空の果ての傾き
本作は、かつて美しいと思っていたものが、ある体験を境にまったく別の色を帯びて見えるようになる、その変化を描いた物語です。
本作は特定の思想や立場を主張する意図はありません。
ただ、一人の人間が抱いた憧れの先を観察するように記述しました。
一九四五年八月十五日。フィリピンの山中で、私は終戦を知った。撃てるのかも分からない銃を下ろした瞬間、耳鳴りのような静けさが広がった。
空を飛ぶことを夢見て、七つボタンに命を懸けた少年は、もうどこにもいなかった。生き残ってしまったという申し訳なさと、ようやく空を見上げなくて済むという安堵感の狭間で、私はただ、泥だらけの地面を見つめていた。
*
甲種飛行予科生の制度が設けられたのは一九三七年のことである。応募資格は旧制中学校四学年一学期修了以上の学力を有し、年齢は満一六歳以上二〇歳未満の志願者である。
私が四年生の夏にこの甲種飛行予科練習生の試験を受けたのは、小さい頃から大空への憧れがあったためである。一次試験合格後、霞ヶ浦海軍航空基地の予科練習部にて約二〇種目の適性検査を受けた。この年は一次試験を突破した若者が五〇〇名ほどいたが、入隊できたのは半分の約二五〇名であった。私はこのうちの一人に選ばれた。
甲種飛行予科生の教育期間は一年半で、前半受けるのは通信、武道、体操、短艇、水泳、陸戦等の訓練である。厳しい訓練で、ミスをすると先輩練習生の鉄拳を顎に受けることとなる。この厳しい生活に体を慣らした後に受ける検査が大きく分けて三つある。通信適性検査、地上適性検査、操縦適性検査である。これらを受けるのは、入隊から三ヶ月後である。検査の結果、自分は操縦向きか、偵察向きかが判断される。
操縦適性検査は実際に練習機で空を飛ぶことになる。練習機は翼が二枚の二人乗りの機体だ。前に教官が乗り、後ろに練習生が搭乗する。操縦桿は前後の席にあり同じ動作をするようになっている。
救命胴衣をつけ練習機に乗り込み、航空眼鏡をつけ「出発準備よろし」と報告すると、教官は小さく頷き、スロットルレバーを押し地上滑走に入る。一秒、二秒、三秒……一秒毎に機体の速度は急速に上がり、十数秒ほどで機体の速度は時速一五〇キロを超えた。教官が左手で軽く操縦桿を引くと機体は地上を離れ、瞬く間に基地が眼下へと広がった。
「右に見えるのが筑波山、左に見えるのが……」教官は周辺の説明をし、一分ほど直線飛行をした後に旋回の説明を始めた。
「操縦桿を右に傾ければ機は右に傾く」操縦桿が右に倒れ、機体も右に傾いた。次いで「操縦桿を左に傾ければ機は左に傾く」今度は機体が左へ傾く。旋回の指南の次に上昇・下降の説明を受けると、今度は自分が操縦する番になる。
「右へ直線飛行、筑波山向けヨーソロ」教官から指示を受け、私は復唱しながら操縦桿を右へ傾けた。機首は筑波山へ向きを変えた。最初は戸惑ったが次第に飛行機の姿勢を掴めるようになり、指示に従い飛行運動を行うことができるようになった。操縦適性検査は三〇分ほどで終了した。
それから数日後に適性発表が行われ、私は操縦適性を受けた。操縦と偵察に分類され、私たち操縦組は機体、発動機の教育のため格納庫での実習を行った。
格納庫での実習は、飛行機の「骨」と「心臓」を知る作業だった。九三式中間練習機、通称「赤とんぼ」の羽布を剥がした機体構造を学び、二十二型エンジンの構造を油まみれになって覚える。自分が命を預ける機体が、いかなる原理で空を飛ぶのかを体に叩き込む日々だった。
やがて地上での座学と整備実習を終えると、いよいよ本格的な操縦訓練が始まった。
教官と二座の練習機に乗り込み、何度も何度も離着陸を繰り返す。教官の怒号は伝声管を通じて耳を突き刺し、操作が遅れれば操縦桿を激しく叩かれた。
「貴様! それで翼の水平が保てていると思っているのか!」
後席の教官の声に、私は必死に計器と水平線を見つめ直した。
空を飛ぶことは、憧れていたほど優雅なものではなかった。風の流れを読み、機体の微かな震えを感じ取り、指先一つの狂いもなく舵を当てる。それは極限の集中力を要する、格闘に近い作業だった。
入隊から一年が経とうとする頃、最大の試練が訪れた。――「単独飛行」である。
その日、いつものように教官を前に乗せて着陸した直後、教官が不意に座席を降りた。
「よし、次はお前一人で行ってこい」
教官は私の肩を一度強く叩くと、そのまま滑走路の端へと歩いていった。
機内には私一人。重しのなくなった前席が、妙に広く、冷たく感じられた。私は大きく深呼吸をし、スロットルレバーをゆっくりと押し出した。
エンジンの回転数が上がり、機体が滑り出す。尾部が浮き上がり、時速が上がるにつれて機体から重力が消えていく。ふわりと浮いた瞬間、今まで感じたことのない恐怖と、それ以上の解放感が全身を駆け巡った。
「飛んでいる……自分一人で」
眼下には霞ヶ浦の鈍色の水面が広がり、その向こうに筑波山が紫色のシルエットを見せていた。教官の怒号も、先輩の鉄拳もない。ただ、風の音とエンジンの鼓動だけが響く空間。私はこの時、本当の意味で「空の男」になったのだと実感した。
教育期間の一年半は、瞬く間に過ぎ去った。
一九三九年、卒業。私たちは憧れの「七つボタン」の制服に身を包み、海軍航空兵としての第一歩を踏み出した。だが、喜びも束の間、時代の足音は確実に激しさを増していた。支那事変の戦火は拡大を続け、私たちは土浦の空を離れ、各地の実施部隊へと配属されることになった。
別れ際、共に泥にまみれ、拳を交わした同期生たちと固い握手を交わした。「次は戦地で会おう」「落とされるなよ」……軽口の裏側には、二度と会えないかもしれないという予感が、影のように忍び寄っていた。
初陣は中国戦線であった。二つ階級上の士官が、訓練として私の飛行を許可した。中国上空を自分で初めて飛ばしてみた風景は絶景であった。青い空の下に黄土色の大地がどこまでも続き、蛇行する河が鈍く光っていた。
初めて単独飛行をした時と似たような感覚だった。私は今飛行機乗りとして大空にいる。そのことを実感した。
同じ編隊には、福岡出身の二等飛行兵曹の永富がいた。口数は多くないが、操縦桿を握ると別人のように大胆になる男だった。彼には癖があった。旋回の終わり際にわずかに機体を横滑りさせ、敵の照準を外す。編隊長から何度叱責されても、その癖は直らなかった。ある日遂に初の出撃命令が出た。爆撃機の護衛任務だ。出撃前、整備兵が無言で機体を叩き、私もまた主翼に軽く触れてから搭乗する。永富はいつも通り、機首を小さく振って合図をよこした。爆撃隊と高度三千を保ちつつ編隊を組み、雲底を抜けると敵影の報が入った。
黒点はやがて形を持ち、銃火を吐いた。曳光弾が赤い線を描き、空を裂く。無線に怒号が飛び交い、編隊は散開。私は本能のまま操縦桿を引き、旋回へ持ち込んだ。九六式は軽快で、低速域ではまだ優位を保てる。私は一機を追って急旋回に入ったが、角度が足りない。
次の瞬間、その敵機の視界を横切るように永富の機体が滑り込んだ。例の横滑りだ。敵は一瞬照準を誤り、機首がわずかに上を向いた。自然と敵と自分の旋回半径が詰まった。照準環に敵機を捉えると、全力引き金を引いた。突如機体が震え、薬莢が風に吸われる。敵機の胴体に火花が走り、永富の機銃も同時に火を噴いた。二方向からの弾丸を浴びた敵機は白煙を引きながら高度を失い、やがて地表へと吸い込まれていった。
撃墜確認の余裕はなかったが、撃墜を確信した。互いの機体がすれ違う瞬間、永富が親指を立てたのが見えた。私は頷き返す。あれが、私たちの最初で最後の共同撃墜だった。
帰投後、機体の弾痕を数えながら、私は初めて自分が戦争の一部になったことを思い知らされた。撃てば落ちる。落ちれば、人が死ぬ。その単純な理屈が、胸に重く残った。
「敵も人が乗っとるんやな。」その日の夜になって喫煙場所でばったり会った永富はそう呟いた。落ちれば、人が死ぬ。月も欠けた夜空の下で、私たちは言葉少なに煙草を分け合った。
だが中国の空は、一度きりの戦闘で終わる場所ではなかった。揚子江沿いの都市上空、内陸飛行場への攻撃、補給路遮断。護衛任務は単調に見えて、実際には極度の緊張を強いられる。爆撃機は鈍重で、我々は常にその上空を警戒し続ける。護衛の失敗は即ち、爆撃隊の壊滅を意味した。
ある日、同期の一人が被弾し河畔に不時着した。私たちは上空を旋回し援護を続けたが、敵の地上砲火は激しかった。彼は救助されたものの、翌月の出撃で帰らなかった。掲示板に貼られた戦死公報の紙は、風に揺れていた。
やがて私は空戦に「慣れ」始めていた。太陽の位置、雲の影、敵の癖。旋回中の舵の重さで失速寸前を察知できるようになり、撃墜報告にも心が大きく揺れなくなった。恐怖は消えたのではない。ただ、鈍くなったのだ。死は特別な出来事ではなくなっていった。
それでも夜、寝台に横たわると、初陣の震えが蘇ることがあった。撃てば落ちる。落ちれば、人が死ぬ。その冷たい実感だけは、完全に日常へ溶け込むことはなかった。
中国の空での二年間は、私から「憧れ」を削り取った。しかし同時に、空戦という技術を身体に刻み込んだ期間でもあった。操縦は洗練され、判断は速くなり、感情は奥へ押し込められた。私はもはや予科練上がりの少年ではなく、実戦の搭乗員となっていた。
一九四一年十二月、太平洋戦争が勃発。同時に一等飛行兵曹へ昇進した永富らと共に翌年三月に私はラバウルへと送られた。
南洋の空は濃く、海は群青に沈んでいる。そこで渡された新鋭機・零式艦上戦闘機は衝撃だった。九六式より圧倒的に大きい機体を見て、「私は艦攻の操縦士なんですか」と思わず口にした。
すると案内してきた永野上等飛行兵曹は笑いながら「何を言ってるんだ戦闘機だよ。零式艦上戦闘機」と答えた。艦攻のようにでかいそれが新鋭機・零式艦上戦闘機だった。
あっけにとられていると永野上等兵曹は急に神妙な顔つきになり「ここは中国とは違うぞ」と言って私の背中を軽くたたいた。
飛行訓練で実際に乗ってみれば、骨組みがしっかりし、二〇㎜機関銃を備えた零戦の性能は九六式戦闘機とは段違いだった。特に秀逸な風防設計による視界の良さと静粛性は快適で、十時間以上の飛行を可能にする航続距離は、爆撃機の護衛に十分すぎるほどだった。しかし、この航続距離の長さが、後に災いすることとなる。
「ここは毎日空戦ができて楽しいぞ」などと他パイロットが呑気に笑っていたのも束の間、ガダルカナル島の飛行場が米軍に奪取されたという報が基地を揺らした。
急遽決まったガダルカナル出撃。「どこだ、それは」と海図を広げる搭乗員たち。一式陸攻二十七機、九九艦爆九機、零戦十八機。海上船団への攻撃だというのに、魚雷への換装時間が足りず陸上用爆弾のまま出撃するという不可解な命令。そして示された航路は片道三時間半、往復七時間という過酷なものだった。現地での空戦可能時間は最大でも三十分が限界だろう。
たどり着いたガダルカナル沿岸を埋め尽くす敵の物量に、私は言いようのない「ゾッとするもの」を感じた。爆撃隊が次々と爆弾を投下したが、数隻が炎上したのみで、敵の規模からすれば焼け石に水のような結果に終わった。果たしてこの長距離航行に見合う成果なのだろうか。
帰投の際海上に単縦陣で進む第八艦隊を目撃した。その夜、彼らは第一次ソロモン海戦で圧倒的勝利を掴むが、輸送船を見逃して引き返した。これが、後に続く地獄のような消耗戦の端緒となった。
その日永野上等飛行兵曹は血だらけで帰還した。鬼の様な形相で報告を終え、その後内地に帰ると二度と戦地に戻ることがなかった。ここは決して甘くない。私はそう悟った。
その後、出撃は連日のように続いた。夏になると米軍が鹵獲機から弱点を分析し、一撃離脱の組織的戦法を徹底し始めたことで零戦の優位は消滅した。加速的に消耗率が上がった。
ついには平均余命三ヶ月と言われ始めた。
ある日、僚機の若い上等飛行兵が被弾炎上した。無線に断続的な声が乗り、やがて途切れた。帰還後、空席となった整列位置を前に、誰も言葉を発さない。戦死公報の紙が掲示板に貼られるたび、名が減っていく。それは中国戦線の比では無かった。確認するのも疲れた。私はただ、次の出撃の準備をするだけだ。
もう慣れた。慣れたはずなのに、夜になっても眠れない。体は極限まで疲れているのに。
私は飛ぶたびに強くなり、飛ぶたびに何かが静かに欠けていった。
四三年二月、ガダルカナル撤退。この争奪戦だけで我が方は航空機約九〇〇機を失った。
一九四三年四月、起死回生を狙った「い号作戦」。ラバウルに集結した三六〇機という大編隊に、私たちは「今度こそ」と胸を躍らせた。帰還後の戦果報告は「敵機撃墜一七五機」と膨れ上がり、山本長官からも賛辞を受けた。だが、その実態は重複集計による「幻の戦果」に過ぎなかった。
そして山本長官は、視察のために飛んだブーゲンビル島上空で米軍機の奇襲に遭い、ジャングルへと墜ちた。
ガダルカナル撤退後はほぼ迎撃戦に一方となった。
ある日永富と私はいつものように二番機同士で上空警戒に就いていた。雲の切れ間から敵編隊が現れ、編隊は即座に散開した。私は一機を追い、旋回に入る。視界の端に、永富の機体が見えた。例の癖――旋回の終わりに、わずかに機体を滑らせる動き。
その瞬間だった。上空から降下してきた敵機の射線が、横滑りの軌道に重なった。永富の機体が不自然に揺れ、白煙を引いた。
「永富、上げろ!」
感度の悪い無線に怒鳴る。だが返答はなかった。彼は必死に機首を立て直そうとしたのか、もう一度だけ滑るように旋回した。その癖は、あの日――中国の空で共同撃墜を果たした、その再現のようであった。
次の瞬間、永富の主翼を炎が舐めた。
機体は傾く。ゆっくりと。
そのまま南の海へと吸い込まれていく。
脱出の気配は見えない。私は追撃を捨て、墜ちていく機体を見ながら無線に叫ぶ。
無線は僅かに雑音を返した後静まり返った。エンジン音だけが、耳の奥で空虚に響く。あの日の親指を立てた彼の仕草が脳裏に浮かぶ。『敵も人が乗っとるんやな』という低い声も。
帰還後、永富の整列位置は空白だった。整備兵が、彼の工具箱を閉じる音だけがやけに大きく響いた。私は帽子を握りしめたまま、滑走路の向こうの海を見つめていた。そこには何もない。ただ、かつて彼が横滑りさせた軌跡だけが、記憶の中に白く残っていた。
その日の夜は一人で煙草を吸い、僚機が消えたことで初めて泣いた。それも最後の涙となった。
一九四四年二月、油断していたのか空襲を受けたトラック基地は壊滅した。即座に撤退命令がだされ、命がけで守ってきたラバウルはあっさりと破棄された。
撤退の日、南洋の空は相変わらず濃かった。それはどこか重く、深い井戸の底から見上げているように感じた。
風は同じはずなのに、頬を撫でる感触が冷たかった。
「一旦本土に戻り休暇を得られるらしい。」誰かがそう言った。
だが、所詮噂は噂。私は本土に戻ることもなくフィリピンへと再編配属された。
空はすでに敵のものだった。レーダー誘導されるグラマンの層、燃料不足、針金と布で応急処置された機体。熟練パイロットは尽き、一方的に狩られるだけの日常。敵は新鋭機を次々投入するが部隊に与えらるのは相変わらず零戦であった。「新鋭機が来る。」根拠のない希望を誰かが言う。
しかし「航空機どころか空母はすべて沈められたらしい。」数日後にそんな声が広がる。最初は信じなかったが、とうとう嘘をついたことがない兵士までもが「フィリピンの航空戦に参加した男に聞いたんだ」と言う。希望は失望に変わる。
ラバウルのころは十分に高度をとって迎撃する余裕があった。しかし燃料もないフィリピンではその余裕もない。敵は高所から高速で突っ込んで来ると、翼から火花を出しながら、赤い弾丸の束を投げつけるように撃ちつける。腹底に響く爆音がそこらかしらで聞こえる。スロットルを最大にして飛来した爆撃機だけ目指して喰らいつく。
もはや敵戦闘機相手には逃げるしかなかった。機体性能でも技量でも数でも勝る敵編隊になすすべなどないからだ。敵は悠々と帰還していくのをオイルまみれの機体から睨みつけることしかできなかった。
やがて基地には「特攻」の語が重く漂い始めた。志願の紙が回り、若い者ほど筆を早く走らせた。夜、営舎で交わす会話は妙に明るい。だが灯が落ちると、誰もが天井を見つめている。私は出撃命令を待ちながら、予科練の頃に見上げた霞ヶ浦の空を思い出していた。この頃には熟練パイロットは尽きた。編隊行動が成立しなくなり、一方的に狩られるだけの光景が日常となった。
幸か不幸か遂に機体も尽きた。司令部から下ったのは「歩兵として戦え」という非情な命令だった。私たちは自嘲して自らを「翼軍」と呼んだ。部隊は十分な武器も与えられなかった。拳銃や手榴弾はましなほうで、竹槍を自前で用意する部隊もあった。任されるのは撤退する部隊の殿である。
誇りだった飛行靴は泥にまみれ、操縦桿を握っていた手で壕を掘る。マラリアに蝕まれ、地の利を持つゲリラの襲撃に怯える日々。
仲間が赤痢になる。一人で歩けず他の兵士が支えて歩くが、十分ごとに用を足すため次第に良い顔はできなくなる。
何度か「頼む、置いていかないでくれ」と悲痛な叫びが聞こえたが、耳を抑えて前へ進んだ。
弾薬より食糧を求め、手当たり次第に草や果実を口に入れそれが食べられるか判断した。
「人を食ったやつがいる」という戦慄の噂が流れた。だがそんな情報でさえもはや興味が持てない。食われたやつにも食ったやつにも同情できない。
訓練もないまま白兵戦を強いられる別部隊。繰り広げられるのは一方的な虐殺である。これが、あの霞ヶ浦で見上げた空の果てなのか。
フィリピンの山中で、上官は私に終戦を告げた。米軍のもとに投降し、列車に詰められ収容所で暮らした数年後に本土へ帰還した。そこには帰るべき家も、待っている親もなかった。空襲で簡単に奪われたらしい。
戦後、平和な空を飛ぶ旅客機を見るたびに、私は思い出す。あの霞ヶ浦の風と、南の海に散った戦友たちのことを。そして、私が二度と手に入れることのなかった、あの純粋な「大空への誓い」のことを。
ふと永富の最後が脳裏に浮かぶ。あの横滑りは、ただの癖だったのか。それとも……。
空はあのころとは違い、いつも|碧<<あお>>く私を睨みつける。見上げるたびに何かが崩れていくようだ。
否。
空を見る私の心が傾いたままなのだ。
本作を書き進める中で、人の抱く憧れや意思は、思っている以上に脆く、そして一度壊れてしまうと元の形に戻すことがほとんどできないのだと感じました。
物語の背景には、生存者の証言や戦史資料があります。しかし実際には存在しない要素も混ざっています。実話と虚構の境界に立ちながら、一つの心の軌跡を描くための“フィクション”です。
史実の再現を目的としたものではなく、特定の思想を主張する意図もありません。あくまで一つの物語として受け取っていただければ幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
読んでいただき、ありがとうございました。




