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ぼくだけを見つめてくれたきみを  作者: 夢兎
第二章 会話のない空間に表情は生まれない。
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九、紫苑 六月二日(日)十七時十分


 静かな公園内を歩く。

 ……来週か。

 気が重い。

 こう何度も阻まれてはやる気も削がれるというものだ。


 今日の夕飯はなんだろうか。

 暗くなった気持ちを無理矢理にでも明るくする。


 オムライスか?

 転入したときに好きな食べ物はオムライスと言ったが、あれは本当だ。

 特にデミオムライスが好きだ。

 卵がふわふわでとろとろだと尚良し。


 オムライスほど美味しい食べ物をぼくは今まで食べたことがない。

 いや、ぼくの家が貧しいとかじゃなくて。


 オムライスは至高だなーと思いながら入り口の右端へと向かっていく。

 そして、あと一歩で公園から出るというところで、目の前に人が現れた。


「――え」


 驚きで身体を硬直させてしまうが、それはすぐに解けた。


 なぜなら、その急に現れた人物は走っていたらしく、ぼくに勢いよく衝突したからだ。

 押し倒されるように態勢を崩した身体は、反射的に衝撃を和らげようと動く。


「あっ!」


 驚愕の声を発したのはぼくにぶつかった人物だ。

 声が高いことから察するに女性なのだろう。


 というか、これが誰なのかは最初から分かっていた。

 ぶつかったということは、この女性は公園に入ろうとしていたということになる。


 この公園に来るのはぼくの知る限りでは二人だけ。

 ぼくと彼女だ。

 つまり、この女性こそは彼女だということになる。


 訪れるであろう痛みに咄嗟に目を閉じたぼくは、押し倒されながらそんなことを考えていた。


 身に危険が迫っているというのに、なにを考えているんだという話だが、他者から見れば危険なこの事態はぼくにとってなんら危険を感じるものではなかった。


 美少女に押し倒されるだなんて、まさかぼくの人生でそんな物語じみたイベントが起ころうとは。

 恐怖より幸福が圧倒的に勝っていた。


 ミリタリー? 恐竜? オーパーツ? スーパーカー? ロボット? ヒーロー?

 そんなものは糞食らえ。

 これぞ男の浪漫。

 これが分からない奴をぼくは男だとは認めない。

 絶対にだ。



 どうしようもない思考を終わらせると、背中に痛みが走る。

 意外と痛い……。

 鈍痛を味わいながらも起こせない身体は起こさない。


 無論、起こせないのは、ぼくの上に彼女が仰向けにのしかかっているからだ。

 のしかかるって言うとなんだか失礼だな。

 なんだろ……、まあなんでもいいや。


 とりあえず――待っててよかった。


 いつも通りに帰っていたなら、ぼくと彼女は今日も会うことはなかっただろう。

 本当、人生なにが起こるか分からないものだ。


 もう、今日会えたというだけで満足してそそくさと帰ってしまいたい心持ちなのだが、しかし、そういうわけにはいかない。


 彼女がなぜ今になって現れたのかは謎だが、これはチャンスだ。

 流石にぶつかってなにも話さないということはない。

 ぼくから話しかけるにしろ、彼女から話しかけられるにしろ、なにかあるだろう。


 いや、もういっそのことぼくから話しかけると決めよう。

 最初からそのつもりだったのだ。

 今更、出来ないとは言わない。


 それにしても近い。


 別に自覚的に触っているわけではないが柔らかい。

 全身がだ。


 別に決してやましい気持ちで言っているのではなく、女の子の身体は柔らかいという言説は本当だったんだなあと思っただけだ。


 別に着痩せするタイプだったのかとか一ミリも考えちゃいない。


 別に嗅いでいるわけではないが、なんかいい匂いがする。

 汗をかいているようだが、そんなのは瑣末なことだ。


 ……別にを濫用し過ぎた。


 なんて声を掛けようか。「大丈夫ですか?」とかか?

 まあ、なんにせよ退いてもらわなければ話にならないので、黙って待つことにする。


「ご、ご、ごめんなさいっ!」


 耳がキーンとなるくらいの大音量だった。

 思わずくらっとする。

 横たわっているので問題はない。


 全く惜しいとか思っちゃいないが、彼女が謝罪とともにぼくから飛び退いたので、ぼくもゆっくりと身体を起こす。


「ごめんなさい! ごめんなさいっ!」


 信じられないスピードで謝罪とお辞儀を繰り返す。

 声が遅れて聞こえてくるレベルに到達しているような気すらする。


 圧倒されそうになるが、(なんか色々と存分に堪能してしまった身としては)罪悪感が半端じゃない。


 なんだこれ、ぼくは今まさに断罪されてるのか?

 数秒前の自分を省みる。

 間違いなくギルティだった。


「い、いや、えっと……」


 とにかく謝罪を止めようと、言いながら一歩近づくと、彼女は一歩後ろに下がった。


 ……え?

 なに今、もしかして避けられた?

 まさか心が読まれていたとでも?

 ハハ、そんなわけ。


 もう一歩寄る。

 彼女は一歩後ろに下がる。

 ……詰んだ。


 ぼくが絶望に打ちひしがれていると、それを察したのか、彼女が慌てて言葉を噤む。


「あ、えっと、その……そういうんじゃなくて」

「……いいんだ」


 同情も慰めもいらない。

 罪を犯したのはぼくだ。

 ぼくは今日という思い出を胸に残りの人生を力強く生きていける。

 今ならなんだって出来る。


「ほ、本当に、違くて! そ、その、汗……かいてるから」

「なんだ、そんなことか。……あ」


 やべえ。

 口が滑った。


「そ、そんな? え、でも、あの、わたしが気になる、から」


 そりゃあそうだ。

 なにをわけの分かんないこと口走ってるんだぼくは。

 バカか。


「あー……、うん。えっと、大丈夫? その、怪我とか」


 ぼくが話題を逸らすと、彼女は両手を胸の前で忙しなく動かす。


「う、うん。うん、全然! 大丈夫っ、です。その、本当にごめんなさい。……お、重かったよね?」

「いや全く」


 自分でも驚く速度での返事だった。

 もはや反射に近い。


 その完全否定に、恥ずかしそうに俯いていた彼女は、驚きを顔に浮かべてぼくを見つめる。

 そんなじっと見つめられるといささか居心地が悪い。

 それとなく視線を外すと、彼女は微かに頬を赤らめて視線を落とす。


 その仕草はかわいらしいが、沈黙は凶器だ。

 このままでいては、また明日からは元通りな可能性が高い。

 折角ここまで来たのに、そんなのは困る。


「なんか、急いでたみたいだけど……忘れ物でも?」


 全くそんなものがあった記憶はないので、十中八九違うだろうが、しかし意味のない会話だろうがなんだろうが、今はしなければ。


 そう思って訊いたのだが、どうやら選択肢を間違えたらしい。

 彼女は辛そうに下唇を噛んだ。


「い、いや! 言いたくないなら無理に言わなくてもいいんだけど」


 ぼくがそう言うと、彼女はなにか決意をしたような瞳をぼくに向けて、ゆっくりと首を振った。


 そして、消え入りそうなほど小さな声で、


「あ、あなたに会いたくて……」

「え?」


 聞き間違いだろうか。

 いや、彼女の顔がさっきよりもさらに赤くなっていることから判断するに、それはない。

 彼女は間違いなく、ぼくに会いたかったと言ったのだ。


 そ、それはつまり……と、ぼくが結論を導き出す前に、彼女はぼくの期待を完膚なきまでに叩き潰した。


「ち、違っ! 全然、そういうのじゃなくて! 本当に!」


 分かってたさ。

 分かっていたとも、ええ。


 でも、なにもそんなに必死にならなくてもいいじゃないか。

 ぼくだって男の子なんだぜ?


「だから、その、つまり、あの……」


 そうじゃないとなれば、彼女の言いたいことはなんとなく想像がつく。

 まさかそんなことはないだろうと思っていたが、今、彼女とぼくが似たような気持ちを抱いている可能性は格段に上昇した。


 ……それを、女の子に言わせていいのか?

 ぼくはそれを受けたら「うん」と頷くだけだ。

 頷くだけの簡単なお仕事ですで終わらせていいものか……いや、ダメだよな、常識的に考えて。

 ぼくは大概クズだがそのくらいは分かる。


 ならば、やるべきことは一つしかなかった。


「――ぼくと、友達になってくれないか?」


 よもや、十六にもなってこんな台詞を吐くとは思いもしなかった。


 だが、まあ――今まで話してこなかった代償だと考えれば安い。

 こんな台詞一つで、彼女の満面の笑みが見られるのなら、いくらでも吐こう。


 会話のない空間に表情は生まれない。

 ついさっきまでぼくが知っていた彼女の顔は一つだけだった。

 それが、この数分で数倍。

 これ以上の達成感が他にあるだろうか?

 いや、ない。


 ずっと失うのが怖かった。

 壊すのが恐ろしかった。

 もちろん、こういうことばかりではないことなんて十全に知っている。

 人生、嫌なことばかりだ。


 けれど。


 それでも。


 こうしてなにかが生まれ、なにかを得られたのなら、ぼくはもう少し前向きに生きていけると思う。


「うんっ」


 彼女は笑顔のまま、そう答えた。



 ようやく、止まっていた時間が動き出す。


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