母の愛
5月13日。カーネーションとカスミソウの花束を持って家族みんなでお母さんのところへ会いに行く。
ねぇ。お母さん会いたいよ。。。
3年前。当時私春野優花17歳。この日は私達家族が忘れられない日になってしまった。
私の家庭は4人家族で、4歳下の弟春野友也とサラリーマンの父と主婦の母で毎日楽しくすごしていた。
夕ご飯も家族4人で食べるのが当たり前でいつも大声で笑い合いながら食べていた。
母は最近私達を見ていう言葉があった。
「家族が笑っている時が1番お母さんは好きよ!」
この時の私は何で母がこんなことを言い始めたのかわからなかった。友也と父もそうだったと思う。
でも母が急に言い始めてたその言葉の意味を私達家族はあとから知ることになる。何気ない楽しかった毎日があんなにも簡単に壊れていった。
12月5日。突然母が倒れた。私と友也は何が起こったのか状況がつかめなかった。急いで救急車を呼び父に電話した。母は集中治療室に運ばれた。
病室の前で泣きじゃくる私と友也。看護婦さんが言葉をかけてくれるがそれも聞こえなかった。
父が病院につくとすぐさま先生に呼ばれた。先生と話が終わって部屋からでてきた父の顔は青ざめていて涙を流していた。私達を見て父は何も言わずただ抱きしめ泣き叫んでいた。
その日は家に帰ることもなく病室の前で母が目を覚ますのを待った。
母が目を覚ました時私と友也は学校にいた。家に帰って父が私達を連れて母が入院している部屋に訪れた。母は私達を見ていつもの笑顔ではにかんで「急に倒れてごめんね。びっくりしたね。」
それだけ言うとまた眠ってしまった。
その日の夜父が私達に話した事を今でも忘れない。
「お母さんはね癌なんだ。余命は半年。」
その言葉を聞いた瞬間涙が頬をつたった。
「冗談でしょ?何でお母さんが、、」
私は言葉を失った。友也は下を向いて何か言っている。
「お母さんが死んじゃうの?何で?」
友也はずっとそう言っていた。父はそんな私達を見て抱きしてくれた。
「お父さん頑張るから。だから優花と友也も頑張ろう。お母さんも治療一生懸命頑張るし、治療で癌が治るのを祈ろう。」
そう言って父と私達はただ泣いていた。
その日から私達家族は役割を分担して家事に取り組んだ。私は買い出しと洗濯物担当。友也は掃除全般。父は洗濯物たたみ。平日のご飯は私と友也が作り休みの日は父と3人で作った。家事など母に任せっきりだったため何をやるのにも時間がかかった。でも日が経つにつれてみんな上手くなっていった。母の病室には平日は私と友也の学校が早く終わる水曜日と金曜日。土日は父と3人で通った。母は抗がん剤の治療で全身の毛が抜けてしまっていた。日に日にやつれていく母を見るのは正直辛い部分もあった。でも母はいくら辛くても私達が来ると絶対笑顔になって「大丈夫だよ。」と言っていた。そんな母の姿を見て私達家族みんなで母を支えようと決めた。
でも母と過ごせる残り時間は刻一刻と迫っていた。
3月19日。友也と病室に訪れた時だった。母の病室が騒がしかった。嫌な予感がした。母の体にはたくさんの器具がつけられていた。友也が思わず駆け寄った。
「お母さん!お母さん嫌だお母さん!」
そんな友也を看護婦さんが病室の外に連れていき友也の手を握って「大丈夫。精一杯やるから。」そう言って扉を閉めた。
私は隣で泣いている友也の手を握ることしかできなかった。
父が仕事場から駆けつけた時には母は落ち着いていた。父は先生から次また同じことが起こったらその時はもう。と言われ父は私達の前で泣かないで隠れて泣いていた。
父が泣いていたことは私も友也もすぐわかった。
父の目は赤く腫れていたからだ。私達は何も言わないでただ母が目を覚ますのを待った。
もう何時間経っただろう。このまま母が目を覚まさなかったらなんて考えていた時だった。
「どうしたの?深刻な顔して」
母がそう言って私達を見て笑った。その姿を見てまた私達家族は大泣きした。母はそんな私達を見てただただ微笑んでいた。
その日からまた母と私達家族は支え合いながら頑張って行った。
5月1日。母は最近体調が安定していたため1日だけ外出が認められた。私と友也はもうすぐ母の日ということでカーネーションとカスミソウの花束を買って家で待っていた。
ガチャ────。
「お母さんおかえりなさい!」
「みんなただいま。。。」
母はそう言って微笑みながら涙をこぼしていた。
家の中に入って今までみたいに色んな話をしながらご飯を食べたりテレビを見たりして幸せな1日は過ぎていった。
5月5日。急に母の体調がまた悪くなっていった。私達が行っても前みたいに笑顔を見せられないくらい体力がなくなっていたけど母は私達を見ると必死に笑顔を作ろうとしていた。その姿を見ると胸が痛くなり思わず母に駆け寄り
「大丈夫だよ。大丈夫だよ。」
それだけずっと繰り返し言っていた。
その後から母は一気に弱って言ってもう喋ることもままならない状況になっていった。
そしてついに母との最後の時間がきた。
5月13日。母はいつもより調子がよかった。
母は私達に手紙を渡してきた。
「私が一生懸命書いたからみんなに読んでほしい。」
その言葉だけを残して母は天国にいってしまった。
私達家族は母から貰った手紙を母が亡くなって1ヶ月後にみんなで読んだ。
──みんなへ。───────────────
この手紙を読んでるってことはお母さんはもうみんなの所にはいないね。みんなごめんね。
お母さん実は癌ってこと知ってたの。
体調が優れないときがあったり倒れそうになったり。こっそり病院に行ったの。
その時に先生から癌て告げられた。
その時は余命1年て言われたかな。
その時頭の中が真っ白になってね。
悲しくて1人で泣いた。
お父さんに相談しようか迷ったけど泣き虫なお父さんはきっと混乱して仕事に力が入らなくなってしまうと思って相談しなかった。ごめんね。
お母さんはまだまだ生きたかった。優花や友也の結婚式にも出たかった。孫も見たかった。
お父さんと一緒に孫の姿をみて笑いたかった。
それができないて知って残りの時間をみんなと過ごす時間を大切にしようて思ったの。
優花。あなたは人一倍頑張り屋さんで優しい人。でもたまには息抜きもしなさい。たまにはみんなを頼っていいのよ。何でも1人で抱え込まないこと。これから私の代わりとしてみんなを支えていってください。私の自慢のかわいい娘だからね。
友也。あなたはお父さんに似て泣き虫だけどその分思いやりがある人。でもね友也。あなたは男の子だから少しは我慢強い人になりなさい。そしてお姉ちゃんが我慢してる時は支えてあげてね。
私の自慢のかっこいい息子。
お父さん。まずはごめんなさい。お父さんより先に逝ってしまって。お父さんともっと一緒にいたかった。2人の成長を一緒に見たかった。
でもね私は幸せだった。お父さんと出会って恋をして。たまにはぶつかって喧嘩もしちゃったけど。お父さんと結婚して2人の子供を授かって本当によかった。優花と友也ていう大切な宝物に出会うことができました。私は幸せものです。
お父さん、優花、友也に言いたい事がある。
お見舞いにかかさず来てくれてありがとう。
いつも笑顔で私に接してくれてありがとう。
あなた達家族の母親にしてくれてありがとう。
そして最後に。
こんな私を最後まで愛してくれてありがとう。
────────────あなた達の母より──
私達家族は大声で泣きじゃくった。
そして私達はずっと「ありがとう」と言っていた。
ねぇお母さん。私達家族は元気だよ。
みんなで支え合いながら頑張ってます。
だから安心して家族を見守っててください。
お母さんありがとう。だいすきだよ。
私達家族はカーネーションとカスミソウの花束を母に贈った。