新釈・桃太郎
かつて天地が隔たれていなかったころ、天帝の治める常世国には始末に負えない乱暴者がいた。この者の狼藉はとどまるところを知らず、剣術指南を受けた自らの師を斬り殺し、千人力を授ける梨園の果実を残さず平らげるなど、傲岸不遜の限りを尽くしていた。
だが、天帝の怒りを買う直接の原因となったのは、帝からもっとも厚い寵愛を受けていた女官の操を奪ったことである。天帝の怒りは三日三晩収まらず、絶えることなく雷鳴が轟き、常世国は暗闇に包まれた。
かの者は天帝の裁きを逃れて軍勢を率い、開闢以来初めての反乱を起こす。だが、その蜂起は奏功することなく、ついに捕えられると、その身にふさわしい咎を宣告された。彼は記憶を奪われ、常世国に生える巨大な桃のなかに封ぜられて逆行する時間のなかで胎児まで遡ったのである。
やがて幾劫かが過ぎたころ、熟した桃は天地を結ぶ蓬莱山の山頂に落果し、転がりながら川へ落ち、そのまま流れゆく。羊水の詰まった桃は、川の流れとともに世にも不思議な音色を奏でたという。
咎人が放逐された地上の川べりにはさる夫婦が暮らしていたのだが、その前に当時の地上を説明しよう。
地上には魑魅魍魎が跋扈し、悪鬼羅刹に天狗の類、河童や大入道といった異形の者たちに脅かされながら人々は暮していた。とりわけ西国で猛威を振るっていたのが、鬼が島と呼ばれる孤島を根城にした大鬼の軍勢である。
鬼どもは身の丈一丈はあり、側頭部からは牛の角が生え、口のなかには乱杭歯が覗く恐ろしい形相をしており、淀んだ黄土色の三白眼に睨まれれば、いかなる武士も身がすくんだ。しゃがれた声は大地を揺さぶり、滴る血のような赤い皮膚はヤスリのごとく荒々しい。
このような輩が手当たり次第に船を奪い、人を殺し、女を奪っていたのだからたまったものではない。人々は鬼の悪行におびえていたのもむべなきことである。
さて、夫婦に話を戻すが、二人はつつましやかな生活を送っていた。豊かではないものの、食うに困ることはない。ただひとつだけ、夫婦の間で悩みの種があるとすれば、長年子どもを授かることができなかったことである。こればかりは天命の定めるところとして、二人はただ毎日の幸福を享受していた。
その日、夫は山へ柴を刈りへ行き、妻は川へ洗濯をしに行った。
妻は川のたもとに腰を下ろし、洗濯板にゴシゴシと夫の着物をこすり付ける。彼女はふと手元を止め、せせらぎに日の光を受けてきらきらと輝く川面をぼんやりと眺めた。
“なぜなのかしら……”
いくら天命の定めるところとはいえ、肉体的には健康そのものであるはずの夫婦に子どもが授からないことは、時として、妻の心のうちにほの暗い影を作り出した。心優しい夫は彼女を責めたてるようなことはしないが、その気遣いがかえって自責の念を抱かせたのである。
ため息をひとつつき、妻が洗濯を続けると、やがて彼女の耳に不思議な音色が聞こえてきた。
どんぶらこ~どんぶらこ~
いままでに聞いたことのない、どこか心が落ち着くその音色は彼女の視線を自然と川上に向かわせる。やがて、妻は上流から川の流れに合わせて揺れながら流れくる巨大な桃をその目にとらえた。
なぜなのかはわからない。だが、その乳白色がかった異様な大きさの果実を目にした瞬間、彼女の体は水らかの意をくむ前に動きだし、しっかりとその桃を全身に受け止めていたのである。ずっしりと重い桃を川から引き上げるのは一仕事だったが、不思議と体の底から力がみなぎる。妻の腕の中に収まった桃は、まるでうっすらと光り輝いているようだった。
山から帰宅した夫が、自宅に巨大な桃がある光景を見て驚いたのは言うまでもない。妻の説明はあまり要領を得なかったが、ひとまず夫はその正体を確かめるべく、桃を割ることにした。
包丁の刃はほとんど手ごたえもないまま、桃の皮を破り、果肉に吸い込まれていく。そして、刃が桃の半分ほどまで進んだところで唐突に桃はひとりでに割れ、なんと、なかから玉のような男の赤ん坊が、けたたましい鳴き声を上げて生まれ出でたのである。
夫はできたばかりの豆腐を持ち上げるように、恐る恐るその赤ん坊の体を抱き上げ、妻と目を合わせた。彼女の瞳には戸惑いとともに、隠しきれない歓喜の色が浮かんでいる。その感情は、いくばくか戸惑いのほうが大きかったものの、夫も同じである。
ふたりはすぐに、その赤ん坊を自分たちの子どもとして育てていくことを決めた。そして、「桃から生まれた」という、ただそれだけの安直な理由で、その子どもを“桃太郎”と名付けたのである。
月日は流れ、桃太郎は筋骨たくましい青年に成長した。
背丈はあっという間に父を追い抜き、毎日の畑仕事で培われた肉体は壮健の一言に尽きる。科目がちではあるが純朴な性質で、すでに近隣の村からは嫁取りの話も出ていた。まさに、夫婦にとっては自慢の息子となっていたのである。
だが、当の桃太郎本人にとって、そうした日々の暮らしは満ち足りたものとはいえなかった。
いったい何が不満なのか、桃太郎本人もわからない。心優しい両親とともに平穏な暮らしを送ることが「幸せ」であることは彼も重々理解していた。しかし同時に、そうした生活では決して満たされない思いが胸のなかで沸き立ち、その気泡が時折彼の心の表面をかき乱したのである。
その日、いつものごとく山に柴を刈りに行った父を見送り、桃太郎はひとり畑仕事に精を出していた。大きな葉を青々と生い茂らせる大根も、そろそろ収穫の時期である。畑のわきに腰を下ろしながら収穫をいつにするか思案していると、不意に、彼に語りかける声があった。
「今日、収穫してしまったほうがいいですよ」
驚いた桃太郎が少し身構えて振り向いたが、そこに人影はなかった。ただ、一匹の白い犬がちょこんと礼儀正しく座り、桃色の下をヘラヘラと揺らしていたのである。犬は続けた。
「明後日あたりから、しばらく雨になるでしょうから」
「驚いたな。天気がわかるのか? それに、心も読めるのか?」
「鼻が利きますからね。西の空からかすかに雨のにおいがします。心を読むのも、においをよくかいでいればわかることですよ」
ほう、と桃太郎は感心し、座る向きを変えて犬と正面から向き合った。
「天気がわかるなら、農民はみな犬を飼うべきだな。しかし、お前のように天気について助言してくれる犬がいるという話は聞いたことがない。お前はほかの犬より優秀なのか?」
「ほかの犬と同じかと問われれば、『少し違う』というのが答えですね。ただ、鼻の良さならほかの犬も大差ありません。誰も犬に尋ねないから、答えないだけのことですよ」
「なるほどな」
桃太郎は小さく笑った。
「それで、お前はなぜ、聞いてもいない俺に天気を教えてくれるんだ? 飼い主はいないのか?」
「主人はあなたです。桃太郎殿」
「それは今日から、という話か? 悪いが、俺の独断ではおまえを飼ってやるという判断はできないよ。父さんと母さんに相談せねば」
「いいえ。もっと以前から、あなたは私の主人です。私はそのことを、一日たりとも忘れたことはありません」
「おかしな話だな。俺は犬の世話をしてやった記憶はないぞ」
「それはあなたが忘れているだけの話です」
犬畜生の言葉とはいえ、なぜか、桃太郎には犬がウソやでたらめを言っているようには聞こえない。黒目がちな瞳は、しっかりと桃太郎を捕らえていた。
「不思議な犬だな、おまえは。なにが目的だ?」
「私とともに旅に出てほしいのです。鬼が島に救う鬼どもを退治する旅に」
「鬼……」
桃太郎も、うわさには聞いたことがあった。遠くの海に鬼が島という島があり、そこに住む鬼どもが人を襲っているということを。
「俺は武士じゃない。刀も握ったことがない。鬼は人知を超えた力を持つと聞く。とても俺のような農民が出向いて太刀打ちできるとは思えないな」
「それは問題ではありません。私が力になりましょう。なにより――」
反論しようとした桃太郎の声を抑え、犬は続けた。
「あなた自身が、“鬼退治”に強い興味を抱いているのではありませんか?」
桃太郎は犬のその言葉を、肯定することも否定することもできなかった。
“鬼退治”という言葉を聞いた瞬間、彼の心の中で泡立っていた小さな気泡が一気に大きくなったのは事実である。体中を流れる血が、速度を増していくのが感じられた。だが、そうした自らの変化が何を意味するのか、桃太郎にはわからなかったのである。
「明日、出発しましょう。だから、大根は今日中に収穫してください。大丈夫です。どの大根も、もうしっかり育ち切っていますよ」
桃太郎の心の奥底を見透かしたような犬の瞳を、桃太郎は食い入るように見つめた。
「お前は何者だ? どこからきた?」
「それは、いずれ語りましょう。それと、もうひとつ、お願いがあります」
犬はすっと立ち上がった。
「出発に際し、なにか、食べ物を私に下さい」
「食べ物?」
「そうです。なんでも構いませんが、なにか、旅の間も携帯できる食べ物を持ってきてください。私は、あの林を抜けたところで待っています。そこで、私に食べ物をください」
犬はそれだけ言い残すと、桃太郎に尻を向けて林のほうへ歩いていく。歩みに合わせてフサフサと揺れる尻尾に桃太郎はなにかを問いかけたかったが、その思いは言葉にならなかった。
その夜、唐突な桃太郎の決意表明に、父母が当惑したのは言うまでもない。母は涙ながらに彼の決意を押しとどめようとしたが、いかなる言動をもってしても、鋼のように固い桃太郎の意思は変わることがなかった。
母親は涙でほほを濡らしながら、観念したように言った。
「これも、お前の宿命なのかもしれませんね。桃は魔を祓うといいます。きっとあなたは、天帝が遣わされたに違いありません」
「母上、どういうことですか?」
母親はこれまで語ることのなかった桃太郎の出生を語った。自らの腹を痛めた子ではないとはいえ、間違いなく、彼が自らの子どもであることを告げることも忘れなかった。
桃太郎は囲炉裏の前で居住まいを正すと、これまで自分を育ててくれた両親に深々と頭を下げた。
「父上、母上。これまで育ててもらった御恩を、お返しせぬ親不孝をお許しください。私は鬼が島へ行きます。これが、今生の別れとなるやもしれません。しかし、いただいた名を決して汚すことのなきよう、私は、戦ってまいります」
桃太郎は床に額をこすり付けながら、熱い目頭を押しとどめるようにして、強く歯を食いしばったのだった。
翌日、約束通り、林を抜けた場所で犬と合流した桃太郎は、母親から手渡されたきび団子をひとつ差し出し、犬にくれてやった。
「これで私は、あなたの臣下となりました」
「そうか」
犬の顔からは表情がうかがい知れなかったが、尾は静かに揺れていた。
「しかし、鬼退治に行くのはいいが、私は刀の一本も持っていないぞ。鍬くらいは持ってくるべきだっただろうか」
「必要ありませんよ」
何を根拠に犬がそう言うのかは全く分からなかったが、とりあえず桃太郎は歩みを続けた。
やがて、道が山に入り険しくなった頃、桃太郎と犬が歩いていると、木の上から声が聞こえてきた。
「おうい、あんたが桃太郎さんか」
桃太郎が答えると、彼らの目の前に一匹の猿が降りてきた。猿はまじまじと桃太郎の顔を眺め、ふと彼のそばにいる犬に気づくと、目をしばたたかせた。
「猿、何の用だ?」
桃太郎が尋ねると、猿は当然のごとく答えた。
「鬼退治に行くんだろ。俺もそれについていくっていう話さ」
「なぜ私が鬼退治に行くと知っている?」
「知ってたさ。ずーーっと前からな。ともあれ、なにか食い物をおくれよ」
「猿!」
ここにきて、お供の犬が大きな声を上げた。やや昂ぶった声である。桃太郎からきび団子を受け取った猿はさっさとそれを飲み込むと、鼻をほじった。
「主君となるお方になんという口の聞き方だ。貴様は相変わらず礼節というものを知らぬ」
「貴様は相も変わらずクソがつくほどの真面目だな」
桃太郎は犬と猿が顔見知りなのか尋ねたかったが、しまいには猿が桃太郎の肩に飛び乗り、飛びかかろうにも桃太郎相手には飛びかかれない犬を馬鹿にし始めたのに対抗して犬が吠えたけったものだから、それどころではなかった。
それはさておき、桃太郎は新たに猿を家来に召抱え、鬼退治の旅を続けたのである。
やがて、桃太郎と2匹のお供が山をいくつか越え、川を渡って松林の中を歩いていると、一羽の雉が彼らの前に舞い降りた。
「お待ち申しておりました。桃太郎様ですね」
「そうだが、お前も私の供になりたいのか?」
「左様です。もちろん、お腰のきび団子を頂戴できればのお話ですが」
そう言って、雉は桃太郎に頭を垂れた。
「きび団子をやることくらいかまわんが、なぜお前たちは、そうまでして私を手伝うのだ? きび団子一つで鬼退治では、到底割りには合わんぞ。命を落とすやもしれぬのに」
雉はふと桃太郎から視線をはずし、犬と猿を見やった。(猿は立ち寄った村のどこかからかっぱらってきた酒を飲んで、犬の背中の上で大いびきをかきながら寝ていたが)
「私どもは、桃太郎様に多大なご恩があります。そのご恩に報いるため、戦地へ赴く桃太郎様のお力となることを自ら望んで、ここにいるのです」
「だが、私は犬や猿や雉を助けたことはないぞ。物覚えのいいほうではないかもしれないが、これは確かだ」
雉はかぶりを振った。
「いいえ、あなたはただ忘れているだけなのです。しかし、いずれ思い出しましょう。案ずることはありません。さぁ、この松林を抜ければ、海の向こうに鬼が島が見えてきます」
雉が先頭になって飛び立ち、桃太郎は導かれるようにして松林を進む。やがて視界が開けると、彼らの眼前には紺碧の大海が広がり、3里(1里は大体3・9km)ほど離れた場所に、黒々とした島が見えた。木々は生えておらず、岩肌がむき出しになった殺風景な島である。
「あれが鬼が島です。しかし、真昼間に攻め入るのは下策。日暮れを待ちましょう。さすれば、海賊業を行っている鬼どもも返ってくるはずです」
雉の提案に従い、桃太郎は夜襲に備えて眠りにつくことにした。なにか、不思議な景色に囲まれる夢を桃太郎は見たが、目が覚めたとき、その内容はよく覚えていなかった。
日もとっぷりと暮れ、あたりは夕闇に包まれた。砂浜に打ち寄せる波の音だけがあたりに響き、黒々とした海はまるで大きな魔物のような不気味さである。
だが、そうした海の暗さを映えさせるのが、鬼が島から上がる赤々とした炎の光だった。それはさながら、死者の魂を乗せる幽霊舟のように見えた。
「そういえば」
桃太郎はあることに気づいた。
「船がないぞ。これでは鬼が島に行けない」
「心配召されるな、桃太郎様」
そう言ったのは雉だった。
「すでに猿が近くの漁村から適当な小船を盗ってくるでしょう。ほら、来ました」
「おうい」
猿の声がする。見ると、真っ黒な波に揺られながら小船が一艘、桃太郎と雉の元にフラフラとやってきた。舵を取っているのは猿である。船には犬も乗っていたが、様子を見ると、どうやら船酔いをしているようだった。
「さぁ、それでは鬼退治と参りましょうぞ」
雉は翼をはためかせながら小船の端にとまる。桃太郎も波を切りながら、小船に転がり込んだ。
風はさほど強くなかったが、船は大きく揺れる。やがて、鬼が島から半里ほどまで近づいた海の中腹で船は止まった。このあたりまで近づけば、鬼どもの声が聞こえるようになる。どうやら、彼らは酒盛りでもしているようだった。
「さて、桃太郎様。ここからは桃太郎様がご自身で櫂を取らねばなりません」
突然、雉からそのように申し渡され、桃太郎は困惑した。
「どういうことだ?」
「猿はもう、櫂を漕ぐことができないからです」
そのとたん、猿の体が金色にまばゆく輝きだす。眩むようなまばゆさに、思わず桃太郎は腕で目を覆った。
やがてその光が消え、桃太郎が恐る恐る目を開くと、さきほどまでそこにいた猿の姿はきれいに消えている。そして、桃太郎は知らぬうちに、立派な鎧を全身に身に着けていた。
「どういうことだ! 猿はどこへ消えた!」
驚く桃太郎の問いかけに答えたのは、彼が身にまとった鎧だった。
「俺はここだ。桃太郎さん」
桃太郎の鎧となった猿の声は、どこかくぐもったようなものになった。
さらに、今度は船酔いのために半身を船の外に放り出していた犬の体が光り始める。今度は薄目を開け、桃太郎は犬の姿を視界から離さないようにした。すると、犬の体は次第に小さく、細くなり、光の筋となって桃太郎の腰の辺りに飛び込んできたのである。
光が消えたとき、犬の光が飛び込んだ場所には、大振りな刀が螺鈿によって美しく彩られた鞘に収まって吊り下がっていた。
「この刀は、犬か?」
今度は刀が答えた。
「左様です、桃太郎殿。まだ若干具合は芳しくありませんが、まぁ問題ないでしょう」
最後に、雉の姿が光に包まれる。雉の体はみるみる大きな弓と矢筒になったのである。
「さて、桃太郎様」
弓矢となった雉がやはり少しくぐもった声で、桃太郎に語りかけた。
「これより戦略を申し伝えます。まずはこのまま、私を使い、弓を鬼が島の上空に目がけて射てください。その後、すぐに船を漕いで鬼が島に上陸し、刀で鬼どもを殲滅すればあなたの勝利です」
「それは、戦略と呼ぶほどのものなのか?」
桃太郎が尋ねると、雉は涼しい声で答えた。
「鬼が島を陥落させることなど、桃太郎様にとっては赤子の手をひねるようなこと。戦略らしい戦略など用いるまでもないということです」
腑には落ちない桃太郎ではあったが、すでに腹は決まっている。これまで弓矢など打ったこともないが、彼は鬼が島の上空目がけて、「ままよ」と中空に矢を放った。
風を切りながら弓矢は闇夜に吸い込まれるようにして飛んでいく。やがて、山なりに角度を変えたところで放たれた弓矢は光り輝き、数え切れないほどの光の矢となって鬼が島に降り注いだのである。赤いほむらを点す岩の島に細かな光が降り注ぐさまは、さながら線香花火を逆さに見ているようであった。
「さあ桃太郎殿、行きましょう!」
犬の声でわれに返った桃太郎は、櫂を漕ぐ。桃太郎が鬼が島に上陸すると、つい先ほどまで鬼どもが宴会をしていた場所は死屍累々の惨状となっていた。
筋骨隆々の赤い体は、いまや自らの血でじっとりと濡れている。いまや、鋭い牙の生えそろう恐ろしい口から聞こえるのは、苦しみにもだえるうめき声だけだった。
あまりの凄惨さに、桃太郎は立ちすくむ。
その隙だらけの桃太郎の後ろから、弓矢の強襲を逃れた鬼が襲い掛かったが、その巨大な金棒が獲物を捕らえることはなかった。桃太郎の体は彼自身が意図しないうちからその攻撃を察知し、身をひねって回避すると同時に居合いで鬼を一刀両断したのである。
桃太郎が驚いたのは、意図せずに俊敏な動きをする自らの体だけではない。鬼を一太刀で切り伏せた黄金の刀は、あろうことか鉄で作られた巨大な金棒をも真っ二つに切り分けたのである。それでいて、刃こぼれしている様子は微塵もない。まさに恐ろしいほどの切れ味だった。
そして、桃太郎は胴体から切り離され、苦悶の表情を浮かべる鬼の顔と目が合った。
異形の者である鬼の顔に浮かぶその怨嗟、そして流れ出るおびただしい血は、天帝によって封ぜられていた彼の記憶を呼び起こすには十分すぎるほどの引き金だったのである。
「オォォォォォォオオオオオオッ」
全身の血潮が激しく逆流を始めるような感覚にあらん限りの声を発する桃太郎の叫びは、怒りに打ち震えていたはずの鬼どもをも慄かせるほど、鬼が島中にこだました。
そしてその者は目覚める。まさに、生まれたばかりの赤子が誰に教えられるでもなく母の乳房から乳を吸うように、彼は金色の刀剣を用いて瞬く間に鬼が島の鬼どもを殲滅したのである。血飛沫さえも防ぐ鎧は、かがり火の下で一点の曇りなく輝きを保ち続けていた。
「……イヌキ」
「はい」
刀は光となって彼のもとを離れる。その光は、跪く人の形となって現れた。漆黒の髪を束ねた女である。
「マシラ」
「へい」
次に鎧が光へと変わり、人の形を成して跪いた。髪を短く刈り込んだ男である。
「キザシ」
「はっ」
最後に弓矢が、跪く人と変わった。長い髪を持つ男である。
「天へ、帰るぞ」
復讐に燃えた瞳で虚空をにらむ、彼の名はアシュラ。
やがて、この者はのちに「常世の黄昏」と呼ばれる、天地を隔てた災厄を引き起こすことになるのだが、それはまた別の話であるため、筆者はここで筆を置くことにする。
了