東雲の浜匙
久しぶりに綺麗な青空が目の前に広がっている。小夜は自分の車で高速道路を走っていた。これから久しぶりに功助と会う約束をしていた。やっと長めの休みが取れ小夜は大好きな歌を口ずさみながらハンドルを握っていた。彼と会うのは3か月ぶりだった。
1年前、功助に一緒に暮らさないかと告白された。とても嬉しい提案だったが、小夜は今の仕事をもう少しさせてほしいと彼に伝えた。
会社の同僚には『遠距離恋愛なんてうまくいかないわよ』と、否定的な反応が圧倒的だった。
功助と出会ったのは2年前の駅ビルの書店だった。小夜はフラワーアレンジメントや花言葉を調べるのが好きだった。いつかはまだ決めていないが将来はフラワーショップを始めたいと思っていた。今日も前から欲しかった本を探していた。
「確かこのあたりだったはず…」彼女はあたりを見回す。すると目の前にいた男が1冊の本を棚から取り出していた。その本の表紙が小夜の眼に映る。
「あっ…」それは彼女の探していた本だった。
男はその本を手に取ると小夜のほうに歩いてくる。彼女は男の手の中の本をじっと見ていた。男は不思議そうに小夜とすれ違う。彼女はその本があった棚を探したが、見つからなかった。短いため息とともに肩を落とす小夜。
「あの…もしかしてこの本探してました?」その声に振り返ると、先ほどの男が手に持っていた本を小夜のほうに向ける。
「え、いえ…でも…」言葉に詰まった小夜に男は本を差し出した。
「よかったら、どうぞ」男は優しそうな声でそう言った。
「…でも、いいんですか?」
男は笑顔で答える。「あんなにがっかりされたら知らない振り、できませんよ」男は振り返りその場を立ち去った。小夜はレジで支払いを終えると、書店から出てあたりを見回したが男の姿はなかった。
小夜は1階のコーヒーショップに入った。カウンターでコーヒーを受け取り、振り向いた。そこには先ほど書店で本を譲ってくれた男がいた。
二人の視線がつながる。男も驚いた顔をしていた。
「先ほどはありがとうございました。よかったらお礼させてください」小夜はそう言うと頭を下げた。
二人はコーヒーを手に同じテーブルに座った。はじめはぎこちなかった二人も、小夜がコーヒーショップの窓辺においてある花の話を始めると、彼も花に興味を持っているらしく二人の話は弾んだ。
そして二人の交際が始まった。会う回数が増えるたびに、お互いがお互いを好きになっていた。だから遠距離になって1年たった今でも二人は良い関係を続けられていた。確かにいつでも会えるわけではないが、たまに会ったときは十分すぎるほど楽しい時間を二人で過ごした。
小夜の運転する車は高速を降り、功助との待ち合わせの場所に向かっていた。走行車線の信号が赤になり彼女は車を停止させた。
「あと、30分くらいで着けるかな?電話してみよっかな」携帯を取り出し通話ボタンを押そうとしたが、信号が青に変わる。小夜は携帯を助手席において車を発進させる。
しばらく走ると踏切に差し掛かった。彼女の前の車が通り過ぎたときに警報が鳴り遮断機が下りる。小夜は遮断機の前で車を停止させた。助手席の携帯を手に取り、通話ボタンを押す。短い発信音のあと功助の声が聞こえた。
「もしもし、小夜?、今電車の中。もう少しで駅に着くから駅前で待っていてね」彼の声を聴いて彼女は満面の笑顔になった。
「私も、もう少し、今踏切で止まってる。あ、もしかして功助の乗ってる電車かな?手を振ってるから見つけてね」
ふと小夜の視線が前方に向けられる。1台の大型トラックが踏切の向こう側をかなりのスピードで迫ってくる。しかし止まる気配が感じられない。小夜は悩んだ挙句クラクションを鳴らした。
トラックの運転手は驚き顔を上げる。そして急ブレーキの音があたりに響く。
トラックは遮断機を吹き飛ばし、線路内で停止した。
「小夜?どうしたの?何かあったの」功助の声の後に電車の警笛が響く。
トラックが電車に跳ね飛ばされる。小夜が横を見ると車両の一つが小夜の車に向かってきた。そして、小夜の意識も途切れた。
断続的な電子音と響き渡る女性たちの声で小夜は目を覚ました。彼女は体を起こそうとしたが、体が鉛のように重く全身に激痛が走る。白い天井に白い壁、白衣を着て走り回る女性。
(そっか、ここは病院なのね…!?えっ、私どうしてここにいるの…)小夜には訳が分からなかった。記憶をたどってみたが彼女の頭には何も浮かばなかった。
後で看護師に聞いた話だが、小夜はかなりの死傷者を出した踏切の電車事故に巻き込まれたのだった。トラックに衝突した電車は脱線して、小夜の車にぶつかったが小夜は奇跡的に助かったらしい。体のほうは右足の裂傷と右腕の打撲くらいだったが、頭を打ち彼女の記憶の一部が失われていた。それによって、一人の男の存在が小夜の頭の中から消えていた。最愛の男の記憶が…。
小夜がここに来てから1週間がたった。彼女の巻き込まれた事故は死傷者がかなり出ていた。小夜は怪我をしたものの命だけは助かった。彼女は会社に連絡とって事情を説明していた。やっと歩けるようになった彼女はリハビリを兼ねて廊下を歩いていた。向こうから一人の男が歩いてくる。
「こんにちは……ぇ!」彼女はすれ違う見知らぬ男に挨拶をした。自分でも驚いた。男も少し驚いたが、軽く頭を下げた。小夜は恥ずかしさのあまり下を向いて足早にその場を離れた。その時後ろから声がした。
「雲類鷲さん、お見舞いの方が見えてますよ」小夜は振り向くと、看護師がすれ違った男と話していた。
(どうして私あの人に挨拶したんだろう…)小夜はその男のことが気になったがそのまま病室に戻った。
数日後、小夜の病室に会社の同僚で仲のいい亜紀が来ていた。
「小夜さん大変だったね、体の具合はどうなの?」小夜はベッドから体を起こすと頭を下げた。
「遠いところまでお見舞いに来てくれるなんてありがとう。もう、歩くことが出来るようになったんで、来月くらいには復帰できそう」
小夜はベッドから降りると、冷蔵庫から缶ジュースを取り出し亜紀に手渡す。
「ありがとう。そいえば恋人に会いに来たんだよね、会えたの?」その言葉に驚く小夜。「えっ!…恋人って…誰?」
亜紀は笑いながら答える。「誰って、小夜教えてくれなかったじゃない」小夜には思いあたるものが何も浮かばなかった。
その夜、小夜は亜紀の言った言葉を考えていた。しかし、どんなに考えても答えは出なかった。いつの間にか彼女は眠りに落ちた。
小夜の頭の中に声が響く。
『あの…もしかしてこの本探してました?』
(えっ…本?)
『あんなにがっかりされたら知らない振りできませんよ』
(…誰?)
『小夜?どうしたの?何かあったの』
(あなたは…誰…?…)
彼女は目を覚ました。部屋の中はまだ暗かった。時計は午前2時を少し回っていた。小夜はベッドから起きて部屋を出て、静まり返った廊下を歩いていた。
一つの部屋のドアが開いていて明りが廊下に漏れている。小夜はその部屋の前を通るとき中をのぞいた。カーテンの隙間から見えたのは白衣を着た女性の看護師が、寝ている人の手を握っていた。ドアの横の名札が小夜の目に入った。
<雲類鷲>その名札に描かれていた名前だった。
小夜は再び病室内に目を移した。中にいた女性の看護師がこちらを向いた。小夜はあわててその場から離れた。
(恋人なのかな…綺麗な人…)
翌日、昼食を終えた小夜は廊下を歩いていた。ふと前を見ると昨日の夜病室で見かけた女性の看護師が男と歩いてくる。なんとなく気まずさを感じた小夜は下を向いたまま通り過ぎた。後ろから声が聞こえてきた。
「雲類鷲さん、来週には退院できそうですね。本当に良かった」
一緒にいた男が答える。
「蒼純さんにはお世話になりました。ありがとうございます」
(!?…この声…私知ってる?…うるわし?)小夜は振り返り遠ざかる二人を呆然と見つめていた。
⌘
「紅月小夜さんですね?私は今回の事故を担当している渋野と申します」
その日の朝、警察の方が訪ねてきた。
「はい、紅月ですが何かありましたか?」渋野と名乗った男は大きめの茶色の封筒を小夜に手渡す。
「あなたのお車から見つかった物ですがご確認いただけますか」小夜はそれを受け取り中に入っているものを取り出した。財布に車のキーケース、そして携帯電話が入っていた。
「お車はあなたの契約している保険会社の方が確認されていますので、後で連絡してください。お持ちできなかったものは、当警察署の駐車場に置いてあるあなたの車にありますので、退院されましたら私の所までお越し願えますか」名刺を渡しながら渋野はそう言った。
「わかりました、わざわざありがとうございました」渋野は一礼すると病室を出て行った。
小夜は携帯電話の電源を入れてみたが、バッテリーの残量がないのか電源は入らなかった。その時病室に看護師が入ってきた。あの、女性だった。
「紅月さん、お加減は如何ですか?」笑顔で看護師が訪ねた。
「はい、特に何もありません」小夜は彼女と目を合わせずにうつむいた。小夜の持っている携帯電話を看護師が見て言った。
「先ほどの警察の方が持ってきたんですか、大丈夫?壊れてなかった?」看護師は優しい声で小夜のベッドのわきでしゃがみこみ、小夜の顔を覗き込む。小夜は少し驚いたが、何でもないように装い尋ねた。
「あ、あの…充電器とかありませんか?電源が入らなくて…」看護師は立ち上がりながら言った。「ちょっと待っててね」そういうと看護師は病室を出て行った。
しばらくして携帯電話の充電器を手にした看護師が戻ってきた。
「紅月さん、これでいい?私のだから遠慮なく使ってね」小夜は受け取りながら頭を下げた。小夜は看護師の名札を見た。<蒼純>と書かれた名札が胸についていた。
(なんて読むんだろ…あ…一緒にいたあの人が名前を呼んでいたかも…あの人の彼女なのかな…)そんなことを考えていると、看護師が言った。
「私はあずみって言います。何かあったらいつでも言ってね」優しい笑顔とともにそう言うと病室から出て行った。小夜は看護師の後ろ姿の声をかけた。「ありがとうございます」看護師は振り返ると手を振って病室から出て行った。
数日後、小夜は病院内の食堂に来ていた。食券を買って空いているテーブルを探していると小夜に手を振る女性がいた。看護師の蒼純だった。彼女が私服だったので気が付くまでに時間がかかった。彼女の隣には男の人がいた。(あの人だ!)雲類鷲と呼ばれていた人だった。小夜はそのテーブルに近づくと頭を下げた。
「こんにちは」すると蒼純が立ち上がり空いている椅子を引いて言った。
「よかったら、ご一緒しませんか?」小夜は言われるまま椅子に座った。雲類鷲が笑顔で頭を下げる。
「紅月さんはその後お体の具合どうですか?」尋ねる蒼純に小夜は答える。「もうすっかり良くなりました。ありがとうございます」
「そう、よかった。じゃ、退院ももうすぐね」優しく微笑み蒼純が言う。向かいに座っていた雲類鷲が小夜に話しかける。
「あなたもあの電車の事故に巻き込まれたんですか?私は蒼純さんから聞いたんですが、何しろ記憶の一部が無くなってしまって覚えてないんですがね」
そう言って小夜を見つめる彼の眼になぜか小夜はドキドキしていた。俯いたまま小夜は答えた。「あ、私もなんです。事故前の記憶が抜け落ちていて、今でもまだ思い出せません」答えながら小夜は二人の関係が気になっていた。
(でも、そんなこと聞けないなぁ…)
「お二人とも大変ですね、でもお二人は頭に強い衝撃を受けた事によるものなので、何かの拍子に記憶を取り戻す場合もあります。あまり焦らないで体を休めてくださいね」優しくそう言う蒼純だった。
「そうですね、僕はとりあえずあまり考えないようにはしてますね」雲類鷲はそう答えたが小夜は何も答えられずにいた。
小夜には早く思い出さないといけないことがあるような気がしてならなかった。
「紅月さん、何かあったらいつでも私に言って下さいね」うつむいていた小夜に蒼純は言った。
「あ、はい、ありがとうございます。ところで…お二人はどのような関係なんですか?」(え、なんで私そんなこと言ってるんだろう…)
突然の質問に、二人は顔を見合わせた。そして、蒼純が答える。
「紅月さんには気づかれちゃったかな、実は、雲類鷲さんとはお付き合いさせていただいてます。でも、仕事の時には内緒にしてね」二人は照れたように見つめていた。
「いえ、変なこと聞いてしまってごめんなさい」慌てて小夜は頭を下げた。
食事を終え病室に戻ってきた小夜は、充電の終えた携帯電話の電源を入れた。何件かの不在着信が入っていたが、会社の人たちからの電話だった。
画面をスクロールしていくと、ひらがなで<こうすけ>という名前があった。しかも通話をしている。
(こうすけ?…だれ?…)思い出そうとしたが急に頭に激痛が走る。小夜はベットに横になった。しばらくすると頭の痛みは和らいできた。小夜は再び携帯電話を手に取り保存されている写真を開いてみた。
「あ!…この人…」そこに映っていたのは、先ほど看護師の蒼純と一緒に食堂にいた男の顔だった。小夜の頭に早送りの映像が流れ込んでくる。
「うるわしこうすけ…え?…どうして…」再び小夜の頭を激しい痛みが襲った。そして小夜の意識は遠のいていった。
『もしもし、小夜?、今電車の中。もう少しで駅に着くから駅前で待っ ていてね』
『私も、もう少し、今踏切で止まってる。あ、もしかして功助の乗ってる電車かな?手を振ってるから見つけてね』
『小夜?どうしたの?何かあったの』
功助の声の後に電車の警笛が響く。
トラックが電車に跳ね飛ばされる。
そして、激しい衝撃と共に叫ぶ小夜。
『こうすけ!…』
「こうすけ!」自分の声に目を覚ます小夜。
「紅月さん、大丈夫ですか?」心配そうに小夜の顔を覗き込む女性。
看護師の蒼純だった。失った記憶とここに来てからの記憶が入り交じり、小夜の頭は混乱していた。大きく息を吐く小夜。
「よかった、紅月さん3日も寝ていたのよ、どこか痛むところはない?」蒼純は心配そうに尋ねる。少し落ち着いてきた小夜はトイレに行くと蒼純に伝え、ベッドから起き上がった。(功助のところに行かないと…)
廊下を出ると功助の病室に向かった。しかし、病室の中は空っぽのベッドがあるだけだった。入口の名札も外されていた。
⌘
数日後、小夜は退院することになった。残暑も過ぎたころなのに街中は良く晴れて暑いくらいだった。病院を出ると小夜は駅前のホテルにチェックインした。荷物を部屋に置き、外出した。今日は日曜日なので功助の仕事は休みのはずだ。小夜は功助の家に行こうと決めていた。ホテルの前でタクシーを拾うと功助の家に向かった。功助の家には何度か来ていた小夜は、迷うことなく運転手に道順を告げた。そう、小夜の記憶は戻っていた。懐かしい風景が流れていき功助の家に着いた。功助の部屋は2階だった。ベランダを見上げると手すりにかけられたプランターに紫や黄色の小さな花が咲いていた。
初めてのデートで海に行ったとき海岸で見かけ小夜がとても気に入ってしまった花だ。華やかさはなく、よく見ないと気付かない小さな花だ。
小夜は1年ほど前の事を思い出していた。
「これ、なんていう花かな?私見たことないかも、とっても可愛い」花に見とれて小夜がつぶやくと、功助は携帯で調べて言った。
「スターチス、別名リモリウム、和名は花浜匙、イ ソマツ科の二年草…ええと、花言葉は『変わらぬ心』『永久不変』『記 憶』『思い出』「良い時間の思考』ずいぶんあるなでもいい言葉ばか り、それにしても呼び方が色々あるんだね。この花はおれもしらなかったな」小夜は功助を見つめて言った。
「私は浜匙っていう呼び方が気にいったかも、なんとなく素敵」
笑顔でそう言う小夜を優しく見つめる功助。
小夜の眼は功助のベランダを見つめていた。
「功助、まだ飾っていたんだ」小夜は嬉しくなり懐かしい階段を軽やかに上った。ドアの前でインターホンを鳴らす。ドアが開き、功助が出てきた。
「功助…」小夜が話しかけようとしたが、功助が小夜に尋ねる。
「あれ?あなたは…確か病院であった…御免なさいお名前が出てこない…どうしてここに?部屋間違えていませんか?」その言葉に驚く小夜。
部屋の奥から女性の声が聞こえる。
「功助さん、どうしたの?」女性が顔をのぞかせる。
「!!…蒼純さん…」蒼純が小夜を見て驚く。
「あなたは、紅月さん…どうしてここに…」
小夜は、頭を下げてその場を立ち去る。
「あ、まって、紅月さん!」蒼純が後を追ってくる。小夜は逃げるように階段を駆け下りる。
「あっ!…」蒼純のその声に小夜は振り返った。足を踏み外し階段で倒れこむ蒼純。後を追ってきた功助が蒼純を抱きとめる。しかしバランスを崩し二人は階段を転げ落ちる。二人に駆け寄る小夜。頭から出血していて二人とも意識がなかった。小夜は携帯電話で救急車を呼んだ。
退院したばかりの病院の廊下に小夜はいた。椅子に座り見上げる先には赤く光る手術中の文字。小夜は両手を握りしめただその赤く光った文字を見続けた。
数時間後、手術が終わり功助は病室に移されていた。蒼純は集中治療室に運ばれていた。小夜は功助のベッド横の椅子に座り、彼の手を握り寝顔を見ていた。小夜の記憶が戻ってから久しぶりに見る功助の顔を見ているうちに、小夜の頬を涙がつたう。やがていつの間にか小夜は功助のベッドに頭を預け眠りに落ちた。
小夜は目を覚ます。
「おはよう、小夜」頭を起こすと目の前に功助がいた。
「あ、おはよう功助……ぇ……こうすけ、私のことがわかるの?」寝ぼけていた小夜の頭が急激に覚醒する。
「よかった、記憶が戻ったんだね、よかった」小夜は涙をこぼしながら囁く。そして小夜は功助に自分も記憶をなくしていた事と昨日までのことを話した。
「そっか、小夜が救急車を呼んでくれたんだね。少しだけ覚えてる…僕は、階段から落ちて…そういえば、蒼純さんは?」
「彼女は今、集中治療室にいるの。…あの、蒼純さんとはどういう関係なの?…あ、ごめんなさい変なこと聞いて…」小夜の問いかけに功助が答える。
「いいんだよ、言い訳みたいになるけどあの事故のあと、蒼純さんにはすごくお世話になったんだ。状況を把握できない俺を看病してくれた。だから…言い訳になるけど、僕の記憶は戻っていなかった。蒼純さんには申し訳ないけど、記憶が戻った僕にとって大切なのは、小夜、君だよ」功助のその言葉に小夜は彼の胸に体を預けた。功助は優しく小夜の頭をなでる。一度止まった涙が再び小夜の頬をつたう。
朝早く小夜は一度ホテルに戻り、再び功助の病室に向かった。
しかし、病室に功助の姿はなかった。小夜は買ってきた花と花瓶を持って給湯室に向かった。小夜が廊下を歩いていると、一つの部屋から声が聞こえてくる。
「君が功助君だね、蒼純君から話は聞いてるよ」小夜の足がその部屋の前で止まる。「蒼純君のことなんだが、実は脊髄を損傷していてもしかするともう歩けないかもしれないんだ。もちろん蒼純君はうちの大事な看護師だ、だから精いっぱいの治療はするつもりだ。しかし、心の部分は功助君、君にお願いしたいんだ。蒼純君の支えになってやってもらえないかね…どうかね?」どうやら功助と医者が話しているらしい。その言葉を聞いた小夜は顔面蒼白になった。(蒼純さんが……私のせいだ…)
「お話は分かりました。少し考えさせてください」功助はそう言うと扉を開けた。廊下に立ちすくむ小夜と目が合う。
「小夜!…」驚く功助。
「ごめんなさい…わたし…」小夜は功助に背を向けその場を立ち去る。そのあとを功助が追いかける。小夜は階段を駆け上がり、屋上に出た。小夜を追いかけてきた功助が後ろから彼女を抱きしめる。小夜は泣きながら謝り続ける。
「ごめんなさい、私のせいで蒼純さんが…」
「君のせいじゃない、君のせいじゃないんだ」功助は小夜の体を強く抱きしめる。
⌘
二ヶ月後、小夜は自分の街に戻って仕事に復帰していた。功助とは連絡を取っていなかった。どう話していいかがわからずにいた。功助からも連絡はなかった。功助は蒼純さんの看病を続けていた。こちらに戻る時も、功助はただ謝るばかりだった。責任を感じていた小夜も功助を責めることはできなかった。それでも小夜は功助のことを忘れることはできなかった。
ある夜、携帯の着信音が鳴る。非通知の着信だった。小夜は少しためらい電話に出た。
「もしもし、紅月さん?わたし…蒼純です」それは看護師の蒼純の優しそうな声だった。
「功助さんに紅月さんの連絡先を聞いたんです。少しお話ししてもいい?」小夜は言葉を絞り出すようにして口を開いた。
「蒼純さん、ごめんなさい…わたしのせいで…」そこまで言うと涙が出て言葉が途切れた。
「紅月さん、あなたのせいなんかじゃないから、お願い、ご自分を責めたりしないで。わたしね功助さんの様子が変だったから、私に隠し事しないでって、功助さんに話を聞いたの。あなたたちのことも聞いたわ。お二人が記憶を失っていたとはいえ、御免なさい…紅月さんに辛い思いをさせてしまって。功助さんにはしっかりと怒っておいたからね、記憶が戻ったのに大切な人に辛い思いをさせちゃいけない、ってね」
「蒼純さん…でも、蒼純さんは…」小夜の言葉を遮るように蒼純が話す。
「紅月さん、子供の頃よく海岸に行かなかった?そこにあなたの好きな花はなかった?」その言葉に驚く小夜。
「わたしは貝殻のほうが好きで、波打ち際で貝殻を拾っているとあなたがお花を摘んで持ってきてくれたね、浜匙の花。ごめんね早く気づいてあげられなくて……小夜」蒼純の声は震えていた。
「!!」小夜は驚きで嗚咽を漏らして泣きながら姉の名を呼んだ。
「か、香夜おねえちゃん…」電話の向こうから香夜の鳴き声が聞こえる。
「功助さんにあなたの名前を聞いたの。それで、もしかしてと思って調べたの。小夜、あなたの事ずっと探してたの。よかった、やっと会えた……」香夜の言葉が途切れ静かな鳴き声だけが聞こえてくる。小夜は子供のように泣き続けている。
「小夜、功助さんにはすぐに会いに行くように言ったからね。こんど、二人で会いに来てね」小夜は嗚咽を抑えながら答える。
「うん…会いに行くね…香夜お姉ちゃん」
「ありがとう小夜、楽しみにしてるね」そう言って香夜の通話が切れた。
突然、玄関のチャイムが鳴る。ドアを開ける小夜。するとそこには功助がいた。
「小夜、突然ごめんね」照れたように微笑む功助。止まったばかりの涙が小夜の頬をつたう。小夜は功助の胸に頭をつける。そっと背中に腕を回し優しく抱きしめる功助。
「功助、わたし…海に行きたい…」
「ああ、じゃ行こうか」
二人は夜の街を寄り添いながら歩いた。会話はなかった。ただお互いのぬくもりだけを感じていた。
目の前に広がる月明かりに照らされた海。見上げると星が瞬いていた。砂浜に降りると二人は並んで座った。功助の体に小夜は寄りかかる。目を瞑ると波音が心地よく響いている。今までの不安がすべて消え、幸せな気持ちに満たされたせいなのか、いつの間にか小夜は眠りに落ちていた。
「小夜…小夜…」心地よい響きが小夜を目覚めさせる。
水平線から太陽が昇り始め、暗い海が徐々に青い色に変わり始める。
小夜は功助の眼をじっと見つめる。
「小夜…あいしてる」その言葉に無言でうなづく小夜。
二人はそっと抱き合い、互いの唇が触れた。
やがて太陽がまばゆい光を放ち、二人を包む。
二人の周りを東雲色に染め上げられた浜匙の花が取り囲んでいた。
まるで二人を祝福しているかのように…