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冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる  作者: パラレル・ゲーマー


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第34話 試合開始三分で、対戦相手と同じ方向へ走った

 巨大な工場跡の内部を見上げながら、玲奈が安全靴でコンクリートの床を軽く踏み鳴らして言った。


「……今日は、ちゃんと床が『普通の床』として下にあって安心しました」


「戦う前に確認することが、建物の重力の向きからになったのは嫌だな」


 俺が苦笑して返すと、インカムの向こうから水瀬の明るい声が響いた。


『ご安心ください。本日の会場の構造検査はすでに完了済みです。少なくとも重力方向は正常ですよ♡』


 ここは、旧東湾重機製作所の第二組立棟。


 本日の俺たちFIELD WORKSの仕事は、この広大な工場内で争われる『通常の企業代理戦』だった。


 あの悪夢のような四方向の重力空間での怪異討伐から、約一週間が経過している。俺も玲奈も、日常的な仕事の感覚へと完全に戻りつつあった。


     ◆


 今回の企業代理戦の争点は、この旧製作所跡地に残されている大型天井クレーン、工作機械、鋼製作業床、特殊合金設備などの『大型設備移設工事』の契約権だ。


 契約規模は、解体から移送、再設置、保守までを含めて約二十億円。


 俺たちFIELD WORKSは《湾岸設備再生株式会社》から依頼を受け、対戦相手である《北辰揚重保全》という会社と、一対一で優先交渉権を争うことになった。


 試合会場となる第二組立棟は、天井高二十五メートル。床面積は小型の体育館が数個入るほどの巨大な空間だ。


 頭上には、二基の巨大な大型天井走行クレーンと、高所作業用のキャットウォークが何層にも重なっている。大型設備はすでに停止しており、クレーンの主電源も完全に遮断されていた。


 試合前には、八咫烏の立会人と会場責任者によって、建物構造検査、クレーン支持部検査、床荷重確認が厳密に実施され、「安全上の問題は一切なし」と公式に報告されていた。


 観客はいない。現場にいるのは、俺、対戦相手、レフェリー、両社のセコンド、立会人、会場運営職員、設備技術者、そして医療班だけだ。


     ◆


 試合区域となる中央の空いた床面で、両社の代表者による契約条件の最終確認が行われた。


 試合形式は一対一。武器使用禁止。会場設備への意図的な大規模破壊は禁止。ただし、柱や手すりを足場として利用することは認められている。


 勝利条件は、降参、十秒以上の戦闘不能、レフェリーストップ。


 俺は手元のタブレットで、対戦相手の公開情報を確認した。


 久世一馬くぜ・かずま。三十九歳。


 北辰揚重保全に勤務する本物の現場社員(大型クレーン保守責任者)であり、外部のプロの代理人ではない。登録評価はTier4上位。


 保有能力は、《身体能力強化》と《係止けいし》。


 能力名も基本作用も、すべて公式に開示されている。秘密の能力を隠して奇襲を狙うような、胡散臭い相手ではない。


(……だが、こういう『自分の手の内(条件)が分かっている能力者』の方が、逆にその能力の使い方の熟練度を警戒すべきだ)


 俺は、先日の深見渉という男との死闘を思い出しながら、気を引き締めた。


     ◆


 俺がリングエリアの中央へ進み出ると、対戦相手である久世が現れた。


 作業員らしい、太くがっちりとした前腕。


 彼が着ているのは、派手なスポーツ用の競技服ではない。黒い長袖の、無骨な能力者用作業服だ。足元は、滑り止めと足首の保護を重視した競技用の安全靴。


 久世は、俺の数メートル前で立ち止まり、深く、実直な一礼をした。


「北辰揚重保全の久世一馬です」


「FIELD WORKSの佐伯です。よろしくお願いします」


 短いやり取りだけ。


 久世の目には、俺に対する親愛も、逆に下品な挑発の色も一切なかった。


「こちらも、会社から背負っている契約を失うわけにはいきません。……手加減はしません」


「ええ。こっちも仕事ですから」


 俺も、静かに返した。


 互いに、好意も敵意もない。ただ、自分の会社の代表として、目の前の相手を純粋な力で叩きのめす。それだけだ。


     ◆


 レフェリーのブザーが、巨大な工場内に響き渡った。


「試合開始!」


 開始の一分目。


 俺と久世は、ほぼ同時に《身体能力強化》を発動させた。


 俺は最初から《無拍子》や《蓄撃》などの切り札は使わなかった。久世の《係止》という能力が公開されている以上、まずは純粋な組み技で、彼の『接地状態』と力量を確認する必要があったからだ。


 久世は、腰を極端に低く落とした構えを取った。


 拳を固く握ってはいない。俺の肩と胴体をいつでも掴めるように、両手を大きく開いた、レスリングに特化した構えだ。


 俺がステップで前へ出て、軽い左の牽制ジャブを放つ。


 久世はそれを避けず、太い前腕でガシッと受けて、逆に俺の懐へと一気に距離を詰めてきた。


 久世の右手が俺の首の後ろをガッチリと取り、左手が俺の右上腕を掴む。


 プロのレスリングの首相撲の体勢。


 俺は即座に腰を落とし、腕を差し返して体勢を入れ替えようと力を込めた。


 だが。


 久世の右足が、コンクリートの床へとピタリと固定された。


 彼の靴底と床との接触点に、薄い灰色の光の輪がフワッと浮かび上がる。


 《係止》。


 俺が《身体能力強化》の全出力で腰を切って投げようとしても、久世の右足だけが、床から生えた鉄の杭のように一ミリも滑らなかった。


 久世は、その絶対に動かない足を『支点』にして、俺の身体を横へと力任せに振り回した。


 強烈な遠心力。俺は床に倒される直前、柔道とレスリングの技能で空中で足を入れ替え、強引に投げの軌道を回避した。


 両者が、荒い息を吐いて一度離れた。


     ◆


 開始の二分目。


 俺は、久世の《係止》という能力の構造を瞬時に整理した。


(……久世本人の身体の全体が、床に固定されて無敵になっているわけじゃない)


 固定されていたのは、右足の靴底の『一点』だけだ。彼の上半身や反対の左脚は、普通に動いていた。


(つまり、一点を動かなくし、その一点を強力な『支点』として全身の筋肉を連動させ、相手を回しているんだ)


 久世が再び接近してくる。


 今度は、彼が左手を、工場の太い鋼製柱へとベタッと触れた。


 再び、灰色の光の輪。


 《係止》。


 彼の左手と柱が、完全に固定された。


 久世は腕力だけで柱にぶら下がっているのではない。左腕を『動かない壁の支点』として使用し、俺の突進の圧力を受け流しながら身体をクルリと回転させ、俺を柱の横へと流した。


 俺は柱への激突をギリギリで避け、久世の伸びた左肘の下を素早く潜り抜けた。


 背後へ回り込み、彼の腰へと深く腕を回す。


 久世が、俺の投げを防ぐために、再び足を床へ《係止》しようと動いた。


 俺は、その直前に。


 彼が係止しようとしていない方の『左脚』を、内側から鋭く払った。


 久世の強固な上半身のバランスが、完全に崩れる。


 だが、久世は倒れながらも柱への係止を即座に解除し、プロの柔道家のような見事な受け身を取って、ノーダメージで床を転がった。


 俺は無理に追撃せず、距離を取った。


 久世が静かに立ち上がる。


 互いに一度ずつ、能力と格闘技能を使った高度な攻防を成立させていた。


     ◆


 開始の三分目。


 久世は、俺が《係止》の弱点(固定されていない部位を攻めること)を早くも理解し始めたと判断したようだ。


 彼は単純な足の固定だけでなく、係止する場所を細かく、秒単位で切り替え始めた。


 靴底。掌。肘当て。横の安全柵。


 一か所ずつ短くコンマ数秒だけ固定し、予測不能な異なる支点から、強力な組み技を次々と仕掛けてくる。


 俺は、あえて異能には頼らず、純粋な『手札の技能』だけで彼に対処した。


 神代一刀流で得た、中心線を奪う足運び。榊原から得た、総合格闘技の組み手の捌き。黒瀬から得た、打撃の絶対距離の維持。青柳から得た、空中の姿勢制御技能。


 俺は、能力ではなく、これまで直接観察し《ライブラリ》へと登録してきた『無数の格闘技能』を瞬時に組み合わせ、久世の変幻自在の組み技を紙一重でいなしていった。


 久世の目に、明確な違和感の色が浮かんだ。


(この男の動き、一つの流派のものじゃない……。一体、いくつの格闘技を習得しているんだ?)


 久世は、俺がコピー能力を使っているとは当然考えず、「複数の格闘技を高次元で学んだ、対応範囲の異常に広い実戦型」だと判断し、さらに警戒を強めた。


 俺は、次の踏み込みに《無拍子》を重ねると決めた。


 久世が《係止》で支点を固定する、その直前のコンマ一秒へ打撃を差し込む。


 そう呼吸を合わせ、右足を踏み出そうとした。


 試合開始から、ちょうど三分二秒が経過した。


 その瞬間。


 俺たちの遥か頭上から。


 パキンッ。


 という、氷が割れるような、乾いた甲高い金属音が響いた。


     ◆


 俺と久世は、ほぼ同時にピタリと攻撃の手を止めた。


 二人の視線が、同時に天井の方へと向く。


 高さ二十メートル以上。


 そこにある、大型天井走行クレーンの走行レールを支える巨大な『ブラケット部分』から、白い粉塵と錆の粉がパラパラと雪のように落ちてきていた。


 続いて。


 バァァァンッ!!


 という、爆発のような破断音。


 クレーンの支持部を固定していた複数の太い高力ボルトが、一度にすべて根元から引きちぎられるように抜けた音だった。


 天井クレーンの片側の車輪が、巨大な走行レールから完全に外れた。


 数十トンあるクレーン本体が、丸ごと床へ落下したわけではない。反対側の車輪と支持部がレールに引っかかって残ったため、片側だけが約一・五メートルほど、急激にガクンッ!と沈み込んだのだ。


 巨大なクレーン橋が、空中で斜めに激しく傾く。


 そこから吊り下げられていた重いフックブロック。点検用の鋼製足場。太いチェーン。そして、薄い点検用カバー。


 それらの付属物が一斉に固定を失い、巨大な振り子のように空中で激しく振られ、真下へと落下を始めた。


 そして、その真下にいるのは。


 状況を飲み込めていないレフェリー、会場の設備技術者二名、そして八咫烏の立会人だった。


     ◆


 レフェリーは、頭上から何が降ってきているのか、まだ完全に理解していなかった。


 俺と久世は、互いの顔を見なかった。


「助けよう」という相談も、「行くぞ」という合図も、一切出さなかった。


 俺は正面にいるレフェリーへ向かって。


 久世は、その横で腰を抜かしている設備技術者へ向かって。


 俺たちは二人とも、まったく同じ方向へと、全速力で同時に走り出していた。


 ……試合開始から、たった三分。


 俺は初めて、絶対に倒すべき敵(対戦相手)と並んで、まったく同じ方向へと走ったのだ。


     ◆


 頭上の数十メートルから、大型の点検カバー(鋼板)が手裏剣のように回転しながら落下してくる。


 俺は《身体能力強化》の出力を限界まで引き上げ、レフェリーの胴体へと横からタックルするように肩を当て、彼を試合区域の外へと強引に突き飛ばした。


 俺自身も、その反動で床をゴロゴロと転がる。


 ズガァァァンッ!!


 直前まで俺たちがいた床のコンクリートへ、落下してきた点検カバーが激突した。


 重い鋼板がひしゃげて大きく曲がり、床に深く食い込む。


 さらに頭上から、クレーンの巨大なフックブロックが、振り子状に俺たちの頭部へと迫っていた。


 俺は床から立ち上がりながら、右手を突き出し、《圧縮射出》を一回使用した。


 数十トンあるフックブロック本体を撃ち抜いて破壊するのではない。横からブラブラと垂れ下がっている『軽量のチェーンガイド』の部分へと、圧縮された空気の衝撃波を正確に当てる。


 ガチンッ!


 ガイドの向きが変わり、フックブロックの巨大な振れの軌道が、空中でわずかに数センチだけズレた。


 フックブロックの塊は、レフェリーの顔面のすぐ真横の空気を掠め、ギリギリで通過していった。


 完全に落下を止めるのではなく、致命的な軌道から数十センチだけ意図的に外したのだ。


     ◆


 一方、久世の側。


 一人の設備技術者が、落下物を避けようとして床で無様に転倒していた。


 その技術者の頭上へと、重い高所点検足場の一部が傾いて落ちてくる。


 久世は、技術者の作業服の襟を片手でガシッと掴み、自分の胸へと強引に引き寄せた。


 しかし、落下してきた巨大なクレーン橋の激しい振れの余波による突風で、久世自身の身体も床を大きく滑りそうになった。


 久世は、右足をコンクリートの床へと力強く押しつけた。


 《係止》。


 灰色の輪が浮かび、彼の靴底が、アスファルトに打ち込まれた鉄の杭のように床へと完全に固定された。


 久世の強靭な身体が、一本の動かない杭としてピタリと止まる。


 彼は、その絶対に動かない右脚を支点にして。


 技術者の身体を片腕だけで軽々と引き上げ、遠心力で自分の背後の安全圏へと強引に投げ飛ばした。


 ドゴォォンッ!


 久世のすぐ目の前の床に点検足場が激突し、鋭い鋼材が大きく跳ねた。


 五秒。


 《係止》のタイムリミットが切れ、能力が解除された。


 久世は衝撃の余波で膝をついたが、彼の背後にいる技術者は完全に無傷だった。


     ◆


 天井のクレーンが崩落した時点で、レフェリーの権限により、この企業代理戦は「自動的に中断」となっていた。


 その瞬間、水瀬の分身と玲奈が、セコンド区画のフェンスを飛び越えてこちらへ走り出してきた。


 玲奈が、走りながら愛用の狙撃銃を構え、上空を確認した。


 クレーンからちぎれた細い金属製のブレース(補強材)が、地上の避難していない会場職員たちの頭上へ向かって落下していくのが見えた。


 シュガァンッ!


 玲奈の《圧縮射出》。


 彼女は、ブレースの中央を破壊して破片を散らすような危険な撃ち方はしない。


 ブレースの端部(端っこ)だけにピンポイントで衝撃を当て、空中で金属の『回転方向』をクルリと変えさせた。


 ブレースは、職員のいる場所から大きく逸れ、無人の区域の床へと安全に落下して弾けた。


     ◆


 水瀬の分身は、負傷したレフェリーと技術者の救護へと素早く回った。


 同時に。外の管制車両にいる水瀬の本体が、インカムで叫んだ。


『佐伯さん! 全員、クレーンの直下から完全に退避してください! ……反対側の残っている支持部も、この荷重の偏りには長く耐えられません! クレーン全体が二次崩落します!』


 北辰揚重保全側のセコンドたちも、自社の選手の試合どころではなく、設備の非常停止ボタンを押し、一般職員の避難誘導へと走り回っていた。


 久世が、粉塵まみれの顔で俺へ向かって言った。


「佐伯さん。……クレーンの左側を頼めますか」


 つい数秒前まで全力で倒し合っていた対戦相手へ、命を預ける救助の協力を依頼することに。彼の声には一ミリの迷いもなかった。


 俺も、即答した。


「分かりました」


 俺たちは、崩れかけてギシギシと悲鳴を上げている巨大なクレーン橋の、左右へと分かれて走った。


 ここではもう、相手の能力が何かを疑い合うような探り合いはない。


 互いに三分間だけ本気で戦い合ったことで。


「久世は、あらゆる支点を完璧に固定できる能力を持っている」「俺(佐伯)は、瞬間的な圧倒的パワーと、遠距離から衝撃を当てる能力を持っている」という、最低限の情報をすでに把握していた。


 敵として血を流して得た情報が、そのまま『救助の連携』のための完璧なプロトコルへと変わっていた。


     ◆


 久世が、クレーンの現状をプロの目で素早く確認した。


 クレーン橋の片側の車輪が、レールから完全に外れている。


 床に全落下していないのは、反対側の車輪と、一部の給電設備が奇跡的にレールへ引っ掛かっているためだ。


 しかし、その絶望的なバランスは長くは持たない。数分以内に、数十トンの塊が俺たちの頭上へ落ちてくる。


 久世は、震えている会場職員へ向かって叫んだ。


「倉庫にある『赤い非常固定索』と『工事用ラッシングベルト』、『チェーンブロック』、それと支持用の仮設台車を全部持ってこい! 急げ!」


 現場のクレーン保守責任者としての本職の知識が、即座に現場を動かした。


 俺は久世に指示された通り、床に落ちていた極太のラッシングベルトを拾い上げた。


 《身体能力強化》の力で、太い鋼製柱の周囲へとベルトを素早く回して固定する。


 久世が、傾いたクレーン橋の低い側へとベルトの金具を通した。


 だが、俺と久世が二人でベルトをラチェットで締め上げようとした、その時。


 ギギギッ!と、上空に残っていた支持部がさらに悲鳴を上げて沈み込んだ。


 このままでは、ベルトを締める前に落下してしまう。


 久世は、ベルトの金具と鋼製柱の接触部を、両手でガシッと握りしめた。


 《係止》。


 灰色の輪が浮かぶ。


 たった五秒間だけ。仮留めされたベルトの接合部が、数十トンの荷重を相手に、鋼製柱に対して一ミリも動かなくなる絶対の固定。


 俺と会場職員は、久世が命懸けで作ってくれたその「空白の五秒間」に、急いでチェーンブロックを接続してピンを打ち込んだ。


 ガチャァンッ!


 仮の支持が完成し、ワイヤーが極限まで張り詰めた。


 クレーン橋の恐ろしい振れと沈み込みが、ついにピタリと止まった。


 久世は能力を解除した直後、自分の右手首を痛そうに押さえた。


 一人の人間の腕で数十トンの荷重を数秒間とはいえ支えたため、指と手首の神経に強い痺れが出ているのだ。


 それでも、俺たちによる最初の救助と二次被害の阻止は、完璧に完了した。


     ◆


 レフェリーと負傷した技術者は、駆けつけた医療班のストレッチャーで安全な場所へと搬送されていった。


 一人は腕を骨折し、もう一人は落下物で頭部を切って出血していたが、生命に別状はない。八咫烏の立会人も軽い打撲で済んでいた。


 蒼白になった会場の責任者が、震える声で言い訳をするように説明した。


「こ、これは……クレーン支持部の高力ボルトの、経年劣化による自然事故の可能性があります……」


 だが、久世が即座に低い声でそれを否定した。


「あり得ません」


「え……?」


「このクレーンは、今朝、うちの北辰の点検班も厳密に目視確認しています。経年劣化でここまでの太さのボルトが一度に複数本抜けるなら、事前の荷重試験の時点で必ず兆候が出るはずです」


 北辰揚重保全は今回の対戦当事者だが、同時にこのクレーン設備の専門保守会社でもある。


 久世は、自分の会社を庇うために嘘をついているのではない。プロの技術者として、このクレーンの「壊れ方が物理的におかしい」と明確に判断しているのだ。


     ◆


 レフェリーが医療搬送されたため、試合は当然続行不能となった。


 八咫烏の立会人が、マイクでアナウンスした。


「本試合は、会場の安全確保が不能となったため、『一時中断(ノーコンテスト扱い)』とします!」


 俺は、粉塵まみれになった久世の顔を見た。


 久世も、俺を見た。


 ほんの三分前まで、俺たちは互いの人生と契約を賭けて、全力で倒そうとしていた敵同士だった。


「……試合は、どうするんですか」


 俺が尋ねると、久世は傾いたクレーンの無残な姿を見上げて、静かに答えた。


「後でしょう」


「……」


「今起きたことは、試合じゃありません。……事故か、事件です」


 俺と久世の間に、馴れ合いの友情が芽生えたわけではない。


 この救助と事件が完全に終われば、俺たちは再び、互いの首を狙う対戦相手へと戻る。そのプロとしての線引きは、お互いに完全に残していた。


     ◆


 水瀬の本体から、俺のインカムへ指示が飛んだ。


『佐伯さん。現場の警察や八咫烏が動く前に、あのクレーンの破断部の映像を確保してください』


 久世は、すでに倉庫から予備の安全索ハーネスを持ち出していた。


 俺も同行する。


 二人は地上から鋼製の点検階段を駆け上がり、クレーンの走行レールの付近にあるキャットウォークへと移動した。


 まだクレーン全体が不安定なため、近づきすぎない安全な距離から確認する。


 玲奈は、地上から俺たち二人を銃のスコープで監視し、安全を確保してくれている。


 水瀬の分身は、負傷者と周辺の職員の確認を続けていた。


     ◆


 久世が、キャットウォークから強力な投光器で、クレーンの破断箇所を照らし出した。


 クレーンの支持ブラケットを固定していた、四本の太い高力ボルト。


 そのすべてが、壁の同じ高さで綺麗に切断されて残っていた。


 経年劣化による自然な破断なら。


 断面には大量の錆があり、金属疲労の痕跡があり、ボルトごとに破断した時期の差があり、金属の伸びや変形、周辺の部材への亀裂が必ず残る。


 しかし、現場の四本のボルトの断面には。


 大型の油圧カッターか何かで、人工的にスッパリと切断されたような『平滑な断面』だけが残っていた。


 しかも、その切断面の金属の光沢は、明らかに新しい。


 久世が、震えるような低い声で言った。


「……人為的に、切られています」


 俺も、その断面をカメラで撮影しながら確認した。


「でも、これだけ太いボルトが四本とも完全に切れていたなら。今朝の試験運転の時点で、重さに耐えきれずに落ちていたはずですよね?」


「そうです」


 久世が、ボルトの不自然な断面を睨みつけた。


「切れていたのに。……さっきの試合開始の三分後まで、なぜかこのボルトは『完全に繋がっていた(重さを支えていた)』んです」


     ◆


 水瀬の本体が、管制車両でビルのセンサーログを恐ろしい速度で解析していた。


『佐伯さん。……クレーンの支持部には、振動センサー、傾斜計、荷重センサーが取り付けられていました』


「……異常値は?」


『試合開始前まで、異常値は「一切ありません」』


 水瀬の言葉に、俺の背筋が冷たくなった。


 もしボルトが徐々に壊れたなら、荷重の偏りや微細な振動が必ず記録されるはずなのだ。


 だが実際には、


『試合開始の三分二秒まで、ボルトの支持力は完全に「正常値」でした。……その直後に、支持力が一瞬で「ゼロ」へと変化しています』


 徐々に壊れたのではない。


 すでに完全に壊されていたものが、その瞬間に突然『壊れた状態へと戻った』ような、あり得ないデータなのだ。


『物理的な破損の進行だけでは、絶対にこのログにはなりません』


 水瀬が、冷徹に断言した。


     ◆


 俺と久世がキャットウォークの上にいる、その時だった。


 組立棟の北側から。


 パンッ。


 という、先ほどのクレーン崩落の時とよく似た、不吉な金属の破断音が響いた。


 久世が即座に顔を上げ、音のした北側の高所作業床の方向を凝視した。


 避難途中だった会場職員の二人が、その高所作業床の上を移動している最中だった。


 作業床を支えている数本の吊りワイヤーの一つが、バツンッ!と音を立てて外れた。


 作業床の片側が急激に数十センチ下がり、乗っていた二人が悲鳴を上げて安全柵へと叩きつけられる。


 まだ完全には落下していない。だが、残った他の吊り材も、バランスを崩した過重な重量によって、ミシミシと危険な角度へ曲がり始めていた。


 俺と久世は。


 再び、まったく同じ方向へと、全速力で走り出した。


     ◆


 作業床へ到達するには、迷路のように入り組んだ細いキャットウォークを渡っていかなければならない。


 俺が先行し、久世が俺の後ろから走りながら状況を冷静に確認する。


 作業床の片側が斜めに大きく傾き、職員の二人が手すりから手を滑らせて、低い側へとズルズルと滑り落ちそうになっていた。


 久世が、俺の背中へ向かって叫んだ。


「佐伯さん! あの支柱の裏側に、衝撃を当てられますか!」


 俺は、走りながら久世が何を狙っているかを瞬時に理解した。


 作業床を下から支えている補助ブレースの金具が、変形したまま吊り材へと中途半端に噛み込んでしまい、それが原因で床の傾きをさらに悪化させているのだ。


 あそこを外せば、作業床は少しだけ水平へと戻る。


 ただし、俺が強力な打撃で直接破壊すれば、衝撃で床全体が完全に落ちる。


 俺は《圧縮射出》を使わず、ここでは地上の玲奈の精密射撃へ任せることにした。


「羽田さん! 右側ブレースの接続ピンだけを撃ち抜け!」


 地上の玲奈が、スコープで瞬時に射線を確認した。


 シュガァンッ!


 《圧縮射出》。


 見えない空気の弾丸が、接続ピンの先端だけをピンポイントで弾き飛ばした。


 補助ブレースの噛み込みがガコンッと外れ、作業床の傾きが数度だけ、水平の方向へと戻った。


 職員二人の滑落が、ギリギリのところで止まる。


     ◆


 だが、残っている吊り材も、限界のミシミシという音を立てていた。


 久世は、自分の腰につけていた緊急用の安全帯のワイヤーを、近くの太い鋼製柱と、傾いた作業床の手すりへと素早く回した。


 そして、その金具を両手で強く握りしめる。


 《係止》。


 灰色の輪が浮かび、安全帯の接続部が、鋼製柱に対して完全に固定された。


 この細いワイヤーだけで作業床の全体の重量を支えきれるわけではない。


 だが、たった五秒間だけなら。傾いて低い側の床が落下する速度を、このワイヤーの張力で無理やり食い止めることができる。


 久世が、腕の筋肉を限界まで膨張させながら叫んだ。


「五秒です!!」


 俺は、その言葉と同時に、傾いた作業床へと迷わず飛び移った。


     ◆


 俺が通常の体重のまま乗れば、俺の重さで損傷した作業床の吊り材が完全に切れてしまう。


 俺は空中で《自己質量操作》を一回だけ使用し、自分の質量(重さ)を極限まで軽くした。


 床へ加わる負荷を最小限に抑えながら、滑り落ちそうになっている職員二人のもとへと走る。


 一人は足を負傷して立てない。もう一人は恐怖で腰を抜かして動けない。


 俺は、負傷者を片腕で強引に抱え込み、もう一人の職員の安全帯のベルトをもう片方の手でガシッと掴んだ。


 久世が、限界の悲鳴を上げるワイヤーを握りしめながら、残り時間をカウントダウンする。


「三!」


「二!」


「一!!」


 俺は、二人を抱えたまま、作業床から安全なキャットウォーク側へと向かって全力で跳んだ。


 ゼロ。


 《係止》が解除された。


 固定を失った安全帯の金具がズルッと滑り、作業床が再び大きく、致命的な角度へと傾いた。


 俺たち三人は、ギリギリのところでキャットウォーク側の手すりの内側へと転がり込み、難を逃れた。


 その直後。作業床の片側のワイヤーが完全にブチ切れ、床が斜めにだらんと垂れ下がった。俺の《自己質量操作》がなければ、完全落下していたはずだ。


     ◆


 助け出した二人の職員を、地上の安全な場所へと降ろした。


 一人は足首の捻挫。もう一人は軽い打撲だけだった。


 俺も腕と肩を打って痛んだが、大したことはない。


 久世は、《係止》という能力を数十トンの大荷重に対して短期間に連続使用した代償で、右手の指が痙攣してピクピクと震えていた。


 それでも俺たちは二人とも、油断なく周囲の天井や壁を睨みつけていた。


「……これ、単なる偶然にしては、事故が連続しすぎじゃないですか」


 俺が言うと、久世は右手をさすりながら重々しく答えた。


「ええ。偶然ではありません」


 最初のクレーンのボルト。次の作業床の吊り材。


 どちらも、試合が開始された「後」に、突然、支持力を失って崩落したのだ。


     ◆


 管制車両の水瀬本体が、二か所の破断データを並べて、一つの恐ろしい仮説を提示した。


『共通点があります。事前検査では完全に正常だった。実際には人工的に切断されていた。切断後もなぜか荷重を支えていた。ある瞬間、支持力が完全に消失した。崩壊の直前までセンサー値は正常だった』


「……」


『断定はできませんが。……すでに完全に壊されていた接合部を、何らかの能力によって一時的に「壊れていない状態」として維持・保持していた可能性があります』


『そして試合開始後、犯人がその保持を、一つずつ意図的に「解除」しているんです』


 久世が、怪訝な顔で尋ねた。


「……折れたボルトを直す、修復の能力ですか?」


 水瀬が即座に否定した。


『単なる修復なら、それを解除した瞬間に、元のスッパリと切断された状態へ戻る理由がありません。……これは、直したのではなく、「壊れたまま立たせていた(仮留めしていた)」んです』


     ◆


 俺たちはまだ、犯人の能力の正体も、どこまで設備に仕掛けが残されているのかも知らなかった。


     ◆


 水瀬が、会場の入退場ログのデータをハッキングに近い速度で洗っていた。


『最終の構造検査が終わった後、試合開始までにあの高所設備区域へ入った人間は四人だけです。……会場責任者、クレーンの点検員、電気設備の点検員、臨時の照明保守員』


 そのうちの三人は、現在地上の避難区域にいることが確認されている。


 だが、『臨時の照明保守員』だけが、どこにも見つからない。


 登録名は、鳥飼慎二。


 身分証のデータは存在するが、会場の運営会社へ確認すると、「その名前の作業員を派遣した記録は存在しない」という。偽造された作業証だったのだ。


『鳥飼の入場の記録はあります。……しかし、退場の記録がありません』


 久世が、水瀬の仮説を聞いて指摘した。


「離れた場所から自由に能力を解除できるなら、もうとっくに建物の外へ逃げている可能性もありますよ」


『その可能性はあります』水瀬が答える。『ただし、入場記録を消さずに、わざわざ会場内で順番に崩落させている点がいかにも不自然です』


 水瀬はさらに、建物内の無線電波のログを調査した。


『北側の機械室の付近から、登録されていない不審な携帯端末の微弱な信号が出ています。……そして同じ位置で、監視カメラが一台だけ、数分前から停止しています』


 水瀬が、冷徹な結論を出した。


『犯人は、まだこの組立棟の中に潜んでいます』


     ◆


 俺の視界の端には、救助中に観測した久世の《係止》についての解析表示が、静かに浮かび上がっていた。


 試合中の、靴底と床の固定。掌と柱の固定。


 救助中の、安全帯の金具と鋼製柱の固定。大荷重で周辺の部材へ負担が生じる様子。五秒前後で自動的に解除される現象。


 《ライブラリ》が、それらの情報を統合して解析を終えていた。


『人工構造物間の、相対移動の固定を観測』


『単一の接触点』『短時間維持』


『周辺部材の強度を超える過大な荷重により、破断することを確認』


 《係止》の登録条件が完全に満たされた。俺の十九種類目の能力として、システムへ静かに登録される。


 だが俺は、久世へそのことを何も言わなかった。久世も、俺が自分の能力をパクリ取ったとは当然考えていない。


 一方の犯人の能力については、「壊れた設備が立っていた」「後から崩れた」という結果しか観測していないため、発動手順も使用者も不明であり、まだ登録されていなかった。


     ◆


 八咫烏の立会人が、会場全域を『能力犯罪現場』として正式に封鎖すると宣言した。


 これをもって、企業代理戦は完全に中断となった。


 立会人は、俺と久世へ向かって言った。


「本来なら、選手の皆さんは直ちに外へ退避し、八咫烏の実働部隊の到着を待つべきです」


 しかし、次の致命的な問題が発生していた。


 会場内には、まだ安全に停止できていない危険な大型設備が複数残っているのだ。


 犯人が建物の奥で、能力による保持をさらに解除すれば、第三、第四の大崩落が起き、逃げ遅れた職員が巻き込まれる可能性がある。八咫烏の実働部隊の到着には、まだ十五分前後はかかる。


 久世は、この組立棟と揚重設備の構造を誰よりも完璧に理解している。


 俺たちは、すでに二度の救助で内部の危険箇所へと入り込んでいる。


 水瀬は、現場の設備と犯人の位置を外部から完全に解析できる。


 立会人は、俺たちへ正式な捕獲命令としてではなく、「人命の保護と追加崩落の阻止を最優先とした、現場への協力」を特例として依頼してきた。


     ◆


 久世は、自社のセコンドたちへ、一般の避難者の確認を任せた。


 俺は、玲奈と水瀬の分身を自分の横へ呼んだ。


 構成は、佐伯直人、久世一馬、羽田玲奈、そして水瀬の分身。


 ほんの三分前まで、互いの会社の契約を背負って全力で戦っていた二人を中心にした、即席の四人チームが結成された。


 久世が、俺の目を見て言った。


「試合中の動きで、佐伯さんがこちらの指示(意図)を瞬時に理解できるプロだということは分かりました」


 俺も、頷いて返した。


「そっちが、無茶な固定をして味方を危険に晒さない人だというのも、十分に分かりましたよ」


 互いの能力の全貌を完全には知らない。


 だが、三分間の本気の戦闘と、二度の命懸けの救助で。俺たちの間には、言葉以上の『最低限の信頼』が完全に成立していた。


     ◆


 水瀬の本体が、管制車両から建物の構造図面と設備記録を照合する。


『犯人がさらに崩落を狙うとしたら。残っているクレーン支持部、高所作業床、北側搬入口の大型防火シャッター、カウンターウェイトの支持部、屋上換気設備のどれかです』


 その時。


 北側機械室の付近の振動センサーが、一度だけ微かに異常な数値を検知した。


 さらに、ガコンッ。という、巨大な金属部品が位置をズラしたような重い音が響いた。


 水瀬が、インカムで叫ぶ。


『北側搬入口です! 大型の防火シャッターの巻き上げ軸が、落ちます!!』


 その巨大なシャッターの直下には、避難誘導中で逃げ遅れている会場の職員たちが、まだ数名残っていた。


     ◆


 俺と久世が、顔を見合わせた。


 試合開始時の、敵同士。


 最初の崩落では、相談もせずに同じ方向へ走った。


 二度目の崩落では、互いの能力を利用して連携し、救助した。


 そして三度目は。


 最初から、同じチームの仲間として走る。


 久世が、短く言った。


「……続きは後で」


 俺が、頷く。


「ええ。今は、あっちですね」


 俺と久世は、同時に床を蹴り、北側の搬入口へと向かって全速力で走り出した。


 玲奈と水瀬の分身も、それに続く。


     ◆


 北側機械室へと向かって走る途中。


 水瀬が、停止していた監視カメラの直前の映像データを復旧させることに成功した。


 映像には、作業服姿の男が映っていた。


 男は、切断されたシャッターの巨大な支持金具へと、自分の掌をそっと当てている。


 金具は完全に切れているにもかかわらず、なぜか正常な位置にピタリと留まり続けている。


 男が手を離す。何も起きない。そのまま男は、暗い機械室の奥へと姿を消していった。


 映像の時刻は、俺たちの試合が開始される『十五分前』のものだった。


『この人物が、壊れた設備を能力で維持していた犯人である可能性が極めて高いです』


 水瀬の声が響く。


『そして現在も、機械室付近に潜伏しています』


 俺は、走りながら横にいる久世へ尋ねた。


「久世さん。……さっきまで対戦相手として本気で殴り合ってた人間と組んで走るのは、やりにくいですか」


 久世は、前を真っ直ぐに見たまま、真顔で答えた。


「試合は仕事です。……これも、仕事でしょう」


 俺は、その実直すぎる答えに思わず小さく笑った。


 前方から、三つ目の金属の破断する音が響いてきた。


 俺たち四人は、さらに走る速度を上げた。


 試合開始から三分で、俺たちは同じ方向へ走った。


 そして今度は、最初から誰も、反対方向を向いてはいなかった。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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