだけどさ。

 でも……どうしてだろう?

 もし彼女にそれ聞かれたりしたら、いろんなことを話してやりたいって思う。

 自分のことはもちろん、普段の出来事、友人のこと、家族のことや小さい時の頃……、

 それが面白かろうがつまらなかろうが、他愛のないものであろうが……そんなのはどうでもいい。

 そして俺も、彼女のそういう何気ない日常の話や小さい頃の話を聞いてみたいと思ったりする……。

 そんなことを延々と考えているうちに、いつの間にか彼女の部屋の前に到着していたようだ。

「じ、じゃあまた……明日な……」

「あ、ああ……いつもすまない……」

 互いにたどたどしい挨拶を交わし、俺はアパートを後にする。

 俺はもやもやとした何かを引きずったまま、百メートルにも満たない家路を辿っていた。


 ◆   ◆


 とある日の休み時間、俺は藤崎の前席に陣取り昼食を共にしていた。


「な、なあ藤崎……、」

「んー……どうした新城?」

 藤崎は少しばかり気だるげな態度で応えているが、俺はそんなことなどお構いなしに言葉を続ける。

「あ、あのさ……中間テストまであんま日もないし……それで、」

「おっと、」

 言わんとしていることを即座に察してはくれているようだが、なぜか藤崎は言葉を遮ってくる。

「それは構わんが……でもな、」

「でもって何だよ? ホントは嫌だってのか?」

 その意図を理解できずにいた俺は、少しばかり語気を強めて返す。

「そうじゃないって……なあ、新城」

「何だよ?」

「お前がニブイのは別に今、始まった話じゃないけどな……」

 たくうっせーな。だからそれ、自分が一番よくわかってんだっつーの。

「ほら」

「えっ?」

 藤崎は少し視線を外して背後へと意識を促すと、俺もつられるように後ろを向く……すると、

「あ、あー……」

 やっと藤崎の真意を察した俺だった。

 視線の先には小中野が普段の仏頂面を一変させ、見るからに不機嫌さダダ漏らしの顔でこちらを凝視している。

「そういうことだ。まぁ頑張ってくれよ。いろんな意味でな」

 何だよその「いろんな意味」ってのは? 俺はお前の言ってることがいろいろと意味わかんねーよ。

 それはともかく……そういや以前、小中野から数学の小テストの結果が散々で先生に呼び出された後に「勉強教えてやろうか?」とか言ってきてたな。

 確かあの時はお互いの顔面が異常接近した影響で会話が途切れ、話がうやむやになってはっきりとした返事をしないままだったが。

 それ無視して藤崎に教えを乞うてしまったら、後でどんな目に遭わされてしまうのか……。

 おほーお! あぶねーあぶねー! 助かったぜ藤崎ぃ!

 寸でのところで危機を救ってくれた親友は、ちらと小中野に視線を向けて何かしらのアイコンタクトをしているようだった。

 でもなぁ……俺って勉強メチャ嫌いだし(てか好きなヤツっているのか? いたとしたらそいつはよっぽどのM属性野郎だな)、それに何かあいつの教え方って普段の学校内の態度から豹変して、いいだけビシバシやられそうな感じありそうだし。

 正直言って藤崎の方が長年の付き合いもあって、そんな気を遣う必要もないんだけど……。

 てかそれ以前に勉強する場所がどこであれ、数日間男女が同じ空間に近接して二人きりになるってのがどうにも苦手だ。だいたいにしてこんなコト考えるからヘタレって言われちまうんだろうな。


 そんでもって放課後、今は帰り道。


 この時の俺は、明らかに自分に勉強を教われと無言のまま訴えかけている感ありありの小中野を隣にしながらも、十年来の親友から教わることにまだ後ろ髪を引かれる思いが頭をよぎる。

 反面、いくら小テストとはいえ満点を取れるほどの頭脳明晰な人間から教わるのも、これはこれで魅力的という思いも捨てきれない。

 結果……毎日同伴登校している相手そっちのけってのもどうかとの考えに至った俺は、全く気が進まないながらも彼女から教わることにした。

「あ、あの……その……、」

「ど、どうした……?」

 などと言ってはくるが、その顔は「絶対私だよね? 私に教わるんだよね?」という気合と意気込みに満ち満ちているように見える。

「べ、べべべ……べん……、」

 口を開こうとするも、まだ藤崎という選択肢が完全に拭い切れていない俺は、スムーズに言葉が出てこずにいた。

「べん……きょう……おおお教え……、」

 頼む俺! お願いだから口に出さないでくれっ! 口にしちまったらもう後戻りできなくなっちまう!

 隣では小中野が、妙に勝ち誇った顔で俺をガン見しながら今か今かと返事を待っている。


「教えてくれ……ないか……なぁって……あは、あははは……っ」


 あ~あ……とうとう口にしちまったよおい。どうしてこうなっちまったんだろうなぁ……。

 ま、それもこれも俺のアタマのデキが悪いからって話に尽きるんだけど。

「わ、わ……わわわかった……」

 俺の返事を聞いた途端、どういうわけか急に顔を歪ませ、いつも以上に発語がどもっている小中野……てかそんな動揺するくらいなら、あんな期待感丸出しの顔なんかすんじゃねーってのよ。

「そ、そっか……じゃあ月曜日の放課後からってことで……いいか?」

「そ、そそ……そうだな……そうしよう……」

 てなワケで……まだ知り合ってから二か月にも満たない男女が二人きりで勉強することに、照れ臭さと幾ばくかの恐怖感と不安感が入り混じる心境の俺は、何はともあれ来週から彼女に勉強を教わることと相成ってしまった。


 そしていよいよやってきた当日の朝、俺は小中野を迎えに行く。

 この行為そのものはいつもと何ら変わらないのだが、今日は少しばかり……いや、少しなんてもんじゃないくらい平常心が保てずにいた。

 今日から俺は小中野に勉強を教わることになっているのは先に述べたとおりだ……しかし、

「な、なあ小中野……」

「ど、どどどうした……?」

「べ、勉強……どこでやろうかって……思って……」

 場所をどこにするかと問うた瞬間、小中野の顔がまるで「ぼふっ!」という音が聞こえてきそうなくらい、見る見る真っ赤になっていく。

「お、おい……どうした?」

「……………」

 あ~あ……顔真っ赤にして下向いたまんま、なーんも喋んなくなっちまったよこいつ。

「じ、じゃあ……図書館あたりでいいか?」

 小中野がだんまりを決め込んでしまったので、仕方なく俺はありきたりな場所を提案してみる。

 すると小中野は、ふと我に返ったかのように顔を少し上げた。

「わ、わかった……」

『――んっ?』

 相も変わらずたどたどしい口調の彼女だが、なぜか今の表情は少しばかり拗ねているようにも見えるし、返事の仕方が多少煮え切らないように思える。

 兎にも角にも一応は同意を得られたので、俺は教室に入るなりまっすぐ藤崎の席へ歩を進める。

「お、おっす……藤崎」

「おう、おはよう新城」

 心理状態の不安定さを隠しきれないような挨拶をする俺に対し、藤崎は今日も普段どおり冷静沈着に返してくる。

「そういや……、」

「どうした?」

「お前、今日から小中野さんに勉強教えてもらうんだったな」

「ま、まぁな……」

 不意に俺は視線を右斜め三十度ほど逸らして答える。

「それで……どこでやるんだ?」

「んっ、ああ……とりあえず図書館ってことにしたけど……」

「そうか……、」

 すると今度は藤崎が右斜め三十度ほど視線を逸らし、なぜかつまらない物でも見ているような顔をする。

「……何だよ?」

「いや……何でもないよ」

「嘘言うな。そんな顔する時のお前は絶対、何か他に言いたいことがあるってのはわかってんだよ」

 確かに、これまでも藤崎がこのような表情を向けてきたことは何度もあった。

 ただ一つ違うのは、超絶ニブい俺でも今日のそれは少し違うニュアンスが含まれているのが感じ取れたので、思わず追及してしまう。

「――それじゃ、言わせてもらうとするよ」

 藤崎はふぅと一つため息をつき、更に言葉を続ける。

「お前、本当にそれでいいと思ってるのか?」

「えっ?」

「図書館でいいのかって訊いているんだよ」

 いつになくキツい目つきと口調で問い返してくる藤崎。

「ど、どういうことだよ……?」

 どうにもその真意が汲み取れずにいる俺は、これ以上の言葉が出せずにいる。

 すると藤崎は、しかめ加減の表情をふっと解く。

「まあ……例えばの話だけど、お前と小中野さんが二人揃って図書館なんか行ったら間違いなく注目集めまくるはずだから、彼女はともかく肝心のお前が勉強に集中できなくなるってのも充分にあり得ると思うんだけどな、俺は」

「む、むうぅ……っ、」

 確かに……そうかもしれない。

 俺と小中野の凸凹コンビがああいったパブリックスペースなんか入っちまったら、以前二人で行ったスーパーの如く注目を浴びてしまうだろう。いや、小中野単体でもそれは同じかもしれないが。

 それに、いくら勉強を教わっていても、周囲から好奇の目を向けられて羞恥心ばかりが頭の中を駆け巡り、肝心かなめの教わった内容が頭に入らないのでは無駄に時間を消費するだけで、そんな状態でテスト受けたって結果が伴わないなんてことになりかねない。

「じ、じゃあどこでやりゃいいってんだよ……?」

 この問いに藤崎は、さも当然のようにしれっとこう答える。 

「愚問だな。そんなのお前の家でいいだろう?」

「……………へっ?」

「『へっ?』じゃないって。お前の家でって言ってるんだ。幸いにもお互い家が近いから、少しくらい帰りが遅くなっても問題ないだろうしな」

「え……っうええええええええええっ!」

 あまりに大胆な藤崎の提案を耳にした俺が発した絶叫に、教室内のクラスメイトが一斉に視線を向けてくる。

「お、おい……そんな大声出すな。みんな驚いてこっち見てるじゃないか」

「で、でもな……、」

「それじゃ他にどこがあるって言うんだ?」

 心の動揺冷めやらぬ俺を見る藤崎の表情は、呆れ顔の中にも憤りのようなものが見え隠れしている。

「ど、どこがって……それは……、」

「図書館もお前の家もって言うんなら……後はいくらニブいお前でもわかるだろう?」

「ぐう……む、ううっ、」

 藤崎が言わんとしている意味を察した俺は、もはや言葉に詰まるしかなくなっている。

 かと言って……俺の家でなんてことになれば、まだ高校入学からそんなに経っていないのに、いきなりクラスメイト女子を連れて来たりなんかすれば……、


「へえぇー! もしかしてカノジョさんですかぁー! 高校生なってまさかこんな早くから堂々と家に連れて来るなんてねぇー! ヘタレのくせに意外とスミに置けませんなぁー! くのこのっ!」


「あらま? あんたが亜紀ちゃん以外の女の子連れて来るなんて珍しいじゃないの。何だか明日は槍でも降ってきそうだわ。あーあー怖い怖い。くわばらくわばら」


 こんな感じで妹と母親から言いたい放題されそうだ……ってまだ言われてもないのに想像しただけでめっちゃ腹立つなぁおい!

 ま、そうやって冷やかす前に、まず小中野のガタイに驚いちまうだろうけどな。

 斯様に我が家の女性陣の口の悪さには辟易してしまう。

 加えて今は親父が北海道に単身赴任中なものだから、女性陣二人の悪口雑言や嫌味皮肉の類は現在、新城家唯一の男である俺が一手に引き受けなければならない……ああ親父ぃ! お願いだから早く本社勤務なって帰って来てくれぇ!

 そ、それはともかく……まさか俺が一週間も一人暮らしJKの部屋に通い詰めるってハナシにもならんだろうしなぁ……いやいやちょっと待て! しっかりしろ俺! 冷静になるんだ!

 ま、まぁ……周りの入館者の視線と、新城家女性陣からの冷やかしと、一人暮らしJKルームの通いDKってのを比較検討すれば、やっぱ図書館という選択肢が無難且つ妥当な判断なのは疑いようがない。

 ただそれは、俺が来館者の衆目に耐えつつ勉強に集中できさえすればだが。

 てなわけで、藤崎の突拍子もないアドバイスを何とか退けた俺だった。


 キ~ンコ~ン、カ~ンコ~ン


「あ……もう放課後かぁ」

 六時限目終了のチャイムが鳴ってからも暫く頭の中がぼへーっとしたままホームルームをやり過ごし、机の上をだらだらと片付けていると……入学初日からすっかりお馴染みになった暗黒世界。

「い、行こうか……?」

 そしてこれもお決まりの、低音でぼそっとした口調の声音。

「あ、ああ、そうだな……」

 こんな腑抜けた返事をしながら俺はおもむろに席を立つ。

「じゃあな新城。頑張れよ」

 俺たち二人が教室を出ようとした時、不意に藤崎が声をかけた。

 見ると、その顔つきはなぜかほくそ笑んでいるように感じられる。

「……何をだよ?」

 それが少し癪に障った俺は、上目遣いで藤崎を睨み付けている。

「もちろんテスト勉強に決まっているじゃないか。他に何かあるのか?」

「べ、別にねえよ……じゃあな」

 またも俺は気のない返事をして、そそくさと逃げるように教室を出て小中野の後をついて行く。

 いつもの俺なら、彼女を送り届けるというルーティンワークを終えた後は俄然、元気いっぱい夢いっぱいになるのだが……、

 ところが今、こんな腑抜けた状態にあるのはまず、基本的に勉強ギライというのが理由としては大きい。

 つまり、くそつまらない授業を六時間も受けた後、なぜに家帰ってからの自由な時間まで勉強せにゃならんのかって考え方なのだ。ま、そんなのエラそうに言えたモンでもないが。

 でも今回は、いくら無言の圧力っぽい感があったにせよ、形としてはこっちから彼女にお願いしたことだし、それを破ることは男として、そして人間としてできないという人道的制約もある。

 それ以前に約束無視しようものなら……ああっ! 想像しただけで恐ろしいっ!

 そんなことを考えていたら、いつの間にか校門に差しかかろうとしていたようだ。


「痛てっ!」


 まともに前を見ずに歩いていた俺は、校門の手前で立ち止まった小中野の背中にぶつかってしまう。

「あ、す、すまない……」

「い、いや俺も少しボサっとしてたからさ……悪かったよ」

 しかし小中野は、俺の謝罪に何一つとして反応を見せず、無言で立ち止まったままだ。

「お、おい……どうしたんだよ? こんなトコつっ立……」

 すると、言葉をかけ終わらないうちに彼女の姿は瞬時に視界から消えていた。

『えっ?』

 いったい何が起こっているのかが全くわからず、呆気に取られるしかない俺が気付いた時には……、


「う……うわあああああああああああああああっ!」


 目にも止まらぬ早業で背後に回り込まれ、ぐわと身体を持ち上げられたかと思った瞬間……あろうことか、またもお姫様抱っこされてしまっていた。しかも今回は学校敷地内で。

「や、やめろ……」

「……だめだ」

「やめろ……降ろせえっ!」

 俺はたまらず小中野に怒鳴っている。やや震えた声で。

 以前俺は一度、彼女にお姫様抱っこされたことがあるにはあるが、あの時は彼女のアパート近くであり、また結果的に誰の目にも触れなかったのでまだ許せもできよう。

 だが、ここは学校敷地内であり、まだ下校途中の生徒が多数存在しているこの場所でこんなことされちまったら……。

 狭隘(きょうあい)な視界ながらも辺りを見渡してみると案の定、呆気に取られている者、見て見ぬふりしている者、苦笑失笑している者、冷やかしの言葉を投げつけてくる者……その反応は様々だ。

 それより何より先生にでも見つかってしまったら……いったいどうしたらいいんだよもう!

 そんな時だった……俺が自分の耳を疑いたくなるような科白を聞いたのは。


「連れて行け……私の家まで……」


「は?」

「聞こえなかったか……?」

「は、はぁ……、」

「私の家まで……連れて行けと言ったんだ……」


「はぁ……はあああああああああああああああっ!」


 な……何だよそれ……?

 これじゃまるで拉致じゃねーか! しかも口調がいつもと違って命令形なってるし!

『はっ……、』

 そうか……こいつ最初っから図書館行く気なんかなかったってことだな。

 たくもう……仕方ねえ奴だなぁ。ま、仕方ねえのはまたおんなじ手に引っかかった俺も同じだけどな。

 小中野の術中にまんまとはまってしまった俺は、一切の抵抗が効かない力ワザの前にもはや観念するしかなくかっていた。

 ちなみに日本ではこういうのを「開き直り」という。

「わーった! わーったからいい加減降ろしてくれよ!」

「……………」

 俺の懇願に小中野は無言のまま抱っこを解き、地上に降ろしてくれた。

 もし叶うものなら、今すぐにでもダッシュかけて逃亡者にでもなりたくなるが、相手が方向オンチ以外全てにおいて無双の小中野となれば百……いや百二十パーセント逃げ切れるはずがないのは既に実証済みだ。

 それとこれはさっきも言ったけど、その前に約束したことを破るってのが人道的に問題あるっていう、今となっては宗旨替えしたくなるような自身の信念もあるけれども。

 結局のところ俺は、学校を出てから図書館に向かうこともなく小中野を家まで送り届けるという、いつもどおりのパターンと相成ったのだった……。


 ◆   ◆


「は、入ってくれ……」

「お、お邪魔します……」

 このように、何の因果か応報か、俺は再び小中野の部屋にお邪魔することとなった。

 そういやここに初めて来た時もお姫様抱っこされたっけなぁ……ここに来るとあの時のいまいましくもハラハラドキドキ感を思い出してしまう。

 久しぶりに入ってみたが、相変わらず整理整頓がなされていて、清潔感と落ち着いた雰囲気が漂う部屋だ。

「そ、そこに座ってくれ……お茶を用意するから……」

「あ、ああ……」

 気抜けた返事をしながら指し示された方を見てみると……、

『……はあ?』

 なんと既に勉強用のテーブルが用意されていて、しかも座布団が向かい合わせに二枚、敷いてある……ってこれ、昨日のうちに支度しておいて、はなっからここに連行するつもりだったのかよこいつ!

 全く……いらんトコで強引且つ用意周到な奴だ。

 俺は半ば呆れ返りながらも目の前の座布団に鎮座する。


「ふううぅー……っ、」


 ため息をつきつつ辺りを見渡してみると……本棚の中には初めてお邪魔した時と同様、昭和アットホーム系ドラマのDVDと恋愛小説(一部趣味のノンフィクション本)が収まっている。

 更によく見ると、前回訪問時は本棚に多少の隙間があったような感じがしたが、今はそれがなくなっている。どうやらあれから何冊か購入しているようだ。たぶんネットで。

 ―ーなどとそんな事を漠然と考えていると、


「むっ……?」


 芳醇且つ、やや酸味がかった香りが微かに鼻をつく。


「ど、どうぞ……」


 目の前に出されたのは前回の緑茶に代わり、コーヒーだった。

 言い忘れていたが、俺はまだ高校一年であるにもかかわらず、コーヒー大好き人間なのだ。

 これは、自分の小遣いをコツコツ貯めてコーヒーマシンを購入するくらいに無類のコーヒー好きである父親の影響であり、小学五年あたりから飲み始めていた。

 ただ、この頃は夕方以降に飲んでしまうとカフェインの効果で夜、寝付けなくなってしまうものだから平日に飲むのは禁止されていて、休みの日中に限定されていたが。

 しかし今は父親が北海道に転身赴任中で、引っ越しの時にマシンも持って行かれたため、普段はネ◯カフェとかのインスタントか、せいぜい街に出かけた時にス◯バとかタ◯ーズ行くくらいだ。

 そんなだから藤崎も俺が遊びに来れば、必ずと言っていいほどコーヒーを出してくれる。

 当然、藤崎の家にもマシンはないので我が家同様インスタントになってしまうのだが。


 それにしても……なぜだ?


 キッチンに目を向けると、なぜか本格的なコーヒーマシンが鎮座ましましている。しかもメーカーはデ◯ンギの、割と値の張りそうなやつだ。

 もしかして……こいつも実は昔からのコーヒー愛飲者なのだろうか?

 でも確か、初めて来た時に見た限りではこんなの、なかったはずだが……。

 何かしら不穏な思いを抱きながらもカップを手に取り、口にする……んんっ!


「こ、これはっ……、」


 などと、まるで「美◯しんぼ」に登場する、最後は主人公にへこまされるにわか食通さながらの科白が思いがけずも口をつく。

 かほどにこのコーヒー、豆も厳選されていて、なおかつブレンドも文句のつけようがない。

 味わえば味わうほどに上品さが口の中に広がる旨さに思わず俺は、小中野にこんな質問をする。

「お前、コーヒー好きなのか?」

「あ、いや……そんなでもないが……」

 へっ? そうなの?

 ここまで美味しくできるのだから、てっきり愛飲しているものだと思ったが……。

「で、でもそのマシン結構高いだろ? それに豆も相当いいモン使ってるみたいだしさ」

「そ、そうか……?」

 どこかとぼけている感を窺わせるような返事をしながら顔をうつむかせ、その後はすっかり黙りこくって微動だにしない小中野。

 それに……確か今までこいつに自分がコーヒー好きだって話したことなんかなかったはずだが……。

「もしかしてお前……俺がコーヒー好きなの知っててわざわざこんなもん買ったわけじゃないよな?」

 いろんな意味でどうにも腑に落ちない俺は、自分の好物のネタばらしも込めて少し質問の方向性を変えてみた。

「……………」

 どうやら自分にとって都合の悪い問いだったのだろうか、小中野は微塵も答える様子などなく、完全に顔をそむけてしまっている……ふむ、普段は殆ど感情を露わにしないくせに意外とわかりやすいヤツだなこいつ。

 その後は暫く沈黙の時間が過ぎていくが……、

『―ー―ー―まさか、』

 もしかしたら……、

「誰かに……訊いたのか?」

 確証は持てないながらも小声で追及すると、彼女の全身がぴくと反応を示している。しかもガタイが大きいから、反応も比例して大きく見える……ような気がした。

「訊いたんだろ? な?」

 俺は心持ち目つきをキツくして追及する。自分的にはかなり大事に思えたから二度目。

 更なる追及に、彼女はさっきと同じ微かに大きな(?)反応を見せるが……どうやら口を割りそうにはない。

「たく……仕方ねーなぁ」

 これ以上の追及は無駄と考えた俺は彼女から視線を逸らし、再びコーヒーを口にする。

 なんにしてもこのコーヒー……飲むほどに、味わうほどに心が唸らされる。

 さっきの疑念はとりあえず置いておくとして、純粋にコーヒーを愛飲する者として言わせてもらえば、間違いなく高評価を与えられる。

『あれっ……?』

 この時、コーヒーを飲み終えた俺の目線は再び本棚へと向けられていた。

 部屋に入ってすぐに見た時はぱっと見だったので、配置の変化も漠然としか感じていなかったが……、

「お、お前まさか……、」

 カップを置いた俺の視界に入ってきたのは、数冊のコーヒーに関する書籍だった。

 おそらく彼女は、何らかの方法で俺のコーヒー好きを知ってからマシンを購入したばかりか、美味しく淹れるために豆の知識やブレンドの仕方を独学で勉強していたのだろう。

 初めてここに来た時に見た本棚の隙間は、どうやらこれらの本で埋められていたようだ。

「あのなぁ……、」

 大方の事情を知った俺は、半ば呆れ顔をしながら言葉を続ける。

「俺みたいな奴に何でこうまでしてくれるのかはわかんねーし、コーヒーが好きなのも誰から訊いたのかしんねーけど……、」

 この言葉にも彼女は今だ、黙りこくったまま微動だにしない。


「はっきり言って、こんなことするお前は……好きじゃない」


「―――――えっ……?」


 ここで初めて彼女は、そむけていた顔を慌ててこちらに向けてきた。

「あのさ……以前、初めてお前とスーパーに行った時のこと、覚えてるか?」

「あ、ああ……」

「あん時のお前……これでもかってくらい商品を良く吟味して、品質と値段のバランスを考えながら選んでいたから、もっと経済観念しっかりしてるって思ってたのに、こんな高い買い物したら元も子もないし、何より仕送りしてくれる親御さんにも悪いだろうが。違うか?」

 少しばかりムッとした口調で問い質す俺だったが……彼女からすれば、外出の付き添いに対するささやかながらのお返しという意味合いも込めて俺に喜んでもらおう、心からもてなそうとしてこんなことをしているのかもしれないが。

 しかし、いくら何でも物事には限度というものがある。しかも我々はまだ高校生になったばかりなのだから、金銭的な分相応の範囲というものがある。

 そう考えるからこそ、俺はこんな苦言を呈しているのだ。

「そ、それはその……あの……、」

 言葉に詰まり、困惑した表情を隠せずにいる彼女。

 そんな姿を見ているうちに、俺はついさっきまでの憤りにも似た感情が、徐々にではあるが収まりつつあった。

「……………」

 結局彼女は、俺の問いかけに答えず終いだった。

 それに、このまま黙秘権を行使され続けても埒が開かないのは確かだし、拉致同然だったとはいえ結果的にもてなされたのは他ならぬ自分なのも事実だ。


「ふうぅー……っ、」


 多少興奮気味になっている気を鎮めるため一つ大きくため息をつくと、俺の苦言に落ち込んだ表情の彼女に声をかける。

「もし……もしさ、お前が変に気を遣ってこんなことしたってんなら、これからはもうやめてくれよな」

「し、新城君……」

「だいいち、経済的に無理してまでこんなことされても嬉しいどころか逆に心苦しいだけだし、お前だってやりくり大変なっちまうだろ? 俺はお前のその気持ちだけで充分なんだからさ」

「す……すまなかった……」

「い、いや謝るこたないけど……まぁでもさ、」

「で、でも……?」

「せっかくこんな高いマシン買っちまったんだし、遊ばせておくのも勿体ないからさ。今度は俺も豆買ってくるから、そん時はまた今日みたいな旨いコーヒー飲ませてくれよな。ははっ」

 なぜか……俺は彼女にどうしても非情になりきれない。

 だから、こんな言い方しかできなかった。

 あ~あ……俺ってホント、甘ちゃんヘタレ男子高生だ。

 でも、こうまでして旨いコーヒーを出そうとしてくれたこと自体は内心、素直に嬉しいと思ったのも間違いではない。

 俺の言葉に、自分の頭を超高速ムーブでこくこくさせる小中野。

 だけどそんなに激しく上下に動かして眩暈とかしないんだろうか?

 しかもその風圧で俺の前髪がちょっとなびいてるしな。

 頭の上下運動を終えた小中野の前髪はやや乱れ加減になってしまい、くりっとした瞳が上半分くらい隠れていたりなんかする。

「さ、そろそろ勉強始めっか?」

「そ、そうだな……」

 何とか場が落ち着きを取り戻したところで、ようやく俺たちは当初の目的であるテスト勉強を始めることにした。

「何からやる?」

「と、とりあえず……数学で……どうだろうか……?」

「そうだな。そうすっか」

 さっきの頭上下運動で乱れた前髪を整えている小中野の提案に俺は同意する。

 そういやこいつって、こないだの数学の小テスト、満点だったよな。

 俺はといえば散々たる結果に終わって、その挙句に先生から呼び出し喰らっちまったけど。

 確かその後答案見られて「ひどいな……」とかディスられてたっけ。

 さすがに高校最初の定期試験でいきなり赤点取って追試とか補習ってのもどうかと思うし、何より彼女の付き添いを仰せ遣っているのだから、その間待たせてしまうってのも気の毒な話だ。

 それに、何事も最初が肝心って言葉もあるから、解らないところはしっかりと教わらねば……てか殆ど解らないトコだらけだけどな。

 ま、俺の人生なんて「為せば成る」ってよりか「なるようになる」って感じだから当然、勉強にしたって例外なくこの主義を貫いてきたわけなんだが。

 などと、こんなだらしなくもくだらん主張はどうでもいいとして……小テストの時同様、一つの問題を解くのに四苦八苦する俺をよそに小中野はすらすらと、そして次々に問題を解いている。

「ど、どうだ……?」

 悪戦苦闘する俺を見かねたのだろうか、小中野が様子をうかがってくる。

「ま、まあ見てのとおりだ。全く歯が立たねーよ」

「そ、そうか……どれ……、」

 そう言いながら、テーブルの向かい側にいる俺の方に上半身を乗り出してくる。

 と同時に彼女の顔が俺の顔に異常接近した。


『う、っ……、』


 こいつ……何かいい香りがする。まるで花◯石鹸か牛◯石鹸のような。

 思い返せば、これまでも異常接近どころか接触事故や密着状態なんてのもあったってのに……どうして今さらながらにこんなことを思い浮かべてしまったのだろう?

 あ、そか。これまではあまりに突飛過ぎたり予想だにしなかったことばかりで、そんなふうに思える余裕なんかなかったのかもな。

「ど、どうかしたか……?」

「い、いや……何でもないよ。はは……」

 俺の返答に小中野は頭上に「?」が漂っているような顔をする。

 だいたい、本人に面と向かって「いい香りがする」なんて、ある意味セクハラともとらえられかねない発言なんかできるわけもないが。

「さ、さあ解き方教えてくれよ」

 寸でのところで正気に戻った俺だった。


「ここは……こうなるから……後はこの解の公式を使って……数値を当てはめていけばいい……」

「あ、そっか」

「次も……似たような問題だから……解らなかったら……教えるから……」

「おう、わかった」

 こんな調子で何とか順調に勉強は進んでいくが……それにしても何でこんなに教え方上手いんだ?

 その方法はというと……一つの例題をじっくり時間をかけて解説してから、間髪入れずに類似問題を数問解かせるという、ひとつひとつをしっかりと理解させた後で次の例題に入るというもので、少しでも理解していない部分があれば絶対次の問題に進ませないようにしている。

 しかも彼女、元々のデキが悪くてなかなか理解できない俺に苛立ったり、癇癪を起こすこともなく何度も何度も懇切丁寧に教えてくれる。

 その外見からして、てっきりスパルタ教育さながらにビシバシやられるとばかり(※注:あくまでもこれはイメージでしたので、実際の姿と行動とは異なっていました。)考えていた俺は正直、拍子抜けの感が否めずにいる。

 ただ、こうまでされてしまうと、いくら勉強ギライの人間とはいえ、さすがに勉強と真面目に向き合わなければならないと思いを抱かずにはいられなくなるもので、まあ何にせよ良い傾向ではあると思う。

「お前、ホント教え方上手いな」

「ほ、本当、か……?」

「ホントだよ。すっげー丁寧で解りやすいしさ」

 どうやら誉め言葉にあまり耐性がないのだろうか、顔どころか首根っこまで真っ赤にしている小中野。

 このように、とりあえず今のところ勉強会は順調に進んでいるにもかかわらず、俺は何かしら一抹の不安が拭えずにいる。

 一度休憩を挟み、再開してから一時間少々が過ぎた頃、

「で、では最後に……この問題で今日は……終わりにしよう……」

「ああ、そうだな。もういい時間だし」

「では……とりあえず……やってみてくれ……」

「わかったよ」

 小中野は最後の問題を解くよう言い残し、自分の教材を片付けてからすっくと立ちあがり、エプロンを着てすぐさまキッチンへと向かう。

 俺は問題を解くフリをして、横目で彼女の行動をチラ見すると、冷蔵庫から取り出した鍋をIHコンロで温め始める。

『何だ、夕食の準備か……おっ、この匂いは……』

 中身はどうやら、作り置きしておいたカレーのようだ。

 ま、今の時間からいけばもう準備しておいたっていい頃合いではあるけれども。

 そんなことを考えながら、俺は最後の問題を解き終える。

「ふううぅー……っ、」

 久々に勉強に集中していたからなのだろうか、俺は大きく深呼吸してから教科書とノート、筆記用具を鞄にしまい込み、普通に帰宅準備をしていた……その時、


 コトン、コトン、


「えっ?」

 さりげなくテーブルに置かれた、水とスプーンの入ったコップ……なぜか二つ。

 小中野は再びキッチンに戻り、今度は食器棚からカレー皿を取り出している……それも二つ。

 いったい何がどうなっているのかがよく飲み込めていない……いや、何気に飲み込みたくない思いに駆られている俺。

 一方、何食わぬ顔で黙々と皿にご飯をよそい、カレールーをかけている小中野。

 そしてそのうちの一つを、呆然とするしか術を持たない俺の目の前にことりと置いた。

「あ、あの……何でしょうかコレ……?」

「何って……カレーライスだが……知らなかったか……?」

 半ば呆れ顔で俺を見る小中野だが……何それ? ひょっとしてバカにしてる?

「い、いやそうじゃなくて……、」

「何だ……?」

 容赦なく浴びせかけられる鋭く輝く眼光。それを正面からガン見してしまった俺は、まるでヘビに睨まれたカエルさながらに身動きが取れなくなっている。

「い、いえ何でもありません……」

「そうか……では温かいうちに……食べてくれ……」

「は、はい……」

 俺は力ない返事をして即座にスプーンを手に取り、言われるがままに目の前のカレーを食しようとする……ってちょちょちょ、ちょっと待てよおい! お前さっき俺がコーヒーの件で注意したことなんかまるっきりシカトしてっだろ!?

「どうした……カレーは嫌いか……?」

「い、いや……そんなことはない……んだけど……、」

 と言うか、むしろコーヒーと同じくらい好きだし、初めて二人でスーパーに行った時、彼女の作ったカレーなら大いに期待が持てるだろうと考えていたっていうのもあるっちゃあるんだが。

 でもまさかそれが何の前触れもなく、しかもこんないきなり展開で現実のものになろうとは誰が想像できようか。

「ごくり……、」

 不意に生唾を飲み込んでしまう俺。

 誤解のないように言っておくが、これは腹が減っているとか旨そうな匂いが漂っているとか、そんな理由でこうなったわけではない。

 なぜかはわからないが、俺は目の前にある芳醇且つスパイシーな香りを漂わせているこのカレーを、己の嗜好と食欲のおもむくままに食べてしまってもいいのだろうかという、ある種の覚悟めいたものを感じたからだった。

 かと言って、このままこうしてじっとしていることはおろか、間違っても帰ってしまう素振りなんか見せてしまったら……あああっ! 考えただけでも恐ろしいっ!

 あ、そうか……たぶんこれがさっき抱いた一抹の不安ってやつだったのか。

 何か俺、こいつのおかげで妙にカンが働くようになっているようだ……但し、悪い予感に限ってだが。


『ええいっ! ままよ!』


 そんなワケわからん気合いを入れた俺は、やおら手にしたスプーンでカレーをすくい上げ、ほおばってみる……んんっ!

「ど、どうだ……?」

 口をもぐもぐさせながらも全身は微動だにしない俺の姿を見てそわそわする小中野は、明らかに不安を隠せない様子だ。


『お……おおっ!』


 初めて口にした彼女の手料理……俺は思わず心の中で快哉を叫んでいる。

 その直後、一片の嘘偽りがない率直な感想を漏らさずにはいられなくなっている。


『う、美味い……』


 そう呟いてからの俺は、彼女の作ったカレーを脇目も振らず一心不乱に口に運んでいた。


『―――――はっ!』


 ふと我に返った時……目の前にあったカレーは米粒一つ残らず食べ尽くされていた。


「ご、ごちそうさま……」

「お、おそまつさま……」


 味の感想とカレー皿の有様を見て安心したのか、彼女の表情が緩む。

「……ホント、驚いたよ」

「な、何が……?」

「こんな旨いカレー食ったのって……もしかしたら初めてかなってさ」

 驚愕の表情はそのままに彼女の方を向くと、なぜかその身を震わせている。どうやら安心し過ぎて身体がヘナりそうだったのかも知れない。

「そ、そうか……気に入ってもらえて……よかった……」

 そう言って彼女は、やっと自分のカレーを食し始める。

 それにしても、コーヒーに続いてカレーまで出してくるとは……俺の好物をどこで誰から知り得たというのだろう?

 おそらく校内でそれを知っているのは幼なじみの藤崎と長峰くらいだろうし、見た限り今まで二人が小中野と直に会話しているシチュなんてなかったはずなのだが……。

『んっ……、』

 不可解な思いが湧き上がっていたその時、歴史がうご……い、いや俺の携帯が震えた。

 時刻は既に七時を回っている。

 ちなみに母親には、今日から数日間帰宅が遅くなるのを携帯で伝えていた。

「お、もうこんな時間か……」

 帰りが遅いのを心配してメールを寄越してくれたのだろうと思った俺は、すぐさま中身を確認する……えっ? ええっ? えええっ?


『やっほほー! はー兄ぃー! 今日はおかーさんの給料日なんで焼肉じゅじゅってまーっす! はー兄ぃの夕食代テーブルに置いてあるからねー。これでコンビニかどっかで何か買って食べてねっ♡』


「な、何だとお……っ、」

 新城家女性陣からものの見事にハブられたのを悟った俺は、返す刀で妹に連絡するが……、

「く、くう……出やがらねぇ……」

 案の定、電話に出ることはなかった……たぶん、(※注:ここからはあくまでも俺の想像であり、必ずしもこのとおりであるとは限りませんが、信憑性は極めて高いものと思われます)


「ただいま」

「あっおかーさーん! おかえりなっさーい!」

「……伯斗は?」

「まーだ帰ってないよー」

「あらそう? 何かさっき携帯見たら、今日から暫く遅くなるみたいだからちょうどよかったわ。今日は外でお夕飯しましょうか?」

「わあぁーい! じゃー焼肉行こうよねーねー!」

「そうねぇ……たまにはいいわね。伯斗もいないことだし、そうしましょうか」


 俺がいないのをいいことに、このような会話を交わしていたに違いない……くっそおおおおおっ!

 心中で絶叫しながら途轍もなくいたたまれなくなっている俺だった。

 ちなみに我が妹、名は「ときわ」といい、今は中学二年でクラスメイトからは「ときちゃん」とか、もっと親しい友人からは「トッキー」などと呼ばれている。

 妹は妹で俺のことを普段は「はー兄ぃ」などと、まるで新婚ほやほやのアメリカ人夫婦か、我が国ではある意味バカップルさながらの呼び方をしている。

 これを二人でいる時とかに呼ばれたりすると、周りからは恋人同士に思われているようで本当に照れる。いやデレる。これって単に妄想? もしそうでも俺は絶対シスコンじゃないぞ。

 背丈は長峰より頭半分ほど高く、高校生になってもロリ顔低身長の長峰とは対照的に、中学二年にしてその風貌と佇まいはやや大人びてきていて、二人一緒にいると大抵は妹の方が年上に見られてしまう。

 そんなだから休日に友達と出かけた時とか、街なかで数回読モにスカウトされそうになったことがあるとかないとか。

 しかし、当の本人はあんまそういうのに興味がないらしく、全て断っているらしい。

 それでいながら学業は優秀で、テスト順位は常に学年十傑に入っていることから、それとは対照的な俺は常に肩身の狭い思いをしてきた……ま、それは自分で勝手にそう思っているだけなのかも知れないが。

 でも妹はそんな俺を蔑むこともなく、普段はちゃんと兄として見てくれているのが伝わってくるし、俺も妹の前では兄らしい態度で接しようと力及ばずではあるが割と努力しているつもりだ。大事なコトだからもう一度言っとくけど、俺は絶対シスコンじゃないからな。

 ただ、妹も小さい頃から長峰とよく一緒に遊んでいたこともあって、「朱に交われば」ではないのだろうが、相当に口調が似てしまったのが兄としては少し……いや大いに残念なところだ。


 う~む……何か自分の妹についてこれだけ語ってしまったら、これはもうちなみにというレベルでは収まらないな。これじゃシスコン否定しても無意味だと露呈しているようなもんだ。


 いいだけ妹語りしていると、再び妹からのメールが……しかも今度はにわかに信じられないような文面が届く。


『もしかして今ってー、おんなじクラスのJKさんとご一緒なのかなぁ~? それもチョーでっかいジョシさんだよねー?』


「……………えっ?」


 な、何だこれ……? こいつ何言ってんだ……っつーか何でそれ知ってる?!

 全身から思いっきり焦りの色大放出中の俺は、ソッコーで妹に返信する……と、


『なんかねー、友だちが「トッキーのお兄さんねー、こないだ学校帰りにチョーでっかいジョシさんと横並びで仲良く歩いてるの見たよー」だってー』


「う、ううっ……、」

 そ、そうか……そうだよなぁ。

 冷静になって考えたら、こんなちっこいDKと一緒に歩いてるこんなデカいJKなんてそうそういるもんじゃない。てかそれ以前にこんなデカいJK,そこいらへんにそうそういるもんでもないが。

 だから、これまでの目撃者の中に俺の知人とか妹の友人がいた可能性は大いにあるというか、そもそも目撃されない方がおかしいだろうし、めちゃくちゃ目立って噂になってしまうのも仕方ない話だ。

 それを考えれば、よく今まで妹本人に見つからなかったものだと、今更ながらにゾッとする。

 むう……さすがにぬかったぞこれは。


『―――――んっ? 待てよ……、』


 この時……いろいろとニブい俺にしては珍しく、妹からのメールに悪い意味での直感めいたものを覚える。


「な、なあ小中野……、」

「ど、どうした……?」

「お前……俺の、」

 俺は、もしやという思いと、まさかという思いが脳内で交錯しているまま小中野に問う。

「妹と顔……合わせたなんてこと……ないよな?」

 この問いに、小中野の表情がぴくと引き攣ったように見えた。

「あ……い、いや……それは……、」

 返答に困り果てたのか、やおらプイと顔を背けてしまう小中野。

 しかし、その横顔から垣間見える焦りの色は、基本ニブい俺にも明らかに何かを隠している感ありありだ。

「……会ったんだな?」

「……………」

 そして遂には口を真一文字にして発語もしなくなってしまった。

 口を完全に閉じているため、必然的に呼吸は鼻の孔からになっていて、そこから微かにすーすーと呼吸音がする。

 この黙秘権行使から察するに、妹と遭遇しているのはほぼ間違いないはず……仕方ない。

 もうこうなったら俺の秘蔵コレクションを解放するしかあるまい……だがこれは、あまり外部には公表したくなかったが。

「小中野……、」

「……………?」

「この顔……見覚えあるだろ?」

 俺は携帯画面に妹の顔写真を表示させると、すぐさま小中野の眼前に突き付けてやる……えっ? 

 なぜに妹の写真なんか携帯に収めているのかって? しかも秘蔵とは?

 あ、え、えーとそれは……その……あっそーだ。

 兄の口から言うのも何だけどホラ、妹ってめっちゃカワイイからさぁー、もし万が一何かしらの事件事故に巻き込まれた時、お巡りさんに顔とかの特徴訊かれたらすぐ情報提供できっからってトコかなぁ……ハハ、

 ふぅー……これってエンギでもないだけじゃなく、自分でも超絶苦しい理由だって思うけどな。

 これじゃやっぱシスコンって思われてもしゃーないなぁと、変に開き直ってる俺だった。

「―――――で、どうなんだよ?」

「な、何のことだ……?」

「とぼけんな。いったいいつどこで妹と顔、合わせたんだって訊いてんだよ」

 俺は心ならずも表情を引き締め、顔はやや下に向けつつ上目遣いに見つめながら、絶対に妹とエンカウントしたという前提で追及を続ける。

「う、ううっ……、」

 微かに唸り声をあげながら、珍しく怯んだ面持ちで視線を逸らしたままの小中野。

 さすがにここまでこんな態度を取られると、いくらニブい俺でも疑う余地は微塵もない。


「……………」

「……………」


 物音ひとつせず、しんと静まり返った空間……俺と小中野は何一つ言葉を発することなく、いたずらに時間だけが過ぎていく。

「いいか……小中野」

 これ以上待っていても彼女は口を割らないだろうと思った俺は、もう時間も時間なので手短かに事を済まそうと、自分が伝えたい部分だけを話し始める。

「……………?」

「俺はお前が妹と顔合わせようが何だろうが、別にそれがどうこうって話をするつもりはないんだ……ただ、」

「た、ただ……?」

「さっきも言ったけど、自分が好きで飲むわけでもないのにコーヒーマシン買うとか、変に気を遣うようなことはしてほしくない。それだけだよ」

「わ、わかった……」

「じゃあ俺はこれで帰るよ」

「あ……っ、」

「わりぃけど、また明日も勉強見てくれよな」

「う、うん……」

 こんな返事をしてはいるが、その表情は僅かながら淋しげだ。

 若干、後ろ髪を引かれる思いにさいなまれつつも、俺は玄関へ歩を進めようと踵を返した……その時、


「ま……待ってくれ!」


『う、うっ……』

 小中野の呼び止める声を耳にしたと同時に、俺の胴体は彼女の両腕でしっかとロックされていた。

 半ば、悲壮さが滲み出ているようにも聞こえなくはなかった彼女の声と、もしかしたらずっと不安と淋しさを抱え続けていたのではないかとも思える突飛な行動に、俺は全く抵抗することなく自然に足を止めていた……しかし、


『あれ……っ?』


 今までだったら襟首を鷲掴みにされてからのー、地面に後頭部を打ちつけるか、あるいは人間絞首台のエジキにされていたはず……。

「――どうしたんだ?」

 疑問と違和感だらけの彼女の行動に、俺は抗うことも怒鳴りつけることもせず、そして振り向きもしない……いや、できない。

「わ、私は……、」

 この時……彼女が本当は何を言いたかったのか、それはわからない。

 少し涙声にも聞こえなくはない声音を耳にして、俺は手にしていた鞄を床に置く。

「……わかった」

「……うん」

 覇気の感じられない返事と同時に両腕の力を緩める彼女。

 俺たちは再び、テーブルを挟んで対峙する。

「で……何だ?」

 俺の問いかけに彼女は口を開こうともせず、テーブルの板面に視線を向けたままだ。

「話があるから呼び止めたんだろう? だったら話せよ」

 別に責め立てようというつもりはなかったが、彼女はまるで自分が犯した悪戯を親に咎められた時のように怯えたような表情を見せると、


「このまま君に……変な誤解をされたままでは……、」


 いつも通りのたどたどしい口調はそのままに言葉を発し始めた。

「変な誤解?」

「だ、だから今……ここで事情を……話そうと思って……」

「……わかった。聞こう」

「確かに私は……君の妹さんと会った……」

 やはりか……でも、

 会ったなら会ったでなぜ、それをすぐにでも話してくれなかったのだろうか。

 と言うか、そもそも重度の方向オンチで単独の外出がままならない人間がなぜ、どこでどうやって俺の知らないうちに妹と顔を合わせたというのだろうか。

「お前……一人じゃ外歩けないはずだったよな? それでどうやって妹と会ったんだ?」

「そ、それは……、」

 まさか……本当は方向オンチなんかじゃなかったてんじゃないだろうな。

「じ、実は……三日ほど前……一度家に帰った後に……、」

「後に?」

「君の家までの道を……覚えようとして……一人で行こうとしたら……、」

 おいおい……何で突然そんなコト思い立っちまうんだよ? もしかしていよいよ本腰入れて俺をストーキングしようとしたってのか?

 確かに毎日毎日送り迎えしてもらったり、買い物とかも付き合わせたりしてっから、こいつはこいつなりに気を遣ってはいたんだろうけど。

「したら……?」

 ま、その後の結果など言わずもがなってトコなんだけど、妙に緊張感漂う場の空気も考慮して一応は相槌を打ってやることにする。


「やはり……道に迷ってしまって……」


 やっぱそうですよねぇ……んっ、待てよ?

 確か俺、携帯番号教えてやったはずなんだけどなぁ。

「じゃあどうして連絡くれなかったんだ?」

「い、いつまでも君に……頼ってばかりだと……覚えられるものも……覚えられないと……思って……」

 はあぁー……いったい何考えてんだこいつは?

 だいたいにして道覚えられないから俺が毎日ここ来てんだろうが。そんな自分で自分を窮地に追い込んでどうすんだよ? てかそうやって意気込むんなら、まずは一番外出頻度の高い学校までの道覚える努力すんのが先じゃねーのか?

「途方に暮れていたら……ちょうど女子中学生の集団が……通りかかって……道を訊こうとしたら……、」

 なるほど……それでか。

 どうやらそいつらの胸章をひとりひとり確認したら、俺と同じ姓のJCがいたってことだったんだろう。

「あーわかった。もーわかった。その中に俺の妹がいて、そこで対面したって話だろ?」

「そ、その通りだ……」

 ったく……どうしてお前はそんな向こう見ずで、ある意味命知らずな行動しでかすんだよ?

 ま、特効薬なんて世界中どこ探しても見つかりそうにないくらい病的で致命的な弱点を、自分から進んで克服しようっていうその気概だけは買ってやりたいとは思うけどさ。

 ちなみに彼女の話ではこの時、このような会話を交わしていたらしい。


「き、君は……もしかして……、」

「どーしましたかぁー?」

「新城伯斗君の……妹さんだろうか……?」

「はいはぁーい! そーでっすぅー! ときわって言いまぁーっすぅ!」

「そ、そう……私は彼の……クラスメイトで……小中野詩愛瑠と……申します……」

「へえぇー! そーなんですかぁー! 初めましてぇー! いっつも兄がお世話になってまぁーっすぅー!」

「こ、こちらこそ……初めまして……」

「でもでもぉ~、こんなトコに一人でいるなんてぇー、いったいどしたんですかぁー?」

「そ、それは……その……、」

「あれあれぇ~、もしかしたらウチ来ようとしてたとかぁ~?」

「あ、いや……あの……、」

「だってココー、ウチめっちゃ近所ですよぉ~?」

「そ、それは……別にそんな……、」

「じゃあじゃあ~何ですかぁ~?」

「じ、実は私は……極度の方向オンチで……い、今は……、」

「あーなるほどー。そんでウチ来る途中迷子なっちゃったんですねー」

「そ、そうだ……」

「だったらこれからウチ来ませんかぁー? 帰りは兄に送らせますから大丈夫ですよぉー」

「う、ううっ……、」

「ほらほらぁ~、ホントは来たかったんですよねぇ~?」

「ちょ……ちょっと待って……」

「どうかしましたかぁー?」

「き、帰宅途中のところを悪いが……これから……私の家まで来てほしい……そう時間は……取らせないから……」

「ええぇー! ゼヒゼヒーウチ来てほしーんですけどねぇー」

「ほ、本当に……すまない……」

「まー……しょーがないですねぇー。わっかりましたぁー!」

「そ、それで頼みが……あるのだが……、」

「何ですかぁー?」

「わ、私の家まで……案内してほしい……場所はこの近くの……『ウェストパーク』という名前で……」

「……あーはいはいー! 春先に出来た新築のアパートっすねー! おまかせでぇっすうー!」


(中略)


「へえぇー! 小中野さんって一人暮らしだったんですねぇー!」

「あ、ああ……そうだが……、」

「うっわぁー! ナカもめっちゃキレイで落ち着いた感じですねぇー!」

「そ、そうか……そんなことは……ないと思うが……」

「いやいやぁー! そんなコトありまくりですよぉー!」

「あ、あの……今お茶をいれるから……そこで待っていてくれないか……」

「はいはぁーいっ! お構いなくですぅー!」


(中略)


「でー、訊きたいコトってなんですかぁー?」

「は……………?」

「あれあれぇー? わざわざ来させといてすっとぼけなんですかぁー?」

「な、何が……?」

「だってぇー、兄のコトいろいろ訊きたいからココ連れて来たんですよねー? もーわかってるんですからぁー」

「む、むぅ……それは……そうなんだが……、」

「やっぱそーでしたかぁー! じゃーエンリョなく何でもかんでも訊いてくださぁーい!」

「そ、そうか……では……失礼ながら……質問させてもらう……」

「いえいえー! ぜーんぜん失礼じゃないですよぉー! さあさあどっからでもどーぞー!」

「そ、それではまず……お兄さんの……す、好きな……、」

「はいはい好きなー?」


「た、食べ物は……?」


「は?」

「好きな食べ物はと……訊いたんだが……聞こえなかったか……?」

「はいはい聞こえてましたよー……ってえええええーっ!」

「ど、どうした……?」

「どうしたじゃないですよぉー! 好きなジョシのタイプとかじゃないんですかぁー?!」

「い、いや……そんなのはどうでもいい……わけではないが……、」

「えっ?」

「え、あ……何でもない……早く教えてくれないか……」

「むー……たぶんカレーですかねぇー? 家カレーなんかゼッタイおかわりしてますしー、給食のカレーなんかも喜んで食べてたみたいですからー」

「そ、そうか……ほ、他には……?」

「他にですかぁー……あ、」

「な、何か……?」

「ウチの兄っておとーさんの影響受けちゃってー、めちゃめちゃコーヒー好きなんですよー。だから家でもフツーにブラックとか飲んでますねー」

「そ、そうか……わかった……」

「んじゃんじゃハナシもノッてきたトコで―ハリキッテ次いってみよー! 今なら出血大サービスでもれなくどしどし何でも答えちゃいますよぉー! さーさーどっからでもかかってきなさぁーいっ!」

「あ、いや……もういい……」

「へ?」

「今日は……わざわざご足労……感謝する……」

「え、あ、あー……そうですかぁ……で、でもぉー……、」

「どうか……したか……?」

「い、いえ別に……どーもお邪魔いたしましたぁー……それじゃしっつれいいたしまぁーっすぅ……あははっ、」


 な、何だとぉ……、

 俺だけじゃなく、我が妹までこの部屋に入れていたってのかこいつは……?

 俺に中学生の妹がいるという話は以前、確かにしたことはあるが……そんな何気ない世間話が、まさかこんな事態に発展するとは思いもよらなかったなぁ。

 つか、毎日のようにこいつと一緒にいれば、妹とはいずれそのうち顔合わせるだろうとは思っていたけれど……まさか一学期の半ば前でここまでのハナシなっちまうとは。

 こんな心臓に悪そうなサプライズばっか続いてたら、高校三年間持たずに心身とも滅してしまいそうになっちまう。

 しかし、いくら偶然的な要素があったとはいえ、なぜにわざわざ妹を自分の部屋に連れて行ってまで俺の好物を聞き出そうとしたんだろ?

 そんなのは俺に直接訊いてくれても……てか最初からそうすりゃよかったんじゃね? 自分の身を危険に晒さないという意味じゃ。

 たく……いったい何考えてこんな回りくどいマネしたのかは知らんし、今さらながらに知ったところで取り返しがつかない話だが、一方でなぜ彼女は俺に直接訊いてくれなかったのかという部分に、多少なり複雑な思いを抱いている自分もいる。

 それと、自分の兄のクラスメイトとはいえ、初対面の人間に誘われてホイホイついてく妹も妹だ。お前いつかマジで俺の携帯写真が役立つ時が来ちまうぞ。これじゃお兄ちゃん、とっても心配なって夜も眠れなくなっちゃうよぅ……、

 などという、あからさまにシスコン丸出しの杞憂はともかく、これで大方の経緯と事情はわかった……が、


 なぜだ?


 今さらながらに思い返せば、いくら友達をダシにしていたとはいえ、勉強会初日というこのタイミングでこんな文面を送信してくるなんて……。

 何を意図しているのかはわからないが、この件については妹にも話を聞いておいた方がよさそうだ。


「おっと……何時だ?」

 キッチンの垂れ壁に掛かっている時計を見ると、時刻は既に七時半を回っていた。

「――これで話は終わりか?」

「あ、ああ……、」

「そんじゃもう遅いし、そろそろ帰るよ」

 そう言って俺が立ち上がろうとすると、

「あ、あの……、」

「んっ、どうした?」

「妹さんを……責めないでやって……くれないか……」

 どうやら気分を害しているとおもったのだろう。彼女は憂いがかった面持ちで懇願する。

「どういうことだ?」

「この話は私が……妹さんに口止めしていたから……それに……、」

「それに?」

「妹さんを巻き込んで……迷惑をかけたうえに……君に不快な思いまで……させてしまって本当に……すまなかった……」

 彼女はテーブルに額が着かんばかりに頭を下げ、謝罪する。

「別にそんなこと、気にしちゃいない」

「……へ、えっ?」

 申し訳なさが先に立っていたのだろうか、俺の言葉に珍しく頓狂な声を出し、口を半開きにしながら呆然としている彼女。

「まぁ、これも何かの縁だ。これからも妹のこと、よろしく頼むよ」

「も、もちろん……それと……君から妹さんに……よろしく言っていたと……伝えておいてくれないか……」

「ああ、わかった。じゃあまた明日な」

「う、うん……また明日……」


 そして帰り道……、

 夜の(とばり)がすっかり降り切っている中、俺は百メートルに満たない我が家までの道のりを独り、歩いていた。

 この辺りは割と清閑な住宅地なので、夜の八時前というこの時間帯ともなれば人も殆ど見かけなくなる。


「ふううぅー……っ、はぁ」


 高校入学から登下校時の一日二回、ずっとこのルートを歩いてきたが、帰りがこの時間帯に及んだのが初めてということもあったのか、ふと立ち止まった俺は大きく深呼吸をしながら空を見上げ、煌々と星が輝く夜空を眺めていた。

「そういや……こうして星空を見ることなんか暫くなかったなぁ」

 ふっと独り言を呟き、再び歩を進め出してからすぐの角を、いつも通り右に折れると、


「――んっ?」


 この住宅地には不釣り合いというかそぐわないというか……とにかく違和感しか覚えないような黒塗りの高級車が路肩に停まっているのを目にする。

 よく見ると、車体はピカピカどころかビッカビカに磨かれていて、この夜の暗さでもハンパないほどに存在感を醸し出している。

 しかもこの黒塗り、ナンバープレートの地名がここいらへんのものではないというのが、幾ばくかの不気味さを煽り立ててくる。

 どうしてなのかはわからないが、俺は言い知れない恐怖めいた……いや、戦慄と言っても決して過言ではないほどの感覚が全身を覆い尽くしていた。

『だ、大丈夫だ……俺には関係ない……』

 などと平静を装いつつ、黒塗り高級車の脇を通り過ぎる……が、

『何だ……考えすぎだったか』

 異様とも思える存在感の黒塗りから五~六メートルほど過ぎた場所で足を止め、ちらと後ろを振り向くも特に何ら変わった様子は見られなかったので、そこからはやや歩みを速めて我が家へと向かう……すると、


「んうっ!」


 不穏な気分に陥っているさなか、ズボンの右ポケットに突っ込んでいた携帯が震える。

「誰だよ……ったく、」

 焦りと不安が心中に同居したまま、小刻みに震える手で携帯を取り出す。

『おう、新城か?』

 電話の主は、藤崎だった。

「ど、どうしたんだよ……? こんな時間に電話なんか」

『こんな時間って……いつだったか、お前だって夜の十時頃に電話してきただろう?』

「あ……、」

 そういや俺、入学式の日の夜に小中野の送り迎えするから、一緒に登校できないって電話してたっけな。

『まだ八時前なんだから、だいぶマシだと思うけどな』

「す、すまん……」

『それはいいけどお前、こんな時間にどこほっつき歩いているんだ?』

「あ、うっ……、」

『まさかとは思うけど、まだ二人で勉強中ってわけじゃないだろうな?』

「そ、それはないけど……それよりどうしてお前がそんなことで電話なんかしてんだよ?」

『おいおい……そりゃずいぶんなお言葉だな』

「どういう意味だよ?」

『お前のおふくろさん、お前の帰りが遅いうえに携帯の応答もないって言うからウチに来てないかって電話があって、それで電話したんだよ』

「あ、あー……、」

 そういやさっき小中野と妹のエンカウント話の最中、ズボンのポケットでバイブってたような……話聞くのに真剣なってシカトしてたけど。

「そ、そっか……悪かった。すまん」

『それはお前のおふくろさんに言うべきだろうが。電話の口調からしてすごく心配してた感じあったからな』

「あ、ああ……、」

 そうなのか……?

 中学生になった頃からは、自分の息子のデキの悪さとヘタレ加減にすっかり辟易してしまったのか、普段はあまり干渉してくることもなく、交わす会話は皮肉混じりの憎まれ口かイヤミ満載の恨み節が殆どだったが……。

 ま、こんなどうしようもない愚息でも、お腹を痛めてまで産んだのだから一応は案じてくれていたってことなのだろうか……。

『まぁ、勉強に励むのはいい傾向だけど、あんまり遅くなると……、』

「な、何だよ……?」

『夜のお勉強タイムに突入しないとも限らないからな。程々にしとけよ』


「……………は?」


 いきなり何ワケわからんコトほざいてきやがんだこいつ?

 今までこんな下ネタ系の冗談なんか言ったことなんかなかったってのに、いったいどういう心境の変化だ?

 もしかしたら高校入学を機に、冗談だけ先にオトナの階段勝手に昇っちまったのか?

「へっ! そんな似合わねえ冗談なんかほざいてんじゃねーよ。でも、もう家の近くまで来てっからさ。お前こそワケわからなくてあり得ない心配なんかしてんなよ」

『そうか。でも近くだからって余裕こくなよ。今の世の中、何がどうなるかわからんからな』

「わーったわーった、じゃな」

『おう、また明日な』

 こんな感じで藤崎との会話を終えた俺は、あと二十メートルほどに迫った我が家へと歩を進める。


『それにしても……、』


 さっき目にした黒塗りの存在が、今だ脳裏から離れずにいる俺だったが……、


「まぁ、気にしたところで始まらないか……」


 不確定要素しかない不安感より、おそらくいいだけ機嫌を悪くしているであろう母親と、いつの間にやら良くも悪くも俺と小中野の間に割り込んでいた妹に気分をへこませながら、気がついた時には既に玄関ドアの前に立っていたのだった。

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