『Start』
目が覚めた。
「知らない天井だ……」
俺は体を起こす。どうやらここで寝ていたようだ。
俺が寝ていたのはベッドではなかった。
硬い床で寝ていたからだろうか、体のあちこちが痛い。
そして、ざっと周囲を見渡し状況を確認する。
どうやら現在俺は円柱型の部屋の中にいるようだ。
石づくりの部屋で、円周に沿って五つの扉がある。部屋の中央には、場の雰囲気にいかにもそぐわないノートパソコンの乗った木製の丸テーブルが安置されていた。
この状況は何だ。どうして俺はこんな場所にいるのだ。自分の身になにがあったのかを思い出そうと昨日へ意識を飛ばす。
たしか昨日は―――
「あれ?」
まったく思い出せない。じゃあ一昨日だ。これもダメ。
ならこの一週間!
この一か月!
この一年!
あれこれしばらく思い悩んでみたが、結論として、俺が思い出せた出来事は一切なかった。
もしかすると、自分は俗にいう記憶喪失というものになっているのかもしれない。
俺はそのことに気付き、焦りを覚えた。
おいおい冗談じゃない。こんな意味不明な状況で、 自分の記憶さえ訳が分からなくなっているのだ。絶望してうっかり自殺してしまう。
ここで子供じみた考えがひらめいた。
頭を石壁にぶつければショックでもしかしたら失った記憶を取り戻せるのでは?
きっと記憶がポッカリと大きく抜け落ちているのは、どこかで強く頭を打ったからなのではないだろうか。
根拠はない。
頭を触って確認してみるが、たんこぶはできていなかった。
落ち着け。頭を石壁にぶつける前に確認することがあるだろう。
俺の名前は?
「霜雪雨多」
よかった。さすがに自分の名前は憶えていたようだ。
名前を確認したことがきっかけになったのだろうか。名前に付随して他に多少は思い出したことがあった。
俺は小さいころから、いろいろなことに興味を持つ子供だった。
転機は小学校六年生の時だった。地域の科学館で展示されていた周期表に興味を持ったことがきっかけで科学者になりたいという夢を持った。
十年と少し経った現在、俺は大学院生で、研究に追われる日々を送っている。放射線に関する研究を行っていた……はずだ。
はずだ、というのもこの記憶、どうも自分のことに感じられない。ペラペラで厚みがない、とでも表現すればいいのだろうか。
これでいえば、「周期表に興味を持った」と「大学院で研究をしている」の間には多少なりとも、人生であるからして紆余曲折があるはずなのだ。
その紆余曲折に関する記憶が全くない。まるで「周期表に興味を持った」と「大学院で研究をしている」の二点のみが乱暴に脳に貼り付けられているかのようだ。
「ひとまず記憶の問題は放置しておくしかないか」
仮に俺が記憶喪失の状態から抜け出したところで、この状況は一切変わらないのである。
ひょっとすると知らないところで悪化しているかもしれない。
もしかすると記憶の中にこの空間に関するヒントがあるのかもしれないが今は行動すべきなのだ。
かの有名な「まちぼうけ」のように待ちの状態のままで餓死したくはない。行動しなければ、何も変えられない。祈っているだけで世界が自分に都合のいいように変化することなどありえないのだ。
自分の服装はジーパンに、白い文字で「働きたくない」と印字された黒Tシャツ。それに薬品やカップ麺の汁で薄汚れた白衣を羽織ったもの、というとてもではないが人に会うような服装ではなかった。
ただ、Tシャツのチョイスには疑問が残る。
まあ、働きたくないのは全人類共通の思いなのは事実だろうがわざわざ前面に押し出すことでもなかろう……
服装からして、過去の俺が、特別だれかと会う約束をしていたとかそういう可能性は低そうだ。この空間に来る直前は大学で研究をしていた、というのが妥当だろう。
白衣とジーパンのポケットを探ってみても、あったのは糸くずだけ。持ち物は誰かに取り上げられたのか、はたまた最初から何も所持していなかったのか。
さすがに現代においてスマートフォンを所持していなかったとは思えないので、取り上げられたのだろう。
ひとまず調べるべきはあの場違いなノートパソコンだろうか。
もしかしたら外部と連絡が取れるかもしれない。
ヨーロッパの城を思わせる石造りのこの空間にWIFIルーターが設置されているとは考えづらいが。
ノートパソコンを開けると、ひとりでに電源が付いた。
ふたを開けただけで一切電源ボタンやキーには触れてはいない。スリープ状態になっていたのかもしれない。
表示されたのは期待したデスクトップではなく、ブルースクリーンだった。
そして画面上に英字が表示されていく。エラーメッセージではなかった。
『Who am I ?』
……それだけ?
それだけだった。他に特筆すべきことといえば、英文の一つ下の段落でカーソルが点滅していることぐらい。
「もうちょっと表示することがあるだろ。しかも『Who am I ?』ってなんだよ!質問したいのはむしろこっちだわ!」
一通りツッコミを入れて、落ち着くことにする。
心を冷静に保つことが大事だ。
ノートパソコンを少しいじってみたが、可能な操作は文字の入力だけだ。電源ボタンを長押ししてみても強制終了はできない。
ノートパソコンにあれこれ干渉することはできなさそうだ。
ふむ、『Who am I ?』ねえ。
直訳すればもちろん『わたしは誰?』だが、これだけの情報でどうしろというのか。いや、質問に対する答えを入力しろというのはわかるが。
ひょっとすると、これは巷で噂の脱出ゲームなのかもしれない。この空間を探索して謎を解き、『Who am I ?』の答えを見つけ出すのだ。
いや、だとすると俺の記憶喪失はいったい何なのだという話になる。
それに、俺は脱出ゲームに参加したことはないが、脱出ゲームが何の説明もなく、唐突に行われるものだとも思えない。スタッフがいたり仲間が存在して、なんらかのアナウンスがあるだろう。
いや、ここで悩んでいてもらちが明かない。
行動することが大事だ。ダメもとだが入力してみよう。
『Uta Shimoyuki』
『NO. Who am I ?』
はずれか。もしかしたらこの文章は過去の俺が作ったのかもしれないと思ったが、残念ながらその展開はなかった。
まあダメもとだったしいいか。きっとそのうち答えが見つかるだろう。
俺はそう気楽に考えた。
手探りで入力していっても当たるとは思えないし、 ノートパソコンは後回しにして扉を調べるべきだ。
扉は五つ。
現在地を含め、最低六個の部屋が存在しているのだろう。
俺は近くにあった適当な扉に手をかける。
「ん?」
扉を開く前に、扉にプレートが付いていることに気が付いた。
プレートには『Despair』と書かれている。
つまりは『絶望』だ。
絶望の部屋、と捉えるのが妥当だが……なんだよ絶望の部屋って。RPGゲームにでも出てきそうな名前だ。
もしかすると他の四つの扉にも同様のプレートが付いているのかもしれない。
その考えが浮かんだ俺は他四つの扉も確認してみる。
『Memory』『Scenario』『Experience』『Library』
順に『記録』『物語』『経験』『図書館』
となるわけだ。
うん。『Library』以外、の部屋がどうなっているのか皆目見当もつかないぞ。どうするんだこれ。
だが『Experience』には少し興味がある。もしかすると何か思い出せることがあるのかもしれない。まったく関係がない可能性も十分あるが。
ひとまずは特に危険の感じられない『Library』から調べることにしよう。
そして今入ろうとしていた『Despair』はできることなら調べることなく終わりたい。考えなしにこの扉を開くには、『Despair』の文字は不穏すぎる。
俺はひとまず『Library』に入ることにした。
別にヘタレじゃない。堅実だといってほしいね。