第6話
胸が、ぎゅうっと締めつけられる。
(……私が、ちゃんと見えていたら)
二人とも、助けられた。
そう思ってしまう自分が、苦しかった。
リリの頭の中で、母親の言葉が何度も反復する。
『私を押して助けてくれたのね?
私が代わってあげられれば良かった……』
「……ごめんなさい」
声にならない声。
リリは突然、立っていられなくなった。
「うわあああ……!」
涙が溢れ、嗚咽がこぼれる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……
お母さん……私が……私が……」
その瞬間だった。
口を塞がれ、強く腕を引かれる。
「っ!?」
振り向くと、そこにいたのは――フィンだった。
「ばかみたいに大声で泣くなよ」
冷えた声。
「恥ずかしいだろ。
こんなこと、日常茶飯事なんだからさ」
次の瞬間。
パシン!
乾いた音が響いた。
気づけば、リリの手がフィンの頬を打っていた。
フィンは打たれた頬を押さえ、きょとんと目を見開く。
「……は?」
リリは、震えながら叫んだ。
「日常茶飯事かもしれない!
でも……悲しいものは、悲しいの!」
涙を浮かべたまま、真っ直ぐフィンを睨みつける。
「人間の気持ちが分からないなら――
さっさと地球から出ていきなさい!」
その声は、怒りだけではなかった。
痛みと、後悔と、優しさが混じっていた。
フィンは、何も言えずに立ち尽くしていた。
都会の雑踏の中で、
リリの小さな背中だけが、震えていた。
「……ふんっ。ほんっとに腹が立つ! あのフィンには!」
食堂に入るなり、リリは椅子に腰を下ろすと、珍しく声を荒らげた。
「今日はずいぶん怒っているじゃないか」
カウンターの向こうで鍋をかき混ぜながら、オルフェンが穏やかに言った。
「怒らずにいられません!」
「まあまあ。まずは食事を済ませなさい。ゆっくり聞いてあげるから」
その声に、リリは不満そうに唇を尖らせたが、言われた通り黙ってスプーンを手に取った。
温かい料理が喉を通るたび、胸の奥で絡まっていた感情が、少しずつほどけていく。
「……ごちそうさま」
「はい」
食事を終えた瞬間、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
地球で起きた事故のこと。
助けられた母親と、助けられなかった子どものこと。
自分の選択と、その後悔。
そして、フィンの言葉。
すべてを話し終えたとき、リリの声は震えていた。
オルフェンはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「……そうか。偉いぞ、リリ」
「えっ?」
思いがけない言葉に、リリは目を瞬いた。
褒められることに慣れていない彼女は、どう反応していいかわからない。
「フィンは……少しは懲りただろう」
「絶対、反省なんかしませんよ。ああいう人は」
そう言い切りながらも、リリの声はもう荒れていなかった。
しばらくして、ぽつりと問いかける。
「……さっき、どうして私のこと、偉いって言ったんですか?」
オルフェンは小さく笑った。
「君が、本当に人間の気持ちを理解し始めたからだ」
「……?」
きょとんとするリリに、オルフェンは続けた。
「神様は、僕たち天使にいろいろな役割を与えられた。その中でも、人間に寄り添える感情を持つことを、特に大切にしておられる」
「どうしてですか?」
「なぜだと思う?」
少し考えてから、リリは答えた。
「……人間を、愛しておられるから?」
「よく分かったな、リリ」
その言葉に、リリの胸がふっと温かくなる。
誇らしさが、静かに広がった。
「君の“卒業”は、近いかもしれないな」
「えっ? 私、もう卒業してますけど!」
オルフェンは意味ありげに微笑んだ。
「本当の卒業だよ。人間の痛み、辛さ、悲しさ……そして喜びを理解できるようになること。それを神様は何より喜ばれる。そのために、僕たちはいるんだ」
「……そうか」
リリは深くうなずいた。
「リリ、頑張る」
そのときだった。
カラン、と扉の鈴が鳴った。
振り返ると、そこに立っていたのはフィンだった。
「……わっ」
思わずリリは身構え、帰ろうとした。
「リリ。今日は……ごめんな」
予想外の言葉に、リリは一瞬だけ立ち止まった。
「……わ、分かったなら、許してあげる」
そう言い残し、そそくさと店を出ていく。
「……はい、フィン」
「ありがとうございます」
フィンは力なく答え、黙って食事を始めた。
何も言わなくても、オルフェンにはすべて分かっていた。
その夜、リリは部屋に戻ると、魔法手帳を開いた。
――人間の家族。
――親子。
ページをめくりながら、鼻歌まじりに小さく呟く。
「ふんふん……なるほど……」
やがて、静かな眠りが訪れた。
「ふわぁー……あっ!」
リリは跳ねるように体を起こし、枕元の魔法時計に目を向けた。
「よかった……寝過ごしたかと思った」
胸をなで下ろす。昨日は目覚ましの魔法をかけ忘れていたのだ。
だが時計は、まだバスの出発まで十分な余裕があることを示していた。
「ふぅ……」
小さく息を吐き、リリは着替え室へ向かった。
昨日のまま――今どきの人間の女の子の服のまま眠ってしまっていたのだ。
「……あれ?」
クローゼットの前で、リリは首をかしげた。
いつもの魔法使いの服に戻ろうとして、軽く指を鳴らす。
――戻らない。
もう一度、少しだけ強めに魔法をかける。
それでも、戻らない。
「……フィンのやつ」
リリは唇を尖らせた。
(あいつの魔法のほうが強いってこと……?)
ということは。
「……えーっ……」
戻してもらうには、フィンに会わなければならない。
「嫌だ。絶対に嫌」
即答だった。
「アイツのところに行くくらいなら、このままでいい!」
そう結論づけ、リリは朝食棚へ向かった。
そこには毎朝、焼きたてのパンとジュースが用意されている。
誰が用意するわけでもない。
――そういう仕組みなのだ。
テーブルにつき、パンをかじりながら、ふと思う。
(そういえば、この島……ちゃんと見て回ったことないな)
噂では、不思議な場所がいくつもあるらしい。
橋とか。
扉とか。
よく分からないものが。
バスの時間までは、まだ余裕がある。
「……よし」
島を歩いてみることにした。
トレーを返却口に戻す。
それも翌朝には、きれいになって戻っている。
――そういう仕組みなのだ。
リリは三十二階の自室を出る。
次の瞬間には、一階の玄関に立っていた。
これも――そういう仕組み。
「……はは」
小さく笑い、塔の外へ出る。




