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冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる  作者: パラレル・ゲーマー


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第19話 一対一を三つ

 試合当日の夕方。


 俺は普段通り、不動産管理会社のオフィスで自分のデスクに向かっていた。


 入居者からの水漏れの問い合わせ対応。提携している修繕業者への手配と連絡。管理物件の月次報告書の作成。エクセルでの入金データの確認。翌日の内覧予定の整理と鍵の手配。


 すべてが、これまでの俺の日常を構成していた無味乾燥なタスクだ。


 だが、今の俺には《ライブラリ》からコピーした技能がある。


 《表計算ソフト操作》Lv.2のショートカットとマクロ機能でデータを瞬時に処理し、《事務機器操作》Lv.1で資料の印刷とスキャンを無駄なく終わらせ、《電話応対》Lv.2でクレーマー気質の入居者もスマートに宥めすかす。


 以前の俺なら、間違いなく午後八時過ぎの残業コースへ流れ込んでいた仕事量が、今日は午後五時五十五分には完全に片付いていた。


 俺は提出済みの報告書、返信待ちのメールフォルダ、そして翌日へ回しても問題のない案件を最終確認した。


 誰かに自分の仕事を押し付けているわけではない。やるべきことはすべて終わっている。


 午後六時ジャスト。


 俺はパソコンをシャットダウンし、机の上を素早く整理して立ち上がった。


 その瞬間、斜め向かいの席にいた課長が、嫌そうな顔でこちらを見た。


「佐伯君。……今日も、定時で帰るの?」


 俺は一瞬だけ身構えた。


 課長の視線が、俺の綺麗に片付いた机の上をねっとりと舐め回す。未処理の案件はない。今日中にやるべき仕事は終わっている。彼が俺に残業を命じる合理的な理由は、どこにも存在しない。


 それでも、長年の昭和の職場文化が染み付いた課長は、定時で帰る部下がどうしても納得しきれない様子だった。


「いや、仕事はちゃんと終わってるみたいだから、別にいいんだけどさ。……最近ちょっと、定時で帰りすぎじゃない? 周りの目もあるしさ」


(……定時っていうのは、本来帰っていい時間のことなのでは?)


 俺の内心の常識がそう突っ込んだが、当然口には出さない。


「すみません。今日も、どうしても外せない予定がありまして」


 俺は社会人としての完璧な角度で軽く頭を下げた。


 課長は「まあ、自分の仕事が終わってるなら止めないけど……」と、渋々といった態度で認めた。


 俺は堂々と退社し、オフィスのドアを抜けた。


 エレベーターに乗り込み、扉が完全に閉まったところで、ネクタイを緩めながら深く息を吐いた。


「よし。いよいよだな……」


 これまでの企業代理戦のような、俺一人の個人戦とは違う。


 今日は、俺が代表を務める《FIELD WORKSフィールドワークス》としての、初めての三対三のチームバトルだ。


 俺一人だけが勝てばいい試合ではない。組織としての真価が問われる、本当の初陣だった。


     ◆


 会社を出て駅へ向かいながら、俺は少しだけ自分の心の変化について考えていた。


 能力者としての裏の活動を始める前は、「周りが残業しているのに、自分だけ定時で帰ると申し訳ない」という、日本人特有の変な罪悪感があった。


 だが現在は、やるべき仕事を完璧に終わらせている。誰にも迷惑はかけていない。


 その上、俺は今から、血みどろの命の危険を伴う『別の仕事』へ向かうのだ。


「むしろ今日に限っては、ここからが本業みたいなものだな……」


 もちろん、稼ぎ出す収入の桁だけを比較すれば、企業代理戦の方が圧倒的に高い。一晩でボーナスが吹き飛ぶ世界だ。


 それでも、俺は昼間の会社員を辞めるつもりは全くなかった。


 昼は、誰からも期待されない不動産管理会社の平社員。夜は、命を懸ける能力者チームの代表。


 俺は、この極端な二重生活のバランスを、自分でも呆れるほど気に入っていた。


     ◆


 俺は、新しく借りたばかりの『フィールドワークス事務所』のドアを開けた。


 中にはすでに、水瀬と玲奈が到着していた。


 玲奈は、昼間の配送会社のポロシャツから、動きやすい軽量の戦闘服へと着替えている。


 彼女の腰には、丈夫なタクティカルポーチがいくつも付けられており、中には建築用のワッシャー、短いボルト、非殺傷用の硬質樹脂弾、小型工具、そして指先を保護するための特殊手袋などが機能的に収められていた。


 ただし玲奈は、自分が持参したこれらの弾薬だけに頼って戦うつもりはない。


 今回の試合会場は、放置された物品が大量に残されている『廃ビル』だ。彼女の《圧縮射出》にとって、これ以上ない理想的な環境フィールドだった。


 水瀬は、自分のデスクでノートパソコンを開き、試合契約の最終確認と、会場の構造資料のチェックを行っていた。


 俺が入っていくと、玲奈が壁掛けの時計を見てニヤリと笑った。


「定時上がり、無事に成功したみたいですね、代表」


「まあな。帰る間際に、課長にはチクリと嫌味を言われたけどな」


「自分の仕事を時間内に終わらせているなら、文句を言われる筋合いはないですよ。そんなことより、試合に遅刻してファイトマネーの報酬を減額される方が、私たちにとってはよっぽど重大な問題です」


 玲奈の行動判断基準は、今日も見事なまでに『金銭』だった。


     ◆


 試合のマッチングが決まってから今日まで、数日の準備期間があった。


 俺はその期間中、毎日欠かさず新機能の《日次再装填》を使用し、残数が減っていた異能を順番に補充し続けていた。


 試合直前の俺の《ライブラリ》の能力台帳は、以下の通りだ。


『《身体能力強化》:20回』


『《アイテムボックス》:3回』


『《動体視の魔眼》:3回』


『《自己質量操作》:3回』


『《蓄撃》:3回』


『《無拍子》:3回』


『《重心転写》:3回』


『《圧縮射出》:3回』


 解析エラーを出している《分身》だけは使用不能のままだが、それ以外のほぼすべての手札を、最低限の『三回』まで完璧に整えた状態で初戦へ臨むことができる。


 もし《日次再装填》が解禁される前であれば、「残り一回しかない魔眼をここで使うべきか?」と、貴重な異能の消費に強く躊躇していただろう。


 だが、今回は違う。


 使うべき時には、出し惜しみせずに使う。明日になれば、一種類だけだが確実に三回まで補充できるのだ。


 俺は、能力を温存しすぎて死にかける『エリクサー症候群』の呪縛から、ようやく少しだけ解放されていた。


     ◆


 今回の試合会場は、ネクサス・マッチングが手配した、再開発予定区域に建つ七階建ての廃オフィスビルだった。


 内部には、放置された古い事務机、ひび割れたパーティション、中身の入ったままの書類棚、壊れた複合機、期限切れの消火器、剥き出しの天井配管、重い防火扉、コンクリートの壁、そして使用停止中のエレベーターなどが、生々しい廃墟の状態で残されている。


 建物の安全性に対する最低限の補強は行われているが、試合の余波によって「一部の施設が破壊されることは許可」されていた。


 施設損壊費がファイトマネーから天引きされない契約になっていることを、玲奈は事務所を出る前に三回も確認していた。


 試合形式は、三対三の『遭遇戦』。


 制限時間は一時間。両チームは、建物の全く異なる入り口から別々に侵入する。開始時点では、相手チームが建物のどこにいるのか、現在位置は全くの不明だ。


 勝利条件は、相手チームの三人全員を『戦闘不能』『降参』『医療判定による続行不能』のいずれかへ追い込むこと。


 一人が倒されても、残る二人はそのまま試合を継続できる。先に相手チームの三人をすべて無力化した側の勝利となる。


 禁止事項は、故意の殺害、降参した者への追撃、会場の敷地外への攻撃、審判用の監視機器への妨害、試合場外からの情報支援、そして選手同士を含む通信機器の使用だ。


 今回の遭遇戦では、無線機やスマートフォンを利用して、離れた味方と状況を共有することはできない。情報を伝えるには、実際に味方のいる場所まで移動して、直接合流する必要がある。


     ◆


 今回、相手と合意したルールの最大の特徴は、『能力情報マスク形式』を採用している点だった。


 事前にネクサスから提供されているのは、以下の最低限の情報だけだ。


 ・相手チーム名:《BREAK LINEブレイクライン


 ・登録人数:三人


 ・全員のTier:Tier4帯


 ・三対三のチーム戦経験あり


 個人の登録異能、格闘技の経歴、得意な距離、過去の試合の映像データ、ダンジョンの踏破実績、そしてチーム内での役割分担。それらの重要な情報は、すべて『非公開マスク』とされている。


 相手側も、俺たち《FIELD WORKS》の能力を知らない。


 名前と外見は、試合開始直前のレフェリーによるメンバー確認で初めて判明する。しかし、能力の正体は完全に不明のままだ。


 俺たちは、玲奈の《圧縮射出》も、水瀬の《分身》も、俺の多彩なコピー技能も、すべて隠したままビルへ潜入する。


 一方で、俺たちもまた、《BREAK LINE》の三人がどのような異能を使ってくるのか、全く知らない状態からのスタートとなる。


     ◆


 対戦相手である《BREAK LINE》の三人と、ビルのエントランス前で一瞬だけ顔を合わせた。


 そこから得られたのは、外見から推測できる程度の情報しかなかった。


 一人目。城戸岳人きど・がくと


 大柄な男で、拳と脛にだけ分厚い格闘用の保護具を巻いている。立ち方の重心から見て、空手やキックボクシング系の近接戦闘を主体としていることが推測できる。


 二人目。榊美雨さかき・みう


 三十歳前後の細身の女性。腰に短い金属製の短棒を差し、腿のホルダーに複数の非殺傷用の投擲針を装備している。追跡や中距離での戦闘を得意としているように見える。


 三人目。矢吹宗一やぶき・そういち


 百キロ近い重量級の男。ボクシングとムエタイをミックスしたような重い構え。飛び道具らしい装備は持っていない。


 この時点では、それ以上のことは何も分からない。


     ◆


 ビルへ入る直前、水瀬が小声で俺たちに作戦の最終確認を行った。


「佐伯さん、玲奈さん。今回は、開始直後から私の《分身》は出しません」


「……偵察に出した方が、索敵は安全なんじゃないか?」


「分身体を先行させれば索敵は楽になりますが、同時に相手へ『あいつは複数に増える能力者だ』と、手札の情報を与えることになります。能力情報がマスクされている以上、こちらの手札を見せる順番そのものが、最大の戦術になります」


 水瀬の作戦はこうだ。


 最初は、三人でまとまって陣形を組んで移動する。


 俺が前衛。玲奈が中央。水瀬が後衛。


 そして、戦闘が不可避になった時点で、初めて能力を解禁する。


 玲奈も、敵へ直接射撃するまでは、むやみに《圧縮射出》を使わない。


 俺は、基本となる《身体能力強化》以外の異能を、できる限り隠し通す。


     ◆


 試合開始の合図が、スピーカーから廃ビル全体へ響き渡った。


 俺たち三人は、一階の裏口の非常扉から、静かにビル内部へと侵入した。


 建物の中は薄暗く、埃っぽい。窓の多くは板やブルーシートで塞がれ、天井の非常灯だけが不気味に点灯している。


 階段、廊下、いくつものオフィス部屋が複雑に繋がった迷路のような構造だ。


 床には散乱した書類の紙、細かなコンクリートの瓦礫、倒れたパイプ椅子などが散らばっている。


 玲奈は、歩きながら周囲に視線を配り、自分の能力の『弾』として使えそうな小物の位置を絶えず確認している。


 水瀬は、研ぎ澄ました聴覚で周囲の微かな音を拾う。


 俺は、先頭に立って前方の通路を警戒する。


 チームとして共に動くのは初めてだが、事前の連携訓練のおかげで、足音を殺した最低限の隊列は保てていた。


 階段を上り、二階の広い通路へと出たところだった。


 ドンッ。


 遠くから、鈍い衝撃音が響いた。


 三人がピタリと足を止める。


 俺が後ろを振り返った。


「……今のは、何の音だ?」


 水瀬が答えようと口を開きかけた、その直前。


 ドゴンッ!!


 二度目の、さらに強烈な衝撃音。


 その瞬間、俺たちの足元の床と、すぐ右側のコンクリートの壁が、全く同時に激しく震動した。


     ◆


 同じ頃。二階の反対側の通路。


 《BREAK LINE》の城戸岳人は、太いコンクリートの柱に向かって、無造作に右の拳を叩き込んでいた。


 彼は、俺たち三人を直接殴ったわけではない。


 しかし、彼が柱を殴ったその衝撃が、建物の骨組みから床と壁を伝わり、離れた地点の構造物を意図的に『内側から破壊』しているのだ。


 俺たちは、まだその能力の仕組みを理解していない。


 俺の目に見えたのは、「どこからか衝撃音が聞こえた直後、俺たちの周囲の床と壁が突然崩れた」という、異常な結果だけだった。


 俺の視界の《ライブラリ》が、激しく点滅した。


『未登録の因果律改変現象を観測しました』


『解析を開始します』


『解析率:十四%』


     ◆


 突然の崩落は、無差別なものではなかった。


 まるで精密な爆破作業のように、俺たち三人の間を正確に『切断』するように起きたのだ。


 俺。


 前方のメインの廊下に一人だけ残される。背後の床が大きく陥没し、戻る道を塞がれる。そして正面の粉塵の向こうから、城戸岳人が真っ直ぐに接近してくるのが見えた。


 水瀬。


 左側のオフィス区画へと強引に追い込まれる。倒れてきた巨大な書類棚と、ひしゃげた防火扉によって、俺たちとの合流ルートが完全に物理的に塞がれた。そこへ、短棒を構えた榊美雨が音もなく滑り込む。


 玲奈。


 彼女の右側の床が斜めに大きく崩れ落ち、下の階へと通じる急な傾斜スロープと化した。玲奈は《身体能力強化》で踏ん張って転落を防いだが、その下の階の区画には、巨体の矢吹宗一が待ち構えていた。


「水瀬さん! 玲奈さん!」


 俺が叫んだが、次の衝撃で中央の天井材がバラバラと崩れ落ち、視界が完全に白い粉塵に覆われた。


 たった数秒の間に、俺たち三人は完全に分断されてしまった。


     ◆


 これは、決して偶然の崩落ではない。


 相手チーム《BREAK LINE》が、試合開始直後に毎回必ず使用する、得意の基本戦術なのだ。


 城戸の能力によって建物の構造を破壊し、相手チームを強制的に三方向へと分断する。


 榊と矢吹は、できた新しい通路へと即座に入り込み、それぞれ孤立した一人を確実に捕まえる。


 彼らの『チームとしての連携』は、ここまでだ。


 この後は、互いの戦場に一切干渉せず、助け合いもしない。自分の担当を先に倒したとしても、わざわざ建物内を探し回って仲間へ合流しようとはしない。


 一対一の状況を三つ作り出し、ただ「自分の目の前の相手を、自分で確実に倒す」ことだけを考える。


 それは、三人全員が『単独での対人戦闘』に絶対の自信を持っているからこそ成立する、凶悪な孤立戦術だった。


     ◆


 もうもうと舞い散る粉塵の向こうから、大柄な城戸が鋭く踏み込んできた。


 俺は即座に《身体能力強化》を発動させた。


 城戸の、顔面を狙った重い右の正拳突き。


 俺は左へと上体をずらしてそれを完璧に回避し、そのまま彼の無防備な脇腹へ、カウンターのミドルキックを叩き込もうとした。


 だが、城戸は拳を空振りした直後、一切の動揺も見せずに、軸足の裏で床のコンクリートを強く踏みつけた。


 ドンッ!


 その瞬間、俺の立っている足の真下の床から、直接爆発したような強烈な衝撃が噴き上がった。


 俺の身体が、衝撃でトランポリンのように宙へと浮き上がる。


「なっ……!」


 直接殴られたわけではない。蹴られたわけでもない。


 それでも、足元の硬い床そのものから、強烈なアッパーカットを受けたような不可解な打撃を受けたのだ。


 城戸は、空中に浮いた俺の腹へ向けて、容赦なく鋭い膝蹴りを叩き込もうと跳び上がった。


 俺は咄嗟に、青柳からコピーした《空中姿勢制御》Lv.1の技能を使い、空中で強引に上体をひねって軌道をずらした。


 城戸の膝を両腕のガードでギリギリで受け止め、そのまま床へと転がりながら間合いを取る。


     ◆


 俺は警戒しながら立ち上がり、脳内で仮説を猛スピードで組み立てた。


 考えられる能力の可能性は複数ある。


 地震のように振動を発生させる能力。地面から直接衝撃を生み出す能力。打撃の着弾地点をワープさせる能力。接触した構造物を遠隔操作する能力。離れた場所へ物理的な力を転送する能力。


 まだ、確定はできない。


 《ライブラリ》の解析率も、まだ答えには程遠い。


『解析率:二十一%』


 城戸は、自分の能力名を口にしてペラペラと解説するような間抜けではない。


 俺が能力の仕組みを理解して対応する前に、圧倒的な手数で押し切って倒すつもりだ。


     ◆


 俺は、床からの未知の攻撃を警戒し、壁際へ寄るのを避けながら、ボクシングのフットワークで細かくステップを踏み、速いジャブで城戸との距離を測った。


 城戸は、俺のジャブを前腕の硬いガードで重く受ける。


 俺が、彼のガードの外側へと右に回り込もうとした瞬間。城戸が、自分のすぐ横にあるコンクリートの壁へと、強烈な肘打ちを叩き込んだ。


 その直後。


 俺の背後にある、城戸が叩いた壁と繋がっている『同じ壁の延長線上』から、突然、目に見えない衝撃の塊が飛び出してきた。


 ドゴッ!


 背中を丸太で殴られたような強烈な衝撃。


 俺の身体が、前へと無防備に押し出される。


 そこへ、待ち構えていた城戸の左フックが振り抜かれた。


 俺は辛うじて右腕のガードを上げるが、腕の骨が軋むほど痺れる。


 こいつは、ただの厄介な能力頼りの人間ではない。純粋な近接格闘の技術とパワー自体も、間違いなくトップクラスだ。


「……建物の中で、俺とやり合うのは間違いだったな」


 城戸が、拳のプロテクターを鳴らしながら獰猛に笑った。


 俺は奥歯を噛み締めた。


 床も、壁も、この建物のすべてが、こいつの攻撃手段になっている。


 こいつにとっては、この廃ビル全体が、自分の拳の延長線リーチなのだ。


     ◆


 俺は、まだ切り札を乱発しなかった。


 《動体視の魔眼》を使えば、城戸の細かな予備動作や筋肉の動きは鮮明に見えるようになる。


 だが、能力の根本的な『仕組みと法則』が分からないままでは、いくら本人の動きがスローで見えても、「次に建物のどこから衝撃が飛んでくるのか」という攻撃の着弾地点を予測することはできない。


 まずは、通常の身体能力と格闘技能だけで、被弾を最小限に抑えながら情報を集める。


 城戸がどこへ触れたか。


 衝撃が、俺の周囲のどこから飛び出してきたか。


 彼が床や壁を打ってから、俺に衝撃が届くまでに、何秒(何コンマ)のタイムラグがかかったか。


 彼が殴った柱、壁、床が、建物の構造としてどう繋がっているか。


 攻撃の威力が、距離によってどう変化しているか。


 俺は、ダメージを蓄積させながらも、極度に冷静な頭で観察を続けた。


 そして、一つの事実に気づき始めていた。


(……城戸の打撃が『直接触れていない』独立した構造物からは、絶対に攻撃が飛んできていない)


『解析率:三十七%』


 解析のパーセンテージが上がる。


 だが、完全な攻略の答えには、まだ届かない。


     ◆


 一方、左側の倒壊したオフィス区画。


 倒れた巨大な書類棚と、ひしゃげて閉じた防火扉によって、水瀬は俺たちから完全に切り離された密室へと閉じ込められていた。


 そこへ、金属製の短棒を肩に乗せた榊美雨が、余裕のある足取りで近づいてきた。


 美雨は三十歳前後。細身だが、その歩き方には一切の隙と無駄がない。反対の指の間には、すでに複数の非殺傷用の鋭い投擲針が挟まれていた。


 美雨は、目の前にいる小柄な水瀬を、ただの非力な十八歳の新人だと見て、完全に舐めてかかっていた。


「へえ。よりによって、一番弱そうな嬢ちゃん一人がこっちに残ったか」


 美雨が、同情するような溜め息をつく。


「どう料理してやろうかと思ったけど、別に未成年を痛めつけるような悪趣味はないんだ。怪我して泣く前に、早めに降参のタップをしなよ?」


 水瀬は、完全に塞がれた背後の通路をチラリと見た。


 次に、目の前で短棒を構える美雨を見る。


 そして、少しだけ困ったように、小首を可愛らしく傾げた。


「うーん……。見事に分断されちゃいましたね」


「そういうこと。ここは、誰の助けも来ない一対一だ」


 水瀬は、口元にいつものふわりとした笑顔を浮かべた。


「一対一にしたつもりなんでしょうけど……私の異能を事前に知っていれば、それは完全な悪手だって分かるんですよね」


 水瀬の身体の輪郭が揺らいだ。


 次の瞬間、水瀬のすぐ隣に、全く同じ姿をしたもう一人の水瀬蓮花がスッと現れた。


 美雨の余裕のあった顔が、一瞬にして引きつる。


「げっ……!」


「はい。お分かりですね?」


 二人の水瀬が、全く同じ角度の笑顔を浮かべて、声を揃えて言った。


「「二対一です♡」」


     ◆


 美雨は一瞬動揺したが、さすがに場数を踏んでいるだけあって、すぐに冷静な戦闘態勢へと戻った。


 目の前にいる二人の水瀬。どちらが本体で、どちらが分身ダミーなのか、見た目では全く区別がつかない。


 しかし、美雨には《標的固定》という異能があった。


 美雨は、分身が現れる直前まで、ずっと目で追っていた水瀬の姿を、能力の『対象』として指定した。


 その瞬間、美雨の脳内の感覚器官に、対象までの明確な『方向』、おおよその『距離』、そして相手の『移動方向』が、赤いレーダーのようにハッキリと刻み込まれた。


 美雨は、自分の能力名を口に出して宣言するような馬鹿な真似はしない。


 水瀬から見れば、美雨が何をしたのか、何の能力を使ったのかは全く分からないはずだ。


     ◆


 二人の水瀬が、一斉に左右へと分かれて走り出した。


 一人は、倒れた事務机の向こう側の死角へ。


 もう一人は、ガラスが割れた隣の会議室の奥へ。


 美雨は、全く迷うことなく、右へと走った『最初から存在していた方の水瀬』を追った。


 パーティションの壁に隠れて相手の姿が完全に見えなくなっても、彼女の足取りに一切の迷いはない。《標的固定》が示す正確な方向へと、最短距離で一直線に走る。


 逃げている水瀬は、その美雨の異常な行動を冷静に観察していた。


(……完全に目視できていないのに、私を一切の迷いなく追ってきている。追跡系の能力の可能性が高いですね)


     ◆


 美雨が、壁の角を曲がる直前。


 見えない死角に向かって、指の間に挟んでいた投擲針を鋭く投げ放った。


 投げられた針は、壁際を真っ直ぐに通過した後、まるで意思を持っているかのように空中でわずかに軌道を曲げ、壁の裏で逃げていた水瀬の肩を正確に狙い撃った。


 水瀬は、間一髪で身体を低く沈めてそれを回避した。


 針は、水瀬の頭をかすめ、背後のパーティションに深く突き刺さった。


『もう一人』の水瀬が、美雨の背後の離れた安全な場所から、その一連の動きを静かに見ていた。


 水瀬の脳内で、推測が確信へと変わる。


 最初の一人(指定した標的)だけを、異常な精度で追っている。


 視界が完全に切れても、位置が正確に分かる。


 放った投擲物も、対象へ向けてわずかに自動誘導ホーミングできる。


 そして何より……背後にいるもう一人の自分(分身)の存在には、全く反応していない。


 広範囲を網羅するレーダー索敵ではない。


『単一対象の指定追跡』。それが彼女の能力の正体だ。


     ◆


 水瀬は、能力の弱点をさらに明確に確認するテストを行った。


 指定されていると推測される方の水瀬を、美雨からさらに遠ざけるように走らせる。


 同時に、もう一人の水瀬が、わざと美雨の視界の端を横切るように姿を見せた。


 美雨の目が、一瞬だけそちらへと動いた。


 だが、彼女の身体は、指定対象である最初の水瀬を追う方向(真っ直ぐ)へ向いたままだった。


 標的を、すぐにもう一人の水瀬へと即座に変更することはできないのだ。


 あるいは、変更リセットするためには、一定の条件や長い待ち時間クールダウンが存在する。


 水瀬は、そこまでを完璧に見抜いた。


「便利ですね、その能力」


 通路の奥から、水瀬の声が響いた。


「弱い相手を一人だけ逃がさずに追い詰める目的なら、最高に使い勝手がいいです」


 美雨が、短棒を握り直して足を止めた。


「……何が言いたい?」


「一度に『一人』しか追えない、変更も効かないシステムなら、二つに増える私とは、決定的に相性が悪いということです♡」


     ◆


 場面は変わり、一階下の広い事務フロア。


 玲奈が、細かいガラスの破片が散らばる床をスライディングで滑りながら、ポーチから取り出した重いワッシャーを指先から射出した。


 キィィン! という鋭い金属音。


 《圧縮射出》によって弾丸並みの速度で飛んだワッシャーが、巨漢の矢吹の顔面へと到達する直前。


 矢吹の顔の数十センチ手前の何もない空中で、ワッシャーが突然、斜め横へと見えない力で激しく弾き飛ばされた。


 弾かれたワッシャーが、コンクリートの壁に深く突き刺さる。


 玲奈は、目を見開いて立ち上がった。


「……弾いた?」


 矢吹は、両腕を顔の前に高く上げたボクシングの強固な構えのまま、ゆっくりと、だが確実に前進してくる。自分が何をしたのか、得意げに説明するような間抜けな真似はしない。


 玲奈は、後ろへ下がりながら二発目を撃った。


 今度は、顔ではなく足元を狙う。


 しかしそれも、矢吹のすねの数十センチ手前で、見えないトランポリンの壁にでも当たったかのように、ポーンと明後日の方向へと弾き返された。


     ◆


 玲奈は、焦らなかった。


「相手が無敵の自動防御能力を持っている」などと、安易に決めつけて絶望したりはしない。冷静に、可能性を整理する。


 自分の射出した弾の運動エネルギーそのものへ干渉しているのか。


 金属という材質だけを磁力のように弾いているのか。


 接近してくる一定速度以上の高速物体を、全方位で自動排除しているのか。


 矢吹の前方だけに、見えない物理的な防壁シールドが張られているのか。


 圧縮した空気の圧で、弾の軌道を強引に逸らしているのか。


 玲奈は、両手を使って、全く違う角度から同時に二発の小石を撃ち出した。


 一発は、矢吹の正面の顔面へ。


 もう一発は、横にある金属製のキャビネットの角へ当てた、側頭部を狙う鋭角な『跳弾』。


 矢吹は、正面の弾を見えない壁で弾いた。


 直後、彼は素早く身体の向きをひねり、側面の跳弾へとその『能力の向き』を変えようとした。


 跳弾も弾かれた。だが、切り替えのタイミングがコンマ数秒遅れ、弾かれた小石が矢吹の右肩の肉をかすめて浅く切り裂いた。


 玲奈は、その一瞬の攻防を見逃さなかった。


(……全身を卵の殻のように覆う、無敵の自動防御じゃない)


(『一方向』へだけ見えない膜を展開して、それを相手の攻撃に合わせて自分で向きを変えてるんだ)


     ◆


 矢吹も、玲奈の能力の正体を知らないまま試合に入った。


 しかし、数発の攻撃をその身で受ければ、「小型の物体を、手元から高速で射出する遠距離能力」だと容易に理解できる。


 矢吹は、飛び道具に対して極めて強い相性を誇る《反発膜》を身体の正面に展開したまま、重い足取りで前進を続ける。


 玲奈は、射撃で牽制を続けながら、少しずつ後退していく。


 矢吹は決して焦って走らない。正面からの弾を確実に弾き落とし、玲奈が逃げ込める横の通路を少しずつ壁際へと追い込んで塞いでいく。


「運が悪かったな、お嬢ちゃん。俺の能力とは、相性が最悪だ」


 矢吹が、低い声で威圧的に言った。


 玲奈は、ポーチから新しいボルトを取り出しながら、冷たい声で返した。


「能力一つの単純な相性だけで、もう勝った気にならないでください。計算が甘すぎます」


     ◆


 玲奈は、矢吹本人を直接狙うことをやめた。


 指先から射出されたボルトが、矢吹の頭上にある天井の『大型照明器具の留め具』を正確に撃ち砕いた。


 ガタンッ! と音を立てて、重い照明器具が矢吹の頭上へと落下してくる。


 矢吹は舌打ちをし、上方へと《反発膜》の向きを変え、落下物を弾き飛ばす。


 その膜の向きが上へ固定されている間に、玲奈は横の開けた通路へとダッシュで逃げ込んだ。


 続いて玲奈は、走りながら環境を破壊していく。


 壁際の消火器の固定具を撃ち抜いて粉末を散乱させる。書類棚の脚を撃ち砕いて通路に倒れさせる。防火扉の開閉装置を破壊して退路を塞がせる。天井の太い配管の留め具を撃って落下させる。


 矢吹へ直接当てなくても、環境そのものを動かし、破壊し、足止めと障害物として利用する。


 だが、矢吹は《反発膜》だけでなく、基礎となる《身体能力強化》も持っている。


 倒れてきた重い鉄の棚を、強化された剛腕で強引に押し退ける。


 閉じかけた防火扉の下を、巨体に似合わないスピードで滑り抜ける。


 落下物を膜で弾きながら、確実に距離を詰めてくる。


 玲奈の直接の射撃は、反発膜によって通用しにくい。


 得意の環境攻撃トラップも、決定打となるほどのダメージは与えられていない。


 戦況は、確実に玲奈にとって不利な方向へと傾き始めていた。


     ◆


 場面を、水瀬の戦いへと戻す。


 《標的固定》で指定された方の水瀬が、意図的に狭い行き止まりの通路へと逃げ込む。


 美雨は、ウサギを狩る猟犬のようにそれを追う。


 手に持った短棒を鋭く振るい、逃げ道を塞ぐように投擲針を正確に投げ込む。能力によって相手の位置を完全に把握しているため、角を曲がっても一切迷うことなく最短距離で追い詰める。


 美雨の思考は単純明快だった。


『もう一人のダミーは、こいつを片付けた後でゆっくり処理すればいい。まずは、確実に標的にしたこの一人を徹底的に叩き潰す』。


 それこそが、水瀬の仕掛けた冷酷な罠だった。


     ◆


 指定されていない『もう一人』の水瀬は、美雨の視界の外を、完全に足音を消して並走していた。


 隣のオフィスの暗がり。薄いパーティションの裏側。倒れた巨大な棚の死角。


 美雨は、指定した対象の位置をあまりにも正確に、レーダーのように追えるがゆえに、逆にそちらの『感覚』に脳のリソースを完全に依存し、固定されてしまっている。


 だから、背後から音もなく忍び寄る、もう一人の水瀬への注意(警戒)が決定的に欠落していた。


 美雨が、追い詰めた標的の水瀬へ向かって、トドメとばかりに短棒を鋭く振り下ろした。


 水瀬はそれを避けることなく、両腕を交差させてガシッと受け止めた。そして、わざと自分の動きを完全に止めた。


 美雨が「貰った!」と勝機を確信し、さらに深く踏み込もうとした瞬間。


     ◆


 背後の死角から、もう一人の水瀬が音もなく飛び出し、美雨の投擲用の針を握っていた腕をガッチリと掴んだ。


「なっ!?」


 美雨が驚愕して振り向こうとする。


 その瞬間、正面にいた水瀬が、ガラ空きになった美雨の膝裏を鋭く蹴り抜いた。


 美雨の体勢が、完全に崩れる。


 背後の水瀬が、掴んだ腕を背中側へと容赦なく捻り上げる。


 正面の水瀬が、美雨の握っていた短棒を素早い動きで奪い取った。


 美雨はパニックになりながらも、《身体能力強化》の力で強引に二人を振りほどこうと暴れた。


 しかし、水瀬もまた、二人ともが《身体能力強化》を発動しているのだ。


 一人を正確に追跡できても、二人分の強化された筋力を、一度に同時に押さえ込むことは不可能だった。


     ◆


 美雨は、背後から関節を極めている水瀬へと、能力の『標的』を変更しようと意識を集中した。


 だが、《標的固定》は、一度指定すると一定時間が経過するまで、任意で解除や変更ができない縛りがあった。


 新しく背後に現れた脅威へと、能力の恩恵を移すことができない。


 水瀬は、美雨の視線の動きと焦った反応から、その制限も完全に察していた。


「やっぱり、都合よくすぐには標的を変えられないんですね♡」


 美雨が、屈辱に歯を食いしばる。


「この……! 卑怯な……!」


「能力自体は、とても強いですよ。……本当に一対一なら、の話ですけど」


 正面の水瀬が、容赦なく美雨の軸足を払う。


 背後の水瀬が、崩れた美雨を床へと強引に押し込んだ。


 首を腕で完全に制圧し、片腕を折れる寸前の角度で極める。美雨がこれ以上少しでも抵抗すれば、確実に関節が破壊されるポジションだ。


 水瀬が、冷たい笑顔で降参を促した。


「腕を折って、まだ続けますか?」


 美雨は数秒間、ギリギリと歯を鳴らして抵抗の機会を窺った。


 だが、二人を同時に振りほどく物理的な手段がないことを悟り、絶望したように床を二度、平手で叩いた。


 降参タップアウト


     ◆


 試合会場の管理システムが、音声アナウンスを響かせる。


『《BREAK LINE》榊美雨、降参タップアウトを確認』


『戦闘続行不能』


『残存人数――FIELD WORKS三名、BREAK LINE二名』


 水瀬は、埃一つ被っていない、ほぼ無傷の状態だった。


 試合開始から、わずか数分。


 三つに分かれた戦場の中で、彼女が最も早く、あっさりと勝利を確定させた。


 これが、相手チームの『想定外』だった。


 《BREAK LINE》は、自分たちが有利に戦うために、強制的に三つの一対一を作った。


 しかし彼らは、分断した相手である水瀬蓮花という少女が、『そもそも一対一の状況を作ること自体が物理的に不可能な能力者』であることを、夢にも思っていなかったのだ。


     ◆


 《BREAK LINE》のチーム方針であれば、自分の担当する一人を倒した後、自分の勝利の安全を確定させ、その場で他の二人が勝つのをのんびりと待つのが定石だ。


 しかし、水瀬は違った。


 美雨の降参判定が出た瞬間、水瀬は倒れた相手に一瞥もくれず、他の二人の戦況確認へと即座に移行した。


 二人の水瀬が、全く別の方向へと走り出す。


 一人は、上階に残る直人の激しい戦闘音を確認するために階段へ。


 もう一人は、下階から微かに聞こえる、硬質な金属の弾ける音を追ってスロープへ。


     ◆


 上階からは、コンクリートの壁が砕ける爆音、床を踏み抜くような重い衝撃音、そして直人と城戸の激しい肉弾戦の打撃音が、絶え間なく続いている。


 激しい死闘の最中だが、直人はまだ確実に戦えている。


 水瀬は、音だけで即座に戦況を判断した。


(佐伯さんは、しぶといですから。すぐには絶対に倒れません)


(玲奈さんの方は、遠距離射撃の音が一方的に後退して、追い詰められています)


 危険なのは、玲奈だ。


 水瀬は迷うことなく、二つの身体を合流させ、下階の事務フロアへと向かった。


     ◆


 玲奈は戦いながら、矢吹の《反発膜》の性質をかなり正確に把握していた。


 防御できる方向は、常に一方向のみ。


 膜は、身体から数十センチという極めて近い位置へ展開されている。


 小さく高速な物体ほど、簡単に弾き返される。


 複数方向への膜の切り替えには、コンマ数秒の遅れ(ラグ)が生じる。


 重く大きな物体は、完全には弾き飛ばせず、軌道を逸らすのが精一杯だ。


 そして、矢吹本人が目で見て、膜の向きを意識的に判断して展開している。


 能力の弱点は、完全に丸裸になっている。


 しかし、玲奈一人では、その『複数方向から同時に攻める』という勝ち筋を実行するための、物理的な手数が足りない。


 跳弾を使って死角から狙っても、矢吹は素早く身体を回して対応してしまう。大きな棚を倒して押し潰そうとしても、避けるか、強化された筋力で強引に押し退けてくる。


 理屈は完全に解見えた。


 だが、それを実行する力が足りない。


     ◆


 玲奈が、通路の防火扉の留め具を正確に撃ち抜く。


 重い扉が閉まり、矢吹の巨体を一時的に遮る。


 だが矢吹は、扉が完全に閉じきる直前に、強引に隙間へ身体をねじ込んだ。


 分厚い肩で防火扉を力任せに押し返し、そのまま突破してくる。


 玲奈が、近距離から短いボルトを射出する。


 矢吹は《反発膜》でそれを斜め上へと逸らし、そのまま一気に距離を詰めて、強烈な左のローキックを放った。


 玲奈は咄嗟に脚を引いてかわそうとするが、完全には避けきれない。


 太腿の外側に、バチィッ! と重い衝撃が走る。


 痛みに顔をしかめ、体勢が大きく崩れる。


 続く矢吹の右ストレート。


 玲奈は、倒れていた事務机を両足で蹴り飛ばして後退し、ギリギリで回避した。


 なんとか立ち上がったものの、ローキックを受けた脚の動きが、確実に少し鈍っていた。


     ◆


 それでも、玲奈のセコンドや観客からの評価は決して落ちていなかった。


 彼女は、相性が圧倒的に不利な状況でも、ただパニックになって逃げ惑うだけではない。


 矢吹が『一方向しか守れない』という致命的な弱点を利用し、


 正面へ牽制の射撃を行いながら、側面の配電盤を破壊して火花を散らす。


 背後へ高く積まれた書類の束を倒して、足元を狂わせる。


 足場へ細かなガラスの瓦礫を散乱させ、突進のスピードを殺す。


 そうした無数の細かい環境妨害トラップを組み合わせることで、矢吹の接近速度を極限まで落としていた。


 一人では決して勝てないが、そう簡単には捕まらない。


 彼女が、ソロ活動で危険な捕獲任務を四件も無傷で成功させてきた、泥臭い生存経験が確実に活きていた。


 矢吹も、内心で舌打ちをしていた。


(……ただの後衛の射撃手だと思ってたが、思ったよりずっとしぶとくて面倒な相手だ)


     ◆


 短く、上階の直人戦へと場面を戻す。


 直人は、城戸の能力が『城戸自身が直接触れた固体の構造物を通して、衝撃を移動させる』ものだと、ほぼ完全に絞り込んでいた。


 城戸が、直人の足元の床を強く踏みつけた。


 その瞬間、直人は《身体能力強化》の脚力で、真上へと高く跳躍する。


 足元のコンクリートから見えない衝撃が火山のように噴き上がるが、直人はすでに床から完全に離れているため、直撃を免れる。


 城戸が、横のコンクリート壁を思い切り殴る。


 直人は、壁から大きく身体を離し、部屋の中央へ位置を取る。


 壁からの衝撃の波は、直人には届かない。


『解析率:五十九%』


 しかし、城戸も単調な馬鹿ではない。


 直人が床の衝撃を嫌って『空中へ逃げる』と読むや否や、直人の落下予測地点へと向けて直接踏み込み、強烈なアッパーカットを構えた。


 空中にいる直人には、避けるための足場がない。


 だが、直人は空中で《重心転写》を発動した。


 自分の重心を、本来の落下地点から斜め後ろへと不自然にズラす。


 直人の身体が、空中で奇妙に折れ曲がるように軌道を変えた。


 城戸の必殺のアッパーカットが、虚しく空を切る。


 城戸が、試合開始から初めて驚愕の表情を見せた。


「……お前、空中で動きの軌道を変えたのか!?」


「さあね」


 直人はポーカーフェイスで答えをはぐらかす。互いに能力名は伏せたままの、高度な情報戦だ。


     ◆


 城戸の能力の基本法則は見え始めた。


 それでも直人は、まだ彼を完全に攻略できてはいない。


 城戸は、単調な攻撃をしない。


 直接の打撃。床からの噴き上がる衝撃。壁からの見えない砲弾。天井材を破壊しての落下物攻撃。


 それらを、ランダムに混ぜ合わせて放ってくる。


 予備動作が少ないため、次の瞬間にどれが本命の攻撃として飛んでくるのか、完璧には読めないのだ。


 直人は、温存していたカードを切った。


 《動体視の魔眼》を発動する。


 城戸の、足裏の向き。拳が壁に接触する角度。彼が衝撃を流そうと無意識に視線を向けた構造物のライン。微細な体重移動。


 すべてが、スローモーションのように鮮明な情報として直人の脳に流れ込んでくる。


『《動体視の魔眼》残り二回』


 ここから、直人の本格的な『反撃のための能力解析』が始まる。


 ただし、この死闘の決着は、まだ少し先の話だ。


     ◆


 再び、下階の玲奈へと場面を移す。


 玲奈は、足を引きずりながら、ついに巨大なメインの会議室へと追い詰められてしまった。


 背後は、完全に割れた巨大な窓ガラス。十数メートル下はコンクリートの地面だ。


 左右は、重厚な木製の棚が倒れて完全に道を塞いでいる。


 そして正面には、巨漢の矢吹が仁王立ちしている。


 使える小物は、ポーチの中にまだある。


 だが、正面から撃てば、当然《反発膜》に弾き落とされる。跳弾で死角を狙っても、矢吹はすでにその手口を警戒し、容易には引っかからない。


 玲奈は、乱れた息を整えながら、最後まで諦めずに周囲の環境を観察した。


 天井に這う、大型の空調ダクト。


 壁際に置かれたままの消火器。


 床に転がっている、長い金属製のポール。


 まだ、利用できる環境(武器)は残っている。


 だが、今の彼女が一人で同時に動かせるのは、一箇所につき一つずつだ。


 それでは、矢吹の膜を突破することはできない。


 矢吹が、勝利を確信したように着実に距離を詰めてくる。


「粘ったが、もう逃げ場はないぞ。お嬢ちゃん」


「……まだ、私の試合は終わってません」


 玲奈は、悔しそうに歯を食いしばりながら、両手にボルトを構えた。


     ◆


 矢吹は、仲間の美雨がすでに降参したことを知らない。


 今回の遭遇戦では、離れた味方との通信そのものが禁止されている。


 それでも、自分の相手を倒した後にほかの戦場を探して合流することはできる。だが《BREAK LINE》は、分断後は各自が自分の獲物を倒せば十分だと考えるチームだった。


 矢吹は、自分が目の前の玲奈を倒す頃には、城戸と美雨もそれぞれ勝っていると信じて疑っていなかった。


 玲奈もまた、水瀬がすでに勝って無傷であることを、まだ知らなかった。


     ◆


 矢吹が、トドメを刺そうと玲奈へ向かって大きく踏み込もうとした瞬間。


 彼の背後の、開け放たれた廊下から。


 場違いなほど明るく、ふわりとした少女の声が響いた。


「一対一の状況を作って勝ったつもりなんでしょうけど」


 矢吹が、驚いて後ろを振り返る。


 廊下の入り口に、小柄な水瀬がニコニコと微笑んで立っていた。


 さらに、反対側の壊れたパーティションの向こう側の死角から。


 全く同じ姿をした『もう一人』の水瀬が現れ、声を揃えた。


「「その一対一、もうとっくに終わりましたよ♡」」


 玲奈が、張り詰めていた糸が切れたように深く息を吐き出した。


「……援軍、来るのが遅いですよ。水瀬さん」


 水瀬は、少しだけ申し訳なさそうに笑った。


「すみません。こちらの相手の心を折るのに、ほんの少しだけ時間がかかっちゃいまして♡」


 実際には、たった数分しかかかっていない、恐ろしいほどの速攻劇だったのだが。


 矢吹の顔から、初めて余裕が消え去り、焦燥の色が浮かんだ。


 正面に、ボルトを構えた玲奈。


 左右の死角に、二人の水瀬。


 彼の絶対の盾である《反発膜》は、一度に『一方向』しか守れないのだ。


 玲奈が、ニヤリと好戦的に口元を上げた。


「……なるほど。そういうことですか」


「それなら、完璧な勝ち筋ができました」


     ◆


 水瀬の二つの身体が、矢吹の左右へと大きく分かれて展開する。


 玲奈が、床に落ちていた太い建築用ボルトを拾い上げ、指先にセットする。


 矢吹は、三方向からの脅威に対し、《反発膜》をどちらへ向けるべきか完全に迷い、冷や汗を流していた。


 同じ頃、上階では。


 直人が《動体視の魔眼》の情報をフル回転させ、城戸の破壊能力の完全な解析と攻略へと乗り出していた。


 三つに分断された戦場。


 その一つでは、すでに一方的な勝敗が決した。


 そしてもう一つでは、一対一の絶望的な状況が、三対一の圧倒的有利へと反転した。


 《BREAK LINE》の分断作戦は、確かに成功していた。


 ただし彼らは、分断した相手の『非力な新人』に見えた一人が、自分たちの担当をあまりにも早く、そして無傷で片付けてしまう可能性を、全く考慮に入れていなかったのだ。

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分かってはいたが、やはり隠し持っていたか~。これだけとも限らないか。
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