愛猫を捨てろと言われたので、婚約者を捨てることにしました
紅茶を一口飲み下して、私の婚約者、ジェイムズは深くため息を吐いた。
「あらどうしたの?」
ジェイムズがこういう態度を取るのは話を聞いて欲しい時だ。声をかけると、やれやれと言わんばかりに口を開いた。
「君も知っているだろう?なかなか上手くいかない商談があってね…。」
知っているけれど、私はあれを良く思わない。
今まで聞いたことのない卸業者が出てきて顧客を獲得しようと動いているらしい。商人の世界では新たな業者が生まれては消えていくので、今回もそれだとは思うけど、ジェイムズはその卸業者に拘っている。
「他にも取引先はあるのだから、拘らなくても良いんじゃないかしら?それに、もうすぐブルーノ様が帰って来られるのだから、相談してからでも…。」
「兄の話はやめてくれ。」
私の提案をぴしゃりと拒んだ。
ジェイムズの兄であるブルーノ様は隣国と親密な関係を築くための使者として抜擢され、留学されている。もうそろそろ帰国される予定だ。
「事あるごとに突っかかってきて、兄にはうんざりなんだ。絶対に頼らない。」
ジェイムズはブルーノ様に引け目を感じているのか、名前を出すと意地になってしまう。二人のご両親は兄弟で家業を繁栄させることを望んでいると思うのだけれど。
「君は分からないかも知れないが、あの商談は間違いなく利益になる。こんなに俺の勘が働いたことはないよ。…これさえ成功してしまえば、晴れて君を迎えられるのに。」
そう言って、切ないような困ったような顔を私に向ける。
実際に、困り果てているのだろう。ジェイムズの家はもともと商家で成り上がりの貴族だ。ジェイムズのおじい様はそれは優秀な商人で、陛下の覚えめでたく男爵位を賜った。それに負けずジェイムズのお父様も、隣国との新しい流通ルートを開拓された。ブルーノ様も言わずもがな優秀な後継として評判が高い。
一方、ジェイムズは平凡だ。飛び抜けた才能も度胸もない。優秀なご家族に囲まれて劣等感を覚えているのは理解できるし、力になってあげたいと思う。
でも平凡は悪いことではない。諦めずコツコツ努力すれば必ず報われる。そう思うのに、ジェイムズは大きな一発だけを狙っている。
これから先は長いのだから、まだ焦るには早いと思うのに、どうしてもブルーノ様が帰国されるまでに手柄を上げたいのだろう。
焦っては何も良いことがないと伝えても、「君は商売のことは分からないだろう」と言われる始末。もう私の声は届かないのねとこっそりため息を吐いた。
そんな私に気付かないジェイムズは、私との新婚生活を夢想する。
「君との生活は素敵だろうな。新居には選りすぐりの家具を置こう。新婚にふさわしく、全て新しい物で始めよう。」
ワクワクと瞳を輝かせる純粋なところは可愛いなと思う。子供っぽいと言われればそれまでだけど、やがて夫婦になるのだから、私がしっかりとジェイムズを支えなくては。
「そう、素敵ね。」
話をうんうんと聞いていると、突然ジェイムズは声のトーンを下げた。
「…そうなったら、相応しくないものは捨てて欲しいな。」
相応しくないもの?捨てるものなんて…何かあったかしら。
言葉の意味がわからず首を傾げる私を見て…いいえ、私の膝の上を見て、嫌なものを見る目を向けた。
「たとえばそう、君の猫とか。」
「__はあ?」
淑女にあるまじき地獄の底のような声が出た。
ジェイムズはびくりと震え上がる。目をまん丸にしてそれは驚いた表情を浮かべている。
私の膝の上で寛いでいるフワフワの黒猫ウルーは、幼い頃に、両親が私の幸せを願って贈ってくれた。
一緒にかけっこをして遊んだし、雷が怖い夜は一緒に寝てくれた。私が危ない遊び…、例えば、木登りや水遊びをしようとする時は必ず駆け寄ってきて、スカートの裾を噛んで止めてくれた。
友達として、家族として、かけがえのない存在だ。
そんなウルーを、捨てろ?
ジェイムズの正気を疑う。
なんてことを言うのだと怒鳴りつけてやりたい。
…いいえ、何かの間違いかもしれない。
そう思い直し、テーブルの下でキツく手を握りしめて深呼吸してからたずねる。
「…一応、理由を聞いてもいいかしら?」
いつもの声の調子に戻った私を見てホッと表情を緩めた。
「あ、ああ。…君がその猫を大切にしているのは分かっている。だがそいつはもう、随分と老いぼれじゃないか。見た目だってみすぼらしい…。私達の新しい生活には相応しくないよ。」
「…そうですか。」
「新婚とは全て真新しく揃えるものだ。どうしてもペットが欲しいなら、ほら、今流行っている喋る小鳥を飼おう!」
私の機嫌を取るように言葉を重ねるが、そのどれもが的外れ。冷や水をかけられたように急激に心が冷えていく。
膝の上で眠る大好きなウルーの頭を撫でながら、私は決意を固めた。
「分かりましたわ。」
ジェイムズは喜色満面、それはそれはいい笑顔でうっとりと私を見つめる。
「良かった。君なら理解してくれると思ったよ。」
ジェイムズはそう言って私の手を握ろうとして__私はそれを跳ね除けた。
「ジェイムズ、貴方との婚約を破棄します。」
◇
猫を捨てろ。
たったそれだけの言葉でフリージアは婚約破棄を申し出た。味方をしてくれると思った俺の両親は激しく怒り、ほとんど勘当同然に俺を地方の分店へ飛ばした。実の息子にこんな扱いをするなんてと訴えたが、聞き入れてはもらえなかった。
しかし、ドン底に落ちたかのように思えたが、その後起こったことは悪いことばかりではなかった。
停滞していた例の商談が進み、薬卸業者との専売契約を結ぶことができた。新しい商品と流通ルートの確保に成功したのだ。人々の需要を喚起する商品達に思った通り客が食いつき利益を産んでいく。大きな商談を初めて自分一人で成功させたことは俺を高揚させた。
隣国で遊んでいる兄が悔しがる顔を想像したら、胸がすく思いだ。
そして、俺に舞い込んだ幸運はそれだけではない。
なんと、子爵令嬢メリンダとの縁談が舞い込んだのだ。家柄で言えば伯爵家のフリージアより少し劣るが、明るく溌剌としたメリンダとの仲はとんとん拍子に進み、婚約、そして結婚まで行き着いた。
俺はこれを運命だと思った。運命の相手とでは、こんなに上手く話が進むものなのだと喜んだ。
フリージアと離れた途端に、俺の運命が回り出したのだ。
フリージアも愚かだ。素直に俺の言うことを聞いていれば、その後の恩恵を受けられたかもしれないのに。
そもそも俺はあの老いぼれた黒猫が気に入らなかった。初めて会った時から俺に冷たい目を向けるばかりで、愛玩動物だと言うのに少しも懐かない。フリージアと二人きりになりたくても、いつもアイツが側にいて、こちらに牽制するような視線を向けてくる。全く可愛げの無い邪魔な存在だった。
フリージアもフリージアで、あんな猫をまるで宝物のように大切に側に置いているのが気に食わなかった。そして、たったあれだけの言葉で婚約破棄までするなんて馬鹿げている。
社交界でも評判のフリージアを逃したのは少し惜しいが、メリンダだって充分魅力的だ。
これからの華々しい俺の活躍を、つまらないことで俺を捨てたフリージアに見せつけてやるのだ。
……そう思っていたのだが。
「お前の店の薬を使ったら具合が悪くなったぞ!どうしてくれる!」
「補償はしてくれるんでしょうね!」
痩身薬、毛生え薬…。
人々がこぞって欲しがった商品は、効果が無いどころか体に害を引き起こした。
数々の問題を起こすだけ起こして、薬卸業者は忽然と消えた。大元に問い合わせたくても、卸業者を介して仕入れていたから、その製造元についてもよく分からない。まるで悪夢だ。
そして、メリンダも。
やたら物を欲しがると思っていたが、こちらが渡せる金がなくなると他から金を借りてまで欲しがった。
「他所から金を借りてまで!これでは本当に首が回らなくなってしまうぞ!」
「あなた、お金はあるじゃなかったの!?これくらいのこと、お父様はなんとかしてくれたわ!あなたの実家に援助を申し出てちょうだい!」
「実家になんて、言えるわけがないだろう…!」
メリンダは、嫁ぐ前の子爵家でも物欲で問題を起こしていたことが明らかになった。
婚約から結婚まで全てが順調に進むのは運命で結ばれた二人だからだと思っていたが、子爵家に厄介払いされただけだと気がついた。
今更実家になんて、言えるわけがない。
相談もせず勝手に結んだ商談に、メリンダとの結婚。白い目を向けられることは明らかだ。
留学から帰国したはずの兄にだって、何を言われるか考えただけで逃げ出したくなる。
今俺の手元にあるのは負債と、きいきい騒ぎ立てるメリンダだけだ。
フリージアと離れてから回り出した俺の運命は、破滅へ向かっているのだと思い知らされた。
◇
新聞に目を通してため息を吐く。
ジェイムズが手を組んだ相手はとんでもない悪徳業者だったらしい。あまりの悪質さに国が動く事態へと発展しそうだ。
ジェイムズには気の毒だけど、勉強だと思って頑張って欲しい。
それに、メリンダ子爵令嬢との結婚をジェイムズのご両親に相談もなく決行されたと聞いた時は眩暈がした。
彼女は浪費家として社交界では有名だった。どんなご令嬢よりも着飾ることを好み、格上の家のパーティーでも主役より着飾っていた。本人に悪気が無いところが悪い所で、周りは手を焼いていたらしい。
ジェイムズは情報に疎いとは思っていたけれど、まさか知らなかったのかしら。
思うことはいろいろある。ため息を吐きたくもなる。
「まだジェイムズに情があるのかい?」
新聞を手にして俯く私に声をかけたのは、ブルーノ様だ。
「いいえ、気の毒だとは思いますがそれまでです。私は許しておりませんもの。」
怪しい商談を進めたのも、メリンダ嬢を選んだのも、彼自身の意思だ。胸が痛まない訳ではないけれど、あの日私の大切な存在を悪く言われて、挙句に捨てろと言われたことは許せない。
「愚弟が本当に申し訳ないことをした。」
「そんな、ブルーノ様は何も悪くないのですから。」
頭を下げようとするブルーノ様を止める。
ジェイムズはブルーノ様を「突っかかってくる」と嫌っていたようだけど、それは危ういジェイムズを守ろうとしたためだ。そうでなければ、もっと早くに悪いことに巻き込まれていたかもしれない。
おもむろに『にゃーん』と鈴が鳴るような声が響く。
その声の主はもちろんウルーだ。ソファに座るブルーノ様の隣で四肢を投げ出して寝転んでいる。その穏やかな顔に釣られてブルーノ様が首や顎を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。やがてお腹を天井に向けて転がった。
「あらあら、そんな姿を私以外に見せるなんて。」
驚きと、嬉しさと、ほんの少し嫉妬を覚える。動物は人間より人間の心の機微に敏感だと思っている。ウルーがジェイムズには全く懐かなかったのは、あんな発言をする人だと分かっていたからかもしれない。
ジェイムズが言った、老いぼれという言葉も私を傷つけた。ウルーとはずっと一緒に過ごしてきたのに、私達には寿命の差がある。いつまでも一緒にはいられないのだわ。
「…ウルーももう歳だから、最後まで穏やかに過ごして欲しいわ。」
舌をしまい忘れているウルーを撫でていると、ふと、その背中に固いものが二つぽこりと触れることに気が付いた。何か悪いものだろうかと心配になる。
「……。フリージアは、本当にウルーを猫だと思っているのかい?」
「…え?どういうことですか?」
突然何を…と首を傾げると、ブルーノ様はウルーの脇に手を差し込んで持ち上げた。嫌がる様子は少しもなく、体が伸びたと錯覚するくらい力を抜いて欠伸までしている。
じっくりと観察したブルーノ様は「やっぱり。」と呟いた。
「ウルーは猫に似た魔獣だよ。それにこの子はまだ幼体だ。成体になると背中に羽が生える、長寿の生き物だ。」
「…ええっ!?」
ブルーノ様の話によると、それは西方のとても珍しい生き物らしい。そういえば、ウルーを贈られる少し前、お父様は西方の国へ使者として赴いていたような…。幼い私に分かりやすく、猫と伝えたのだろうか。背中に触れる固いものは、これから羽になるのだろうか。
「彼らは、主人と認めた者に幸運を運ぶと言われている。」
「幸運を…。」
ブルーノ様からウルーを受け取って抱き抱えると、ゴロゴロと喉を鳴らした。フワフワでかわいい、私のウルー。
「ウルーが私に幸せを運んでくれていたのね。」
そう思うと愛おしくて仕方ない。きっと幼い頃から私を見守ってくれていたんだわ。
婚約破棄してからジェイムズは不幸な道を辿ったようだけど、もしかしたら、私に降り注ぐ不幸をウルーが遠ざけてくれたのかもしれない。
「これが君の幸運にあたるかは分からないけれど…。」
微笑みながら私達を見ていたブルーノ様は、その場に跪いた。
「元々私の婚約者になる予定だったのに、弟に取られて悔しかったんだ。フリージアさえ良ければ、私の手を取ってくれるかい?」
「…!」
頬が熱くなる。
だって私は密かにブルーノ様に想いを寄せていたから。
この想いはジェイムズとの婚約が決まった時にキッパリ諦めたつもりだった。ジェイムズだって悪い人ではないし、決められたことだから仕方ないと受け入れたのだ。
私はこの手を取ってもいいの…?
差し出された手を見つめ、震える私の手を重ねようとした時。
「おや。」
私よりも先に、ウルーのふかふかの手がブルーノ様の手に重ねられた。
それが可笑しくて、嬉しくて、私は大好きな私の猫にそっとキスを落とした。




