夾竹桃
なんかエッセイみたいになってしまいました。(笑)
炎天下 横たう人と夾竹桃
風は日の陰着くまで止まぬ
8月も目前、夏本番ということで暑くなってきましたよね。所によっては日中の気温が40℃の酷暑日に迫るとか。日射病や熱射病でぐったりと、木陰や涼風が恋しいです。というか屋内でアイスを齧りながら一日中エアコンに当たっていたい今日この頃です。
それはそうと、8月といえば今年ももうじきあの日がやってきます。
平和への祈りは良いのですが、しかし的外れな怨みはいただけない。
いや、被爆者を始めとした戦争犠牲者を悼む気持ちのないわけではないですけど、されどそれはそれ、戦争責任とそれを混同し問題をすり替えるのはどうかと。当事者意識を離れ俯瞰的に見れば叱られた者が逆恨みしているように見えるわけで、そこが現在の日本の政治の反省なき闇となっているようにしか思えない。
真の平和を求めるのならば、自分たちの国が戦争を行ったという罪と向き合うこととその反省が大事。報いの理由から目を逸らしているからこそ理不尽な虐殺にしか捉えられないわけで。
確かに直接戦争に関与していなかった被災者からすれば何故にということになるのでしょうが、それでも国民として政治を支えてきた事実に変わりはないわけであり、また非戦闘員であったとしても、国からはその予備軍として扱われており、実際に一部は死兵として戦場に送られていたのもまた事実。他に選択肢は無かったとしても、それでもやはり責任というものからは逃れられないわけで。というか敗戦により漸くその呪いのようなそれから解放されたともいえるのかな。
とはいえ、それはあくまでも戦争被害者となったことにより加害者となることから解放されただけで、支援者であったことから逃れられたわけではなく、たとえそれが望まぬ消極的なそれであってもその責任は残るというわけで。
つまるところ、それこそが後世に伝えるべきこと。政治に戦争を安易に用いてはならないということこそが本質であり、敗北の辛さを怨みとして伝えることとは別なんですよね。そこを間違うからこそ勝つことを至上とするようになり、負けなければ良しと考えるようになる。そりゃあ戦争のなくなるわけがないというものです。(苦笑)
当事者でないからこそ言えることなのかも知れないですけど、逆にいえばだからこその視点。自分たちは被害者であり罪はない、たとえ戦争の恩恵を受けていてもそれを望んだわけでなければ関係ないというのはどうなのかといったところです。
罪を背負い罰を受け入れるのは辛いですけど、それだけにそれを他者に転嫁するべきではない。たとえそれが自分たちを代表する責任者であっても。傷みを忘れれば傷つけることを疑問と思わなくなる、これはそういう話ではないでしょうか。




