第八章 商人ギルドと売り場改革
翌朝、商人ギルドからの使者として、若い女性が王城を訪れた。
ニナと名乗ったその女性は、二十代半ばに見えた。
黒髪を一つに束ね、商人らしい紺の上着を着ていた。
細い指には、いくつもの計算用具が下がっていた。
小さな算盤のようなもの、銀の輪っか、巻物入れ。
歩くたびに、それらがしゃらしゃらと音を立てていた。
「設計師殿、お初にお目にかかります。商人ギルドの代理人、ニナでございます」
彼女はしっかりした声で名乗った。
背筋がぴんと伸びていて、目に強い意思があった。
「お話を、伺います」
俺は応接の間に彼女を通した。
ベルカ翁がいつものように、隣に座って、お茶を注いでくれた。
ニナは巻物を一つ広げて、机に置いた。
それは王都の中央市場の地図だった。
「我々ギルドは、この市場の運営を任されておりますが、ここ数年、商いが、振るいません」
彼女は、地図の上を指で示した。
「売り場の配置がまちまちで、買い物客が、迷うのです。同じ品物の店が散らばっていて、客は何軒も回らねばならない。結局、面倒くさくなって、市場全体への足が遠のいてゆきます」
俺は地図を見ていた。
たしかに、雑然としていた。
肉屋の隣に布屋があり、その隣にまた肉屋がある、という具合だった。
「お客様は、どんな方々ですか」
俺はいつもの問いを発した。
ニナは即座に答えた。
「市民層は、三段階に分かれます。下層の主婦、中流の家庭、貴族の使用人。それぞれ、目的も、買い方も、違います」
俺は嬉しくなった。
こちらが説明する前に、相手から具体的な情報が出てくる。
それは優秀なクライアントの徴だった。
「では、それぞれのペルソナを、書きましょう」
俺はノートに、三人の客像を書き起こした。
「主婦・三十代・子供二人・朝の二時間に買い物を済ませたい・荷物は重くしたくない・夕食の献立をその場で決める
中流の家庭・四十代の夫婦・週末の昼下がりに買い物・新しい食材や流行を楽しみたい
貴族の使用人・主人の要求が細かい・品質第一・大量買い・荷物の運搬は別途依頼」
ニナは、それを息を呑んで見ていた。
「……驚きました」
彼女は、口元を片手で覆った。
「私たちは、客をただ『市場のお客様』と呼んでおりました。けれど、こうして書かれてみると、まったく、別の人たちなのですね」
ベルカ翁がにやりと笑った。
「設計師の魔法は、人を、別々に見ることから始まる」
俺は、市場の地図に新しい区画を描いた。
入口から入って、まず、生鮮食品の通り。
主婦が時短で買い物できるように、肉屋、魚屋、八百屋を一直線に配置した。
レシピが書かれた看板を、所々に置く。
「今日の夕飯」「子供が喜ぶ一皿」「冬の温まる鍋」と書いて、献立の悩みを減らす。
その奥に、ゆっくり歩ける、嗜好品の通り。
香辛料、紅茶、菓子、布、装飾品。
中流の家庭が、週末に楽しみながら回れるように、店と店の間に椅子と日除けを設けた。
さらに奥に、高級品の区画。
最上の食材、貴族向けの織物、書物、絵画。
入口にギルドの受付を置き、必要な物を伝えれば、代理で揃えてくれる仕組みにした。
配達の手配も、その場で済ませる。
「これは……夢のような市場ですね」
ニナの目が、輝いていた。
「実現は、難しいですか」
俺は訊いた。
「いいえ。今すぐ、ギルド総会に諮ります。三月以内に、改装を終えましょう」
ニナの動きは、早かった。
その日のうちに、ギルド総会が招集され、改装計画が承認された。
俺は、改装中の市場を、何度か視察に行った。
工事の現場では、職人たちが新しい配置に首を傾げながら、しかし確実に変えていった。
ニナは、現場で陣頭指揮を取り、職人たちに何度も、ペルソナの話をしていた。
「主婦のお客様は、時間がないのよ。看板の位置は、目線の高さに揃えて」
「貴族の使用人は、品質を見たい。商品の照明は、もっと明るく」
俺の言葉が、彼女を通じて、現場の隅々まで、行き渡っていた。
東京で、横田に奪われ続けたあの感覚と、まるで対極だった。
三月後。
新装開店の朝、市場の入口でニナが俺を迎えた。
彼女の顔は、晴れ晴れとしていた。
開店の鐘が鳴ると、待ちわびた市民たちが、なだれ込んできた。
最初は、新しい配置に戸惑っていたが、看板や案内人のおかげで、すぐに馴染んだ。
主婦たちは、一時間で買い物を終え、笑顔で帰っていった。
家族連れは、嗜好品の通りで、楽しそうに買い回りをしていた。
貴族の使用人は、受付で要望を伝えて、優雅にその場を後にした。
夕方、ギルドの集計が出た。
売上は、改装前の二倍。
苦情の数は、三分の一以下。
ニナが、俺の手を両手で握った。
「設計師殿本当にありがとうございます」
彼女の瞳には薄く涙が滲んでいた。
「私は商人として、十年やってきましたがこんなに客の顔が嬉しそうな日は、はじめてです」
俺は何も言えなかった。
ただ、両手で、ニナの手を握り返した。
彼女の指は、計算用具で擦れて、節くれだっていた。
それは長年、計算と算盤に向き合ってきた、商人の手だった。
「ニナさん、これはあなたが十年やってきた仕事のおかげです」
俺はようやく、言った。
「私は書き出しただけ。あなたが走った」
ニナは首を激しく振った。
銀の輪っかが、ちりんと鳴った。
「いえ、いえ。書き出してくれた、ということがこんなに大きいなんて、知りませんでした」
その夜、王宮へ帰る途中、馬車の中で俺はノートを開いた。
ニナのページを、新しく作った。
「ニナ・二十六歳・商人ギルド代理人・父は同業の商人・幼くして帳簿を覚えた・誇りは、商いで人を喜ばせること・恐れは、商いが冷たい数字に堕すこと」
ペンを置いて、窓の外を見た。
市場の方角からまだ、人々のざわめきが聞こえていた。
誰かを救うとは、こういうことかと、俺はようやく、自分の言葉で答えを掴みかけていた。
宮殿の門が見えた頃、御者が振り返って言った。
「設計師殿、お疲れ様でした。今夜は、よくお眠りください」
御者すら、俺をそう呼ぶようになっていた。
そして、別の馬車が月明かりの中、こちらへ向かって、近づいてきていた。
別の馬車が、月明かりの中、こちらへ向かって、近づいてきていた。
それは宮廷の伝令馬車だった。
車輪の縁が、夜露に濡れて、淡く光っていた。
馬車が、俺の馬車のすぐ前で止まった。
御者の代わりに、王女アリーシャの侍女が、急ぎ足で降りてきた。
肩で息をしている。
焦りが、見えていた。
「設計師殿、王女様が、お呼びでございます。火急の用件と仰せでございます」
俺はベルカ翁と顔を見合わせた。
ベルカ翁が頷いた。
「行こう」
宮殿の奥、王女の私室。
そこに、アリーシャは、燭台の灯りの中で、立っていた。
彼女の表情は、これまでで一番、強張っていた。
銀の髪が、燭台の風に揺れていた。
「司、座って」
彼女はソファを示した。
俺は腰を下ろした。
ベルカ翁がその隣にゆっくり座った。
「ご報告があります」
彼女の声は、低かった。
「父が、新しい人を、宮廷に招きました」
「新しい人?」
「異国の芸術家、と父が言っています。今日、登城して、父の心をすっかり掴んだそうです」
俺の背筋に、嫌な感覚が走った。
それは根拠のない、ただの予感だった。
だが、なぜか、心臓が急に早く打ち始めていた。
「その人は、なんという名前ですか」
俺は自分の声が、平静を装っていることに、気づいていた。
アリーシャは、紙片を手にしていた。
彼女はそれを見ながら、ゆっくり答えた。
「ヨコタ・タケシ、と名乗っているそうです」
その瞬間、燭台の炎がふっと震えた。
夜風が、窓の隙間から忍び込んだのか、それとも別の何かか。
俺の指先が、握り込んだノートの表紙に、強く食い込んだ。
その男だった。
俺を、東京で踏みつけにしてきた、あの男だった。
「司?顔色が、悪い」
アリーシャが、こちらに身を乗り出した。
「知っているのですか、その男を」
「……知っています」
俺の声は、自分でも驚くほど、平坦だった。
「俺の世界での、上司です」
ベルカ翁の眉が、深く寄った。
窓の外で夜風が、宮殿の旗を、激しく、ばたつかせていた。
銀色の旗が、月明かりの下で、ひるがえっていた。
そして、その夜の宮殿のどこかで、すでに横田は、王の前で笑っていた。




