一、紫苑 四月七日(日)
懐かしい夢を見た。
小学生くらいの頃だ。
公園でいつも会う女の子がいた。
本当にそれだけで、例えば、その女の子と恋に発展しただとか、その女の子が凄いお嬢様でとか、そんなフィクションじみた物語はない。
ぼくと彼女は、ただ同じ空間にいて、二人揃って静かに本を読んでいるだけの関係だった。
それを関係と呼んでいいのかは、正直微妙だな。
たまたま図書館で近くの席に座っていたとかそういうレベル。
薄情な言い方をしてしまえば他人だ。
どうして今になってそんな夢を見たのかについては、思い当たる節がある。
身体を起こして時刻を確認すると、既に正午を迎えていた。
いくら春休みだとは言え、少々自堕落に過ぎるかもしれない。
明日からは学校だし、今日は早めに寝よう。
朝食兼昼食を済ませて外へ出ると、春風がそよそよと吹き、暖かな日差しがぼくを照らす。
眼前に広がるは田んぼの多い田舎臭い風景。
それを見て心に湧き上がるのは、懐かしいという感情だった。
小学生の頃、ぼくはこの辺りに暮らしていた。
親の都合で中学に上がると同時に引っ越し、四年間を経て、再びこの地に舞い戻って来たというわけだ。
馴染み深い土地を歩く。
流石に四年ぶりだと記憶も曖昧になっていたが、歩いているうちに蘇ってくる。
……全く変わってない。
ぶっちゃけ、ここまで変わっていないとは思っていなかった。
四年もあれば、もっと変化があってもいいはずだろう。
四年か。
ぼくは変わったのだろうか――変わってないな。
あの頃から一歩も成長していないだろうことは明白だ。
それを考えれば、変化のない地元とは相性がいい。
ぼくの心が意外にも落ち着いているのは、そういう理屈なのかもしれない。
目的地が近づくに連れて緊張するものだと覚悟していた。
よくよく考えてみれば、なぜ緊張するのかよく分からない。
ぼくにとって、あの場所は特別なものだったのだろうか。
それとも、あの空気が特別なものだったのだろうか。
もしくは、あの女の子が特別だったのだろうか。
全部かもしれない。
多分、あの空間が特別だったんだろう。
ぼくはどうしてそこに足を向かわせているのだろうという疑問も、それが答えとなりそうだ。
いや、もっとノスタルジックな話なのかもしれない。
小学生時代を過ごした懐かしい空間に浸ってみたいとか。
まあ、既に充分ノスタルジーなんだけど。
この道を通って学校に行ったな、とか、ここでこんなことをしたな、とか。
ここは、そういうなんでもない記憶をどうしようもなく美化して想起させてくれる。
本当はもっとつまらなかったはずだ。
なにせぼくは人と会話するのが苦手だった。
なにか言われてもなんて返せばいいのか分からないのだ。
当然、なんて話しかければいいのかも分からない。
そんな風に臆病になってるうちに、ぼくは無口キャラなんてレッテルを貼られ、益々話しかけるハードルが高くなった。
変えたいとは思うけど、変えようとは思わない。
昔は思っていた。
どうしてか分からないが、変えないといけないような気がしたのだ。
でも、現実でそんなことはない。
自分から話しかけるのが苦手と言っても、宿題を集めたりするくらいなら出来るし、提出物を出すことだって出来る。
話す内容が最初から決まっているのなら、二口三口の会話ぐらいぼくでも成せる。
それだけ出来てれば上出来だ。
おしゃべりが得意じゃなくても社会では生きていける。
そういう考えに変わったのは、中学に上がって間もない頃だ。
変わった理由に心当たりはないけど、それはおそらく諦めのようなものだろう。
人間誰だってなにかを諦めて生きていく。
大抵の人間は自分が大切だけど、それと同時に自分のなにかを嫌っている。
でも、どうしようもないから諦めるのだ。
どうしようもないものとずっと張り合っていたら疲れる。
疲れるのはすごく嫌だ。
だから自分の中で折り合いをつける。
うまい落としどころを見つけて生きていく。
合理的に生きた方が人生楽なのだ。
自分の嫌なところを全人類が嫌っているわけでもあるまいし、わざわざ直す必要性がない。
手間暇かけて矯正して手に入るものなんて達成感くらいだ。
そんなものは自己満足にしかならない。
費用対効果が低い。
ぼくは自分のことをそんなに嫌いではないが、自分の自己満足のためにそこまで躍起にはなれない。
そういうのは、漫画で読むくらいがちょうどいい。
それにしても、本当に変わらない。
四年前から時間が止まっているんじゃないかとすら思う。
ぼくは成長という観点で見れば変わっていないかもしれないが、考え方や見た目はいろいろと変わった。
ここに戻ってくる前に一年だけ通った高校では、クールキャラを貫くことでやり過ごしてきたし、身長も伸びた、身だしなみだって多少気を使うようになった。
だから、あの頃とはいろいろ違う。
――あの子も変わったのだろうか。
長い黒髪と、少し目尻の上がった猫目。
無口な子だった。
いや、話しかけたことなんてないから、それはただのイメージなんだが。
ぼくのイメージでは、お嬢様然としていて清楚で大人しめな女の子だ。
しかし、話したことはないから、もしかしたら、不潔系ギャルな可能性もある。
どうでもいいけど、不潔系ギャルって言葉の異様さは異常。
というか、あれだけずっと同じ場所にいたのに、なにも知らないんだな。
どこの学校に通っているのかすら知らない。
ちなみに、ここはぼくが知っている中で一番田舎という名詞が似合っているが、それでも、九割田んぼで家がぽつぽつとあるだけの集落とういうわけではないから、学校はいくつかある。
ぼくの学校は北高と呼ばれている高校だ。
まあ、あれだけずっと、なんて言っても、毎日顔を合わせていたわけじゃないけど。
思えば、あの子と会えたのはあの公園でのみだった気がする。
本当に生活圏が違うのだろう。
ただ、あの公園だけがぼくの生活圏と被っていたのだ。
そういうことはままある。
これだけ多くの人間が住んでいるのだから、ありえないということがありえない。
彼女のことを考えてみると、ぼく自身はあの空間が特別だったから足を向かわせているわけでも、ましてノスタルジックな気分に浸りたいなんてわけでもないのだということが分かってきてしまった。
あの子は今もあの公園にいるのだろうか。
この町を去る最後の日曜日、あの子は公園に現れなかった。
だから、どちらかと言えば、いないだろう可能性の方が高い気がする。
――会いたい。
今、ぼくの心を占めているのは、それだけだった。