第9話
なぜ来ないの?
そのとき、リリは自分が神社の境内の奥へ入り込んでいることに気づいた。
朱塗りの柱の向こう、木陰の石段に、二人の若者が座り込んでいる。
近づくと、肩を震わせて泣いていた。
「どうしたんですか?」
声をかけると、顔を上げた。
中学生くらいの少年と、小学生ほどの少女。兄妹だろう。
涙で赤くなった目が、リリを見つめる。
「お母さんが……倒れて……今、手術中なんです」
少年が絞り出すように言った。
「神社の神様にお願いに来たけど……お金がなくて……お賽銭がないと、お願いできないから……」
その瞬間、リリは思い出した。
病院へ運ばれていった救急車。あの中にいた二人だ。
「さっきの救急車に乗ってたよね。二人は兄妹?」
二人は小さくうなずいた。
リリは胸が締めつけられるのを感じた。
――助けたい。
そう思った。
「二人のお母さんが助かりますように……」
祈ろうとして、はっとする。
魔法学校で教わった言葉がよみがえった。
“人間の病気を治す魔法は存在しない。命を延ばす魔法も存在しない。”
なぜなら、それは神の領域だから。
リリは拳を握った。
助けられない。
でも――
代わりに、心の中でそっと祈った。
「この二人の心が、強くなりますように」
そのとき、少年の携帯が鳴った。
震える指で通話ボタンを押す。
「……はい。……本当ですか?」
顔が、ぱっと明るくなる。
「お母さんが、目を覚ましたって!」
妹が泣きながら兄に抱きついた。
「お姉ちゃん、ありがとう。僕たち、強くなるよ」
リリは目を瞬いた。
私の言葉、聞こえたのかな?
二人の母親がどうなったのか、その先は分からない。
けれど、二人の目に宿った光は確かだった。
強くなる、と言った。
それはもう、奇跡のひとつなのかもしれない。
そのとき、背後に静かな気配が降り立つ。
振り返ると、あのバスが佇んでいた。
リリは小さく微笑む。
「そうだったのか。ありがとう、バスさん」
今日ここに留めた理由は、これだったのだ。
バスに乗り込むと、世界はゆっくりと光に包まれ、浮遊島アリウスへと帰っていった。
ぐぅっ。
例によって、お腹が鳴る。
レストランから、いい匂いが流れてきた。
「ただいま~。あー、疲れた」
「お帰り。お疲れ様。……って、リリは疲れないだろ」
オルフェンが軽く笑う。
「うーん、人間の口癖が移ったかな。でも精神的に疲れました」
カウンターに突っ伏すリリ。
オルフェンは静かに料理を差し出した。
「それも……ないな」
「はははは。天使は疲れない。誰が決めたんですか?」
「疲れたいのか?」
「……ちょっとだけ」
「はい」
温かい料理が目の前に置かれる。
「いただきまーす」
いつものように、もぐもぐと食べ始める。
ふと、顔を上げた。
「ねえ。人間の病気を治したり、命を助けたりする魔法が効かないのはどうしてか知ってますか?」
オルフェンは答えない。
代わりに、優しい目で見つめた。
「リリなら、きっとその答えを見つけられるんじゃないかな」
「ふーん、そうかあ。まっ、良いか」
深く考えすぎないのも、リリらしい。
「ごちそうさまでした~」
軽やかに立ち上がり、自分の部屋へ戻っていく。
オルフェンはその背中を見送りながら、静かに呟いた。
「……近いな」
何が近いのかは、まだリリは知らない。
けれど今日、彼女は一つ学んだ。
命を救うことはできなくても、
心を支えることはできる。
それが、魔法使いの本当の意味に近づく一歩だということを。
「今日もいい天気だなあ。はははは、当たり前か。雲の上だもんな。」
塔の外に広がる青空を見上げながら、リリは伸びをした。
今日は、日本ではない国へ行く日だ。
胸が少し高鳴っている。
バス停へ向かうと、いつものように宙に文字が浮かんでいた。
だが――
「……?」
行き先がない。
年代の表示もない。
「どういうこと?」
問いかける間もなく、いつものように空からバスが降りてきた。
リリは、いつものように乗り込む。
けれど、胸の奥に小さな不安が生まれていた。
バスはすぐに地球へ降下しない。
雲の中へ入り、さらに加速する。
「えっ?」
窓の外は、やがて雲ではなく、真っ白な光に包まれた。
光の中を、突き進んでいる。
リリは魔法手帳を開いた。
「バスは過去に戻っているようです。」
「……過去?」
人間にも始まりがあり、歴史がある。
そのどこかを、人間は“過去”と呼ぶ。
リリはそれを知っていた。
やがて光が薄れ、再び雲が現れる。
バスはゆっくりと地上へ降り立った。
そこは――荒野だった。
一面の土。
乾いた風。
遠くに、人が集まる影。
リリはそちらへ向かう。
少しだけ宙に浮きながら。
やがて人間の姿がはっきりした。
だが、様子が変だ。
森の陰に身を潜める。
この一帯だけ、水と木々がある。
人間は水がなければ生きられない。
だから、ここに集まっている。
彼らは身体を覆う装束をまとい、頭には兜のようなものをかぶっている。
戦の気配。
「彼は強い。我らの国が一つになっても勝てぬかもしれん。」
高台に立つ男が言った。
二人の金の鎧を着た兵が近づく。
「我ら三国、合わせて三万。向こうは一万足らず。数で押せば勝てましょう。」
「侮るな。あの男には“特別な力”が宿る。」
戦いが、始まる。
リリの胸がざわついた。
戦えば、傷つく。
死ぬ。
祈ろうとした、その瞬間――
校長先生の声がよみがえる。
“過去へ戻ったなら、ただ見守ること。
人間の歩みを変えてはならない。
魔法は厳禁。”
そうだった。
だが。
黙って見ていられない。
そのとき。
「敵が!すぐ近くまで!」
兵士が駆け込む。
馬の蹄の音が近づく。
そして――
丘の上に、巨大な影が現れた。
馬上の男。
ひときわ大きい。
「おまえたち、聞け!
どれだけ数を揃えようが、私には勝てぬ!」
動けない兵士たち。
男は続けた。
「それともう一つ。
おまえたちの町の女子供は皆殺しにした。
一万はいたか。わはははは!」
空気が凍った。
傷だらけの兵が駆け込み、ひれ伏す。
「……城壁は崩され、中の者は皆、殺されました。」
リリの心に、何かが走った。




