『Experience』
南 夏希はちょっと普通じゃない
『Experience』の部屋は、明かりがなく暗かった。
中央に、プラネタリウムにあるような投影機が設置されていた。壁や天井は、表面のごつごつした無骨な石造りではなく、滑らかなコンクリート製だった。映像がきれいに映るように工夫しているのかもしれない。
「この投影機、使えるのかしら」
「そのための部屋みたいだし、探せばきっとスイッチがあるんじゃないか」
投影機を少し調べればスイッチらしきボタンが発見できた。
「霜雪くん、スイッチを入れるわよ」
パチッっという音がすると、予想通り部屋全体に投影機から映像が映し出された。光を極力遮らないように俺と南は映像に目を通す。
「これは……」
投影機からの光一つ一つはそれぞれ別の映像を映し出していた。
男女四人が美術館へ入っていく映像があった。
古代遺跡を探索している映像があった。
カラオケに閉じ込められている映像があった。
夜の学校で人体模型に追いかけられている映像があった。
白いローブを身に纏った集団が象の姿をした像を崇めている映像があった。
山の一角に火をつけている映像があった。
日本人形が真夜中に歩いている映像があった。
少女と互いに涙を流しながら抱き合っている映像があった。
雨の降る中、少女が炎が灯ったトーチを天に掲げ何かを唱えている映像があった。
銀色の鍵を夕日に向かって捻っている映像があった。
実に多種多様な映像だ。ただし映像に映っている人物は必ずしも一致しない。
たまにどこかの映像で見たな、という人物を見かけることはあるが。
この映像はいったい何なのだ。
いや、『Experience』という部屋の名前から推測するに、これらは名も知らぬ世界のどこかの誰かが経験した出来事なのだろうことはまあ想像できる。
しかし、何気ない日常の風景よりも、日常とは真逆の、向こう側の世界へ一歩踏み出しているような映像が多い。かといって舞台が似通っているわけでもないのだ。
最大の疑問はこれらの映像をどうやって撮影したのかということだ。
映像にはかなり切羽詰まった状況のものもある。夏にテレビで放映される心霊映像でもあるまいし、手段は謎だ。
おいおい、これは特にやばいんじゃないか。
ヒキガエルのような形状をした灰色の体躯、その頭部に当たる部分にはピンク色のイゾギンチャクを思わせる触手が生えている。
ヒキガエルよろしく体表からは粘液が分泌されているようで、てらてらと艶めかしく光っていた。
まさしくこの世のものとは思えない怪物だった。それが二体だ。
それぞれが体長のおよそ倍、二メートルはある槍を持ち、男三人と対峙していた。怪物はじりじりと男たちへにじりよっていく。
見ていられない。あの三人は助からないだろう。
「嘘……」
そんなとき、南が呆然としたようにつぶやいたのが耳に入った。
この後に起こる惨劇を想像してしまった俺は、速やかに南の方に意識を切り替えた。
あいにくグロいものに耐性はない。
南の視線の先にはまた一つの映像があった。
映っているのは図書館だろうか。中央には閲覧席で学術書のようなものを読んでいる一人の女性がいた。
本を読んでいるその人物は、まごうことなき南夏希であった。
その映像を眺めてしばし呆然としていると、場面が突然切り替わる。白い立方体の部屋だった。南夏希だけがその部屋にぽつんといるのである。
「南、いったいこの映像は何だ。アンタの経験……ってことでいいのか」
「私の経験……そうね。映っているのは正真正銘、私が少し前に経験した出来事よ」
もし投影機による映像が世界中の人物の経験した出来事なのだとしたら、こうピンポイントでこの場にいる人物の経験が映し出されるのはどうも出来すぎている気がしないだろうか。
それとも本当にただの偶然。乱数のいたずらだというのだろうか。
南はポツリと語りだした。
「あなたは数学のミレニアム問題って知っているかしら。簡単に説明すれば、数学の、100万ドルの賞金がかかるぐらい極めて難しい問題のこと。
解けるわけがないけれど、もしかしたら私に解けるんじゃないか、と思って調べていたのよ。そしたら突然、場所が白い部屋になっていたの。
扉が一つあったから進んでいくと、二択の扉があるのよ。扉の間に嘘つき男がいて、一回だけ質問していいから正解の扉を選べってことらしいのよ。
見事に正解の部屋を選んだら、ケーキと紅茶が準備してあってそれらを飲み食いしたの。
次の扉を開けたら今度は三択の扉。そこでは不正解を選んじゃったらしくて顔から気持ち悪いピンクの触手の生えた怪物がいたの。
慌てて部屋を駆け抜けたら扉が一つだけ。扉に紙が貼ってあって『これで選抜試験は終了です。お疲れさまでした』って書いてあるの。
意味不明よね。その扉をくぐったら図書館で目が覚めて……あれは夢だったはずなのだけれど」
つまりは南夏希も向こう側の世界に一歩踏み出した人間の一人だった、ということなのだろう。
「その顔から気持ち悪い触手が生えた怪物って、まさかこいつのことじゃないだろうな」
俺はさっき見ていた映像を指し示す。
あまり見たくはなかった。だが確認しなくてはならなかった。
映像はちょうど男たちが、頭部からピンク色の触手の生えた怪物を二体とも打倒した場面だった。
嘘だろ。あの気持ち悪い化け物って人の手で倒せるのかよ!?
よく見ると男たちは武器を持っていた。弓に、日本刀に、拳銃だ。
男たちもただ者ではなかった。一般人は武器など携帯していないし、武器を持ち歩くにしても運びやすさとかまだ選択肢があると思う。
そして称えるべきはその精神力だろう。もしも俺があの化け物と対峙することになれば腰を抜かしてその間に嬲り殺されてしまう。
だが男たちは臆さず化け物に立ち向かい返り討ちにしてしまった。
そして明らかに日本人の顔をしているのに拳銃を持ってるのはなぜだ。確実にやばい職業の人だ。
おい弓と日本刀!拳銃とハイタッチをするな!拳銃を持ってることに少しは疑問を持て!
……まあ今更感がある気がするが。
「うん。この怪物ね」
南はあっけらかんと告げた。
「おい、何かもっと反応はないのか。化け物だぞ。こんなのが存在してるんだぞ!」
「確かに気持ち悪いけど、なんで怖がらなきゃいけないのよ。こんなのよくあることじゃない。それに成功したし」
「え、アンタはこれが日常茶飯事なのか……冗談だろ」
「ジャーナリストをやってるといろんな闇に足を踏み入れてしまうのよ。
新興宗教の調査や謎の子供の連続失踪事件の解明、とかね。大学でも不思議なことの一つや二つあるでしょう」
俺の知ってるジャーナリストってこんな映画みたいな危機が日常的に襲ってくる職業ではないと認識していたのだが。
それともジャーナリストの実態はそんなものなのか?
そして大学でそんな危険な出来事はない。……たぶん。
いや、俺が忘れているだけでやはり俺も向こう側の世界へ一歩踏み出した人間の一人だったのだろうか。
くそ。記憶がないってのはとても面倒だ。
「霜雪くんの映像はないのかしら」
それもそうだ。オカルトの類は信じていないが、過去に俺も南と同じようにトラブルに巻き込まれていた可能性は大いにある。
体感で一時間ほど探したが、南夏希の映った映像は見つかれど、俺の映った映像は見つからなかった。