第一話 砂漠の夜
かの者が目を覚ました場所は薄暗い砂の上で御座いました。
見渡す限りの砂、砂、砂。
頭上を照らすは美しく、妖しく光る月。
砂漠のど真ん中に男は投げ出されたのです。
投げ出された?
そう、投げ出された。或いは、放り投げられた。もしくは、飛ばされた、と言った方が正しいかもしれません。
それは摩訶不思議な現象であることには間違いありませんでした。
何を隠そう、男は先度まで自室で首を括っていたのです。
自殺を謀った者がどうして一度も見たことがない砂漠の真ん中へといると想像できましょう?
男がなぜ自らの命を絶ったのか、一体何に絶望したのか、それはまたの機会にお話しいたしましょう。
さて、砂漠では日中の暑さが嘘の様に、風が、大地が、凍えるもので御座います。
吹き荒ぶ風から逃避を考え、辺りを見回しても、先程お伝えした通り、砂、砂、砂。
何もあろうはずが御座いません。
「寒い」
ふと、声に出てしまうが、どこか自分の声ではないような、そんな気がしたので御座います。
此処にいては凍えてしまう、と、男は一歩、二歩、三歩。三歩歩いたところで気が付いたのです。
この足は何だ?
この毛は?
この爪は?
男は人ならざる者になっていたので御座います。
虎になった男の話は有名では御座いますが、この手足、この毛色、この毛並み。
虎とは大きく異なっておりました。
犬?
否。
「ああ」
男は、気付いたのです。
「俺はハイエナになったのか」
声は、唸る獣、そのもので御座いました、
どれくらい歩いたか。
男はふと自分の右手(いや、前足という方が正しいでしょう)を見つめて、溜息を洩らします。
それは嘲笑のようでも御座いました。
どちらにしろ、獣の呻き声にしかなりませんでしたが。
御存知の通り、ハイエナは死肉を喰らいます、
獅子の残した獲物を、遠巻きに見つめ、獅子がそこから離れていくのを確認した後に、残飯を漁るように、まるで乞食のように、喉を潤おし、嚥下していくので御座います。
それが彼らハイエナの日常で御座います、
しかしながらそれはサバンナ、
獲物の多い、緑豊かな土地。
では、砂漠では?
砂漠の獲物は?
砂漠の死肉は?
生き倒れた、旅人。
人間。
男は人として生を受け、人として暮らしてきた過去があります。
それが捨てたものだとしても、確かに、頭には、記憶には、残っていたので御座います。
なんという悲劇でしょう!
同族、同種を喰らわねば、生き永らえられないなどと!
ああ!
「それは、それだけは……」
男は、しかし、誓っておりました。
生まれ変わった自分は、いつ何度『絶望』したとしても、決して、絶たないと!
決して、自ら命を絶たないと!
しかし、喰わねば死ぬ、
それはこの世に生を受けた者の定め。
原理、原則なので御座います。
生への執着心は、まるで呪いのようなモノ。
男は自らに呪いをかけたのです。
人は喰いたくない。
獣のように、生きたくはない。
自らの生と死に葛藤を覚えながらも、男の呪いは強く、その両足に力を込めさせます。
そしてついに見つけてしまったのです!
死体を!
屍肉を!
そこに落ちていたのは、杖。ターバン。厚手の布。
その布には美しい刺繍が施されておりました。
おそらく、この屍肉が(ああ、男にはもう人間が肉に見えているので御座います!)肩から脹脛にかけて羽織っていたであろう布には、黄金の刺繍。
見目麗しい絢爛豪華な馬の文様が。
きっと財のある者だったに違いありません。
職人に依頼し、一針一針丁寧に縫わせていたので御座いましょう。
この世界のことは男には分かりかねましたが、貴族か、その類の者に違いないと、男は確信したので御座います。
しかし、この空腹感!
月光に照らされて指が、風に踊らされて布の隙間からのぞかせる肌が!
「あ、ああ」
生唾が、枯れた喉を潤おします。
「嫌だ……俺は、俺はケダモノなんかじゃない!」
吠える。
その声に誘われて、辺りには、獣が。
ハイエナが!
喉を鳴らして、近づいてきたのです!
その数、ざっと十はいるでしょう。
群れをなして、獲物を寄越せと、円を描いて!
男は、空腹感から、或いは、矜持から、ある結論に至ったのです。
別に喰うのが、人間である必要はないじゃないか。
爪を立て、牙を剥いたその表情は、あたかも笑っているようで御座いました。
「ああ、満たされた。これ以上は喰えないな。最も、骨以外にもうないか。ははっ」
爪は、牙は、獣の血で潤っていたので御座います。
ふと、何やら身体に、四肢に、臓物に、血肉とは別に満たされるものを感じたのです。
異変が起こりました。
爪がより鋭利に!
牙がより犀利に!
足はより強靭に!
毛はよりしなやかに!
男の肉体は、以前よりも遥かに、強く、美しくなっていたので御座います