第六話 物語の始まり
サイード・アル=ナセル。
それがその屍体の名前で御座いました。
彼は王位継承権第七位という、王族の末裔で御座います。
サイード王朝が創立されたのは、今から5百年ほど前のこと。
それまで治めていたモースル朝は、人民から税を絞りとり、貴族の間では実しやかに淫靡の限りを尽くした晩餐が行われていたようで御座います。
当時の王は、狂気と殺戮の虜で御座いました。
一つ、例を上げて見ましょう。
王は民衆を千人集めると、笑顔でこう言ったので御座います。
「諸君らは、神子である我によって選ばれた、栄えある人民である」
その言葉に、民衆は涙を流したので御座います。
「人民とは即ち、人間である。
人間とは神が創り賜いし存在である。
故に、神子である我の傀儡である」
王は続けます。
「傀儡は、楽しませるための物である。
我が楽しみは、お前らの泣き顔である。
お前らの苦しむ顔である。
これより、十日間。
泣くことを止めた者から、殺す」
王が指を鳴らすと、最も初めに涙を止めた子供の内臓が四散致しました。
民衆の涙で出来た湖がかつての王の名前から、
『シャーワル湖』という名が付いたのは、有名な逸話で御座います。
そしてこのシャーワルの死がモースル朝の終わりを告げるのです。
時代を終わらす者は、常に人。
人が時代を切り開くので御座います。
サイード・アル=アーデルは、下層階級の民で御座いました。
アーデルは悪政に怒りを覚えるも、その無力さに打ちひしがれる日々を送っておりました。
彼が成人として迎えられた十五歳の晩に、母は、アーデルに告白したのです。
「お前は、現王、シャーワル様の子よ」
アーデルは衝撃を受けました。
そして彼の中に確固たる使命が芽生えたので御座います。
天啓、とも言えました。
それから十年の月日がたち、アーデルは父シャーワルを殺害し、王族を皆殺しに致しました。
人が変わるのは一瞬のことなのです。
ほんの些細な切っ掛けから、歴史は変わっていくのです。
そして、この物語が始まっていくのです。
男の、異世界からやってきた、何の取り柄もない愚鈍な青年の物語は、ここでやっと始まったのです。
「……っ!」
男が一口食べるごとに、屍体の、
ナセルの意識が、
学んできた精神が、
肉体に刻まれた記憶が、
男の全身を駆け巡ってくるでは御座いませんか!
そして、何ということ!
その屍体の余りの美味さ!
迸る血潮が、歯に喰い込む肉の弾力が、小気味良い音を立てる骨が、舌の上を無邪気に駆け回る脳味噌が、なんと美味いことか!
ぺろりと平らげると、男はえも言えぬ充実感に包まれていたので御座います。
「どうでしょう!」
蛇神からの声に、はっと、恍惚とした表情を直し、涎をふき取ります。
「とっても、美味しいでしょ!」
「聞くな」
「はいはい、ごめんさないね!
でも、貴方の中に、その屍体の魂を感じませんこと?」
「ナセル」
「え?」
「俺の名前はナセル」
男は、そう蛇神に告げました。
男、いや、ナセルは、屍体の名前を貰い受け、その身に宿したので御座います。
ぐっ、と全身に魔力を込めます。
するとどうしたことでしょう!
男の、ナセルの肉体が、まるで死した直後の本人そのものになっていくでは御座いませんか!
その姿は正に美丈夫!
暗黒の髪に深紅の瞳!
綺麗に通った鼻筋とぷっくりとした唇!
筋肉質な肉体は、しかししなやかさを帯びておりました。
「俺が此処にこうしてまた人として生きていけるのは、ナセルの御かげだ。
俺が喰ったからこそ、俺は恩を返したい」
「なんて美しい肉体でしょう!
なんて美しい信念でしょう!
とっても良い子です!
自慢の息子ですわ!」
「蛇神、俺はまず何をすればいい?」
「うーん、そうですね。まずは修行から始めましょうか!」
「修行?」
「ええ、修行ですわ!
今から一年間。
みっちりと鍛え込みますわ。
だって貴方、弱すぎるんですもの。
魔力があっても、使い方が分からなければ意味がないですわ」
「いいだろう。
邪神様に教えを乞える人間なんて、そうそういないだろうからな」
「まずは、日光に浴びても死なないかどうか確認しますわ。
ダメならそれを防ぐ妖術を教えますわ」
と、蛇神はナセルを横切り、扉へと手を伸ばします。
「質問してもいいか?」
ナセルは蛇神に顔を向けずに聞きました。
「ええ。何なりと!」
「お前が復活するのに、一体何人が犠牲になった?」
「ううん、一万を超えてから数えるのが面倒になりましたわ」
「そうか」
もうひとつ、とナセルは言います。
その声色は暗澹としておりました。
「お前が約束を破った場合は、どうする?」
「それは貴方がお決めになって!
大丈夫ですわ!
約束は約束です!
信用してくれないなんて、私悲しいですわ!」
「約束? 違うな。これは契約だ」
「契約?」
「俺はお前の復讐を手伝う。
お前はナセルを復活させる。
これは俺とお前の、人と神の契約だ」
「ええ」
「さっきからさ、俺の中の意識が、ナセルが、お前を信用するなと五月蠅いんだ」
「……はあ。
今から私と戦います?
まあ、負けませんけど」
「いいや、違う。
俺にはお前以外頼れる奴がいない。だから例え嘘だったとしても、お前を信じて進むしか選択肢はない」
「だったら?」
「俺が教えて欲しいのは、お前の名前だ。
これから邪神だとか蛇神だとか、一々仰々しく呼びたくはない。
仲間なんだろう?」
「あー、そんなこと!
ええ、ええ、もちろんいいですわ!」
邪神は、蛇神は、にっこりと、まるで本物の少女のように笑いました。
「私の名前はアイシャ!
この子の名前から頂戴しましたわ!」
こうして、物語は始まりを迎えたのです。