第7話
塔の周囲には、水の環があった。
壁のくぼみから、水が逆流するように空へと昇っていく。
どこから来て、どこへ行くのか。
分からない。
歩道の外側は、すぐ空だ。
だが透明な壁があり、落ちることはない。
触ると、石のように硬い。
(ここでは……私たちでも、落ちたら死ぬらしい?)
「……死ぬ、か」
少しだけ考え――
「……まあ、いっか」
景色は、あまりにも美しかった。
雲が足元にあり、
その下には、海と山が見える。
風が、やさしく頬を撫でた。
塔の反対側へ回ると、木の扉があった。
分厚い鉄の錠がかかっている。
看板には、
――絶対開かない扉
と書かれていた。
「……ふーん」
魔法でも無理なのだろう。
「じゃ、いらない」
興味を失い、背を向ける。
反対側には、空へ突き出す木の橋があった。
だが途中で――消えている。
思わず背筋がぞくりとする。
看板には、
――勇気の橋
と書かれていた。
「勇気……」
少し考え、
「……ないし」
即答だった。
一周して、塔の入口へ戻る。
階段を降りると、道は三つに分かれていた。
右――オルフェンのレストラン。
正面――バス広場。
左――森。
森の入口には看板。
――やすらぎの森
「……行ってみよ」
リリは森へ足を踏み入れた。
石畳は、やがて土の道へ変わる。
木々は深くなり、小川が流れていた。
その小川の水が、木の幹へ吸い込まれていく。
不思議な光景だった。
ここには、動物はいない。
鳥の気配すらない。
なのに――
なぜか、心が落ち着く。
森を抜けた瞬間、視界が開けた。
「……うわぁ……」
草原。
湖。
山。
空。
「……これ……ほんとに島?」
そして、空の一番深い青を見つめる。
その奥に――
無数の星が、見えた。
リリは息を呑む。
「……やっぱり……神様って、すごい」
ただ、それだけを思った。
やがて、バスの時間が近づく。
リリは、森の入口へ戻る。
そして――
看板を、見た。
さっきまでは、何も書かれていなかった。
そこには、新しい文字が浮かんでいた。
――この森で感じたものを、忘れないこと。
リリは、しばらくその言葉を見つめていた。
――おっと、もうこんな時間。急がなくちゃ。
小さく呟きながら、リリはいつものバス乗り場へと駆け込んだ。
静かな空気の中、音もなくバスが降りてくる。まるで雲の一部が、そのまま形を変えて降りてきたようだった。
リリはそっと中を覗き込む。
(ふぅ……よかった。フィン、いない)
胸を撫で下ろしながら、そっと座席に腰を下ろす。
(今日も……いい経験ができますように)
バスはゆっくりと浮かび上がり、やがて地球へ向かって滑るように降りていった。
途中から、窓の外は白一色になった。雲の中に入ったのだと思ったが、違う。視界の外には、白い粒のようなものが絶え間なく流れている。
(白い……粉?)
やがてバスは、静かに地面へと降り立った。
外に出た瞬間、リリは思わず声を上げた。
「わあ……きれい」
世界は、どこまでも白かった。
空からは、ふわり、ふわりと白い結晶が降ってくる。髪に、肩に、そっと触れては積もっていく。
リリは一つ、手のひらに受け止めた。
次の瞬間、それは静かに消えた。
「……水?」
小さく首をかしげる。
(神さまって、すごいな……こんな景色も作れるんだ)
魔法手帳には「雪」と書かれてあった。
その時だった。
少し離れた場所で、誰かが雪を集めているのが見えた。
背を丸めた、小さな影。近づいてみると、それは一人の老人だった。
リリは躊躇なく声をかける。
「おじいさん? 何してるの?」
老人は驚いたように振り返った。
「えっ、なんだ?……ひゃあ、お嬢さん、そんな格好してたら風邪ひくべ。東京かどっかから来たのか?」
リリは少しだけ間を置いて、頷いた。
「はい」
――聞かれたら、東京から来たと言う。
魔法学校で、なぜかそう覚えている。
理由は分からないけれど、きっと大事な決まりなのだろう。
「ほれ、こっち来なさい」
老人はそう言って、家の中へ招き入れてくれた。
中に入ると、囲炉裏の火がやさしく燃えていた。鍋からは湯気が立ち上り、部屋いっぱいに温かい匂いが広がっている。
奥から、おばあさんが顔を出した。
「まあまあ、こんな寒い日に。ほら、こっち来て火のそばに座りなさい」
リリは言われるままに座った。
(優しいなあ……)
「ちょうど昼だ。食べてけ」
おじいさんが鍋の汁をよそってくれた。
一口、口に運ぶ。
「……おいしい……すごく、おいしい」
「それは良かった。ふふふ」
見ず知らずのリリに、二人は当たり前のように優しかった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
――でも、その温かさは、すぐに別の感情に変わった。
ふと、あの事故の時のお母さんの事を思い出した。
子供の事であんなに泣いていた。
あんなに、想っていた。
その瞬間、リリの胸がぎゅっと締め付けられた。
「……うわああん」
気づけば、大声で泣いていた。
「おお、おお、どうしたんだい?」
「だって……おじいさんとおばあさん……優しいし……」
「そうかそうか……」
おばあさんは、静かに頷いた。
その目の奥に、ほんの少し、涙が光っていた。
リリは、泣き止んで尋ねる。
「……おばあさん、どうして泣いてるの?」
「ははは……あんたが泣いとったからじゃ」
リリは首をかしげた。
「それと……」
「それと?」
「孫のこと、思い出してな」
「……孫?」
その時、魔法手帳が小さく囁いた。
――子供の子供。
(……余計分からん)
リリは考えるのをやめた。
「今は遠い外国に行っとってな」
「外国……?」
「医療で人を助けたい言うて、半分ボランティアみたいなもんでな」
おばあさんは、静かに続けた。
「そこでは、毎日、食べ物もなく、病気で子供が亡くなっとる」
「……毎日?」
「日本は、食べ物もある。病院もある。ありがたいことじゃ」
囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てた。
「そう思えば、雪かきぐらい、どうってことない。生きとるんやから」
リリは、その言葉を胸の奥にしまった。
(日本は……いいところなんだ)
心の中で、小さく呟いた。
「ごちそうさまでした!」
「おお、気持ちのいい子だの」
帰り際、お孫さんの写真を見せてもらった。
リリは、それをしっかり記憶した。
「ありがとうございました! お孫さんに会いに行ってきます!」
「はあ? 慌てん坊だの。どこにいるかも言ってないのに」
二人は笑った。
リリは、今日もたくさんのことを学んだ。
足取りは軽く、心は弾んでいた。




