月待ち桜
横書きで読みやすいように修正しております。
横書きで読んでくださること推奨。
里桜が薄桃色の花弁を舞わせる頃。
山を覆う竹薮にぐるりと囲まれた小さな陽だまり。
静かな風に笹の葉の遊ぶその空間に、一際美しく、赤紫の葉を纏った桜の古木が在った。
山桜は一斉に花開き、同じくして葉を纏うものであったがいつの頃からか、その桜は春も終わりの頃、十三夜に蕾を持ち小望月、望月と花開き満月には絢爛豪華に咲き乱れ、決まって十六夜には一斉に花を散らすようになった。
そしていつしか人々は、その不思議な桜を、月待ち桜と呼ぶようになったのである。
近くには小さな祠があり何を奉られたのか、里のものは誰一人知らぬものの
山に入り、通りがかれば立ち止まり、道中の無事を願って手を合わせゆく。
年月は流れ、山は削られ、人が集まり村は町となった。
かろうじて残った竹薮はひっそりと桜の陽だまりを護り続けた。
少しずつ人の住まう場所は広がり、人も町も様子を変えてゆく中で、変わらずにその桜は月の満るのを待って咲く。
いつしかその桜の陽だまりにも、一人、また一人と童が集まり、暖かい日差しを受け、楽しそうに遊ぶ姿が見られるようになった。
日が暮れ始め、夕餉の支度に家々が暖かい煙を吐き出す頃になると、童たちはそれぞれの待っている者の所へと帰って行く。
その中に、いつも他の童らの輪より、少し離れて仔犬と遊ぶ幼い美童がいた。
美童は、気の毒なことに片足を少し引きずっていた。
仔犬は、黒毛で片方の耳だけが垂れている、とても賢い仔犬であった。
思うままに走り回れぬ美童の、代わりだとでも云うように
元気にいつも、美童の周りを駆け回っていた。
ところで、件の月待ち桜には、見目麗しい小姓姿の若い鬼が棲んでいて、古木の上で童らの声を聞きながら、うとうとと、微睡むのを近頃の楽しみとしていた。
この桜の古木は、もとより月を待って咲く習性があったわけでは無く、春の月の満ちるのを待って咲くのは、この若い鬼の仕業であった。
何故この若い鬼が、桜に悪さをするのか。
其れはまた、別のお話として……。
この鬼は静かであった昔よりも、今の在り様をまんざら嫌っては居らなかったので、美しい小袖をだらりと垂らしながら一番大きく張り出している枝に横になり時折うっすらと目を開けては、童たちの嬌声を聞いていた。
或日、日もとっぷりと暮れた、十三夜。
桜の木の下にあの、黒い仔犬がやってきた。
そして桜を見上げると、可愛らしい声で話しかける。
「鬼様、鬼様」
久しく、呼びかけられることなど無かった鬼はいったい何処の誰が我に語りかけたのであろうかと、下を覗き清らかな雨の雫の様に澄んだ声で応えた。
「漆黒の犬よ、我が鬼と知って声を掛けるか?」
「鬼様。いつも桜の枝から、おらたちを見てらした。お力のある鬼さまとお見受けして、お願げぇがありやす」
鬼は、この可愛らしい仔犬が高い枝を見上げ、まあるい黒い目を真っ直ぐに自分に向けていることに、少し嬉しくなった。
なので枝より降り、仔犬の頭を撫でてやろうとした。
仔犬は、頭の上に差し出された指に鋭い長い爪を見ると、恐ろしく思ったがお願い事がある身であったので表に出さぬ様、必死で堪え(こらえ)た。
鬼は頭を撫でながら、仔犬が震えているのを感じたが、その勇気を好ましく思ったので気づかぬ振りをした。
「願いとはなんじゃ? 鬼である我に、何を願う?」
「おらの、大事な友達を、助けてやってくだせぇ」
「お前の友達? それはいつも遊んでおる、あの童のことか?」
「へぇ、あの子のことでごぜぇやす。きいてくだせぇ、鬼様。実はあの子をわりぃもんがねらっておりやす」
「悪いモノ?」
「へぇ。先日、このお山を下りてから、ずっとわりぃもんが、あの子をつけねらっていやがりやす。さいしょは、くろい影みてぇなもんでやした。でも、だんだん大きゅうなってきて、ゆんべにはそらぁもぅ、おそろしげなでっけぇすがたになってまいりやした。まいばん、おらはずっとねずのばんをしてやしたが、もうちょっと、がんばれねぇかもしれやせん」
「お前……尾はどうした? それに、片方の耳は……?」
「あぁ、やっぱ鬼様だ。すげぇや、だれもきがつかねぇのに、ちゃんとおわかりになりやすか。毎晩おらがじゃまで、手が出せねえんで、わりぃもんは、腹いせにおらをかじって行きやがりやす」
「影を食われたか……。恐らくそれは、山で死んだ獣たちの悪い気が集まって出来た、魍魎のようなモノであろう。だからこそ犬が怖い。お前の様な仔犬であろうともな」
「そうでやすか? おらには、むずかしぃこたぁわかんねぇけども……。こんばん、またかじられちまっただ……。あの子をまもってやりたかったけど……。おらもう、いけねぇようなきがしやす…」
鬼は目の前の小さな仔犬を見つめた。
大切な友達と想うからこそ、我が身を喰われながらも、戦ったのか。
誰に知られる事の無い、孤独な戦いであっただろう。
――我と似ている……。
何故そう思ったのか、鬼は美しい眉根をひそめて、仔犬をそっと懐に抱いた。
そうして気づいた。
この仔犬はもう死ぬ。
魂をかじりとられ魂も魄も消え去ろうとしている。
「切ないのぉ……」
其れは誰に云った言葉なのか。
静かな笹の葉の揺れる音だけが、その声に応えた。
「鬼様……?」
「もうよい。あい解った。お前の願い、聞き届けたぞ」
「ほんとうでやすか。うれしやなぁ。よかったなぁ。おら、鬼様がいっつもやさしげにおらたちをみていてくださるのが、ずっとふしぎでやした。鬼はこえぇもんだって、わりぃもんだってじっちゃいぬがおらにいうです。けんど、おらはしってやす。鬼様が、わらしの凧さ、枝からおとしてやったり、このひだまりに、わりぃもんがこねくしてくださったり。おらはきっと、鬼様がたすけてくださるって、そうおもって……。よかったなぁ。やっぱり、きてよか……った……。おらぁ、まだうまれたばっかで、鬼様の桜がうんと咲いて、いっぺぇ風に舞う中をあのこと走ってみたかったけども……でも、おらとってもうれしいよぉ……」
張り詰めた糸がゆっくりと解けるように、仔犬の声が弱くなってゆく。
鬼は、仔犬を抱きしめて泣いた。
こと切れてもまだ温かい仔犬を抱いて千年も流すことのなかった涙を零した。
それから、ゆっくりと桜の根元に仔犬を寝かせると、天に指を掲げた。
その瞬間、蕾もつき始めたばかりであった桜が、一斉に咲き乱れ、一陣の風と共に花弁を吹雪の如くに巻き上げる。
花弁は、はらはらと螺旋を描き、小さな骸に降り積もる。
その様子をしばらく眺めたあと、若い鬼は天を睨み両腕を掲げる。
一転にわかに掻き曇り、暗雲が空を闇に変える。鬼は空を駆け上がり、黒雲に乗って里へと翔け急ぐ。
空より見下ろすと、鬼の目には、小さなあばら家を覆う禍々しい気の塊が見えた。
邪魔だてした仔犬の魂をすっかり喰らって、その気は大きく膨らんでいた。
人の目には見えぬであろうその邪悪なものは、家を包み込み、中の童を今まさにとって喰らおうとしている。
だがしかし、鬼から見れば卑小な瘴気の塊である。
鬼の神通力を持ってすれば、ひとかたも無くそれは消し飛び、無に返る。
だからこそ腹が立った。
なぜもっと早く、自分を頼ってこなかったのか、なぜ自分は気づかなかったのか。
こんな卑しいモノのために、消えていった小さい命が、惜しまれてならなかった。
怒りに震え、拭いきれぬ悔しさに涙しながら
鬼はほんの僅かの力で、その邪悪な気の塊を吹き飛ばす。
風を呼び、空を翳らせ、森羅万象に及ぶ力の内の、ほんの僅かで。
人は皆まだ寝静まり、何事も無かったような里を後にして、鬼は桜の木に戻った。
そして、桜の花弁がこんもりと山になった中に手を差し入れ、其処からもう冷たく硬くなってしまった骸を取り出す。
鬼は、両の手で仔犬の亡骸を掴み、瞳を閉じて額を仔犬の腹に当て、なにやら口の中で唱え始める。
そしてそのまま、鬼自身の胸に強く押し付ける。
すると、驚いたことにその仔犬の骸は鬼の身体に静かにゆっくりと、取り込まれていく。
鬼は苦しそうにきつく目を閉じ、眉を寄せ、唱え続ける。
と、次第に鬼の身体がぼんやりと光に包まれ、さらに大きく輝きを広げてゆく。
光は桜を、竹藪を、山をも包み込みやがて、また潮が引くように小さくなると終いには鬼の胸だけが、ぽうと光り続ける。
その光は鬼の喉を上がり、やがて鬼は天を仰ぎ、大きく口を開ける。
紅く紅をひいたかのような形のいい唇の端より、鋭い牙がチラリと白く輝く。
やがて、ぽっかりと開いた口の喉の奥から、光の玉があがってきたかと思うと
そのまま口より出て、空中に留まった。
鬼はその、輝く光の玉をとって、大切そうに掌で包む。
そして優しくそして厳かに語り掛ける。
美しい声で。
「愛しきモノよ。お前の勇気と行いは、お前のささやかな願いだけではとても報いきれぬ。お前に、我の命の欠片を分け与えよう。再びこの世に生まれ、友を護り抜き、桜の花の舞い散る中を思うが侭に走り行くが良い。幼くして、果たせなかった夢を、七生のうち必ず果たせるよう、幾度と無く生まれ変るが良い」
輝く黒い玉は鬼の言葉が終わるとともに、姿を消した。
「果たせぬ夢…か」
小姓姿の若い美しい鬼は、寂しげにそう呟くと、ゆるゆるとまた桜の枝に登り、朝焼けの日を眩しそうに目を細め、小さなあくびをして
うとうとと眠りについた。
その日鬼は、心持ち身を小さくして、何かに縋るように眠った。
月待ち桜はシリーズでショートストーリーを書き溜めております。