第3話
ゲームセットの挨拶でも、相手チームの表情はどこか納得がいかない様子だった。一方、ナインスターズの選手たちは、子どものように笑い、肩を叩き合い、喜びを爆発させている。
監督はふと、ベンチの端に座るリリの方を見た。
(変な格好をしてるし……。これが本当の勝利の女神――いや、女神じゃないか)
そう心の中で呟いた瞬間、選手たちが一斉にリリのもとへ駆け寄ってきた。
「いやあ、君のおかげだよ。勝てたの」 「そうそう。相手のピッチャー、球が速すぎて無理だと思ってたのに、やたら打てたしな」 「おまえ、勝利の女神だよ!」
口々にかけられる言葉に、リリはきょとんとしながらも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
こんなふうに褒められるのは初めてだった。
楽しかった。
人間って、面白いな。
でも――ここは訂正しなきゃ。
「はーい。私は魔法使いリリ。魔法学校を出たての新米。よろしくね。なので、女神ではありません」
一瞬の沈黙のあと、全員が吹き出した。
「そうか、魔法使いか。それでそのコスチュームなんだな」 「リリって名前も、それっぽいしな。はははは!」
笑い声が広がり、選手たちは楽しそうに後片付けを始めた。
すると一人が言った。
「監督がどこの誰か知らんけどさ、帰りに飯おごってやるよって言ってた。」
「そうだそうだ。今日はリリのおかげで勝てたんだしな」
「何、食べたい?」
「カレーライス」
リリは迷いなく答えた。
ほどなくして、目の前に運ばれてきたカレーライスを見て、リリは目を輝かせた。
「うわあ……本物だ~」
珍しそうに覗き込む姿に、周囲の大人たちは首をかしげる。
「あの子、本当に魔法使いになりきってるよな」 「まあ、あそこまで徹底してたら逆にすごいけどな」
また、笑いが起きる。
「いただきまーす!」
リリの元気な声に、選手たちは少しだけ照れた。
スプーンを口に運びながら、リリは満足そうに頷く。
「うん。オルフェンの作るカレーも美味しかったけど……やっぱり本物は美味しい」
そのころ、浮遊島アリウスにいたオルフェンは、理由もなく思いきりくしゃみをしていた。
「ごちそうさまでした~」
その声は、店の空気をすっと明るくした。
監督が尋ねる。
「リリさんは、どこに住んでるんだ?」
「東京」
それは、日本で聞かれたらそう答えるように教えられていた言葉だった。
監督が「今度の試合なんだけど……」と言いかけた、そのとき。
リリは腕の魔法時計を見て、声を上げた。
「わっ、遅くなった! 帰らなくちゃ!」
慌てて立ち上がり、深く頭を下げる。
「皆さん、ありがとうございました。さようなら!」
店を飛び出すと、夜の空気が頬を撫でた。
屋外なら、どこにでも迎えに来てくれる。
「……あっ、来た来た」
音もなく降りてきたバスに、リリは乗り込む。
乗客は、やはり誰もいない。
ドアが閉まり、バスは静かに宙へ浮かび上がった。
「でも……楽しかったなあ、野球。人間も、良かった」
窓の外を見ながら、リリは小さく笑う。
「さすが、神様が作っただけのことはある」
そして、最後にぽつりと呟いた。
「それにしても……カレーライス、美味しかった」
こうして、魔法使いリリの地球への初上陸は、静かに、そして温かく幕を閉じた。
「ただいまー」
レストランに戻ったリリは、きょろきょろと辺りを見回した。
だが、いつもならカウンターの向こうにいるはずのオルフェンの姿が見当たらない。
「あれ?」
代わりに、カウンターの上に一通の手紙が置かれていた。
見覚えのある、整った文字。オルフェンの筆跡だ。
――
リリ、お帰り。
僕は先に宿舎へ戻る。
今日はもうお腹いっぱいだろう。
リリも部屋に戻って、ゆっくり休むといい。
――
「……なんで、お腹いっぱいって分かったんだろ」
首をかしげながらも、リリは小さく笑った。
「まあ、いっか」
そう言って、リリはレストランを後にし、浮遊島アリウスの中心にそびえる“真実の塔”へと向かった。
自分の部屋は三十二階。塔の扉を開けると自然と部屋の前につく。扉を開ける。
「ふぅ……疲れた」
ベッドに腰を下ろしたリリは、ふと我に返ったように呟いた。
「……あっ。もっと人間のこと、知っとかなきゃ」
そう言って、小さな手提げかばんから魔法手帳を取り出す。
ページをめくり、文字を追いながら、自然と口を動かす。
「ふんふん……なるほど……」
理解するたび、世界が少しずつ広がっていく感覚。
だが、その途中で、リリのまぶたはゆっくりと閉じていった。
手帳を胸に抱いたまま、静かな眠りに落ちていく。
翌朝。
「リンリンリン!」
魔法時計の甲高い音が、部屋いっぱいに鳴り響いた。
「うぅ……」
リリは布団の中で身をよじらせる。
目は覚めたものの、まだ眠気が体にまとわりついている。
「もうちょっと……」
そう呟きながらも、ゆっくりと起き上がった。
昨日は、リリにとってあまりにも濃い一日だった。
本来、リリは疲れを感じない存在だ。
だが、ここは地球に近い場所。
お腹が空き、体が重くなり、眠くなる――人間に近い感覚が、確かにある。
「ぐぅ……」
その証拠のように、お腹が小さく鳴った。
「……行こっと」
リリは身支度を整え、レストランへ向かった。
「おはよう」
軽やかな声が迎える。
「おはようございます!」
いつもの、元気いっぱいの返事。
カウンターの向こうで、オルフェンが手際よく朝食を用意していた。
「はい。今日はサンドイッチとホットミルクだ」
「ありがとう」
リリは嬉しそうに受け取る。
「昨日は疲れただろう」
「うん、少し……でも平気です。すっごく楽しかった」
パンをかじりながら、リリは目を輝かせた。
「野球場に行って、点が入って、勝ったんです」
「それは良かった」
オルフェンは穏やかに微笑んだ。
細かく聞かずとも、だいたいのことは察している。
「オルフェン。今日のバスはどこに行くの?」
「今日も日本だ。今月はずっと日本になる」
少し間を置いて、尋ねる。
「……嫌か?」
「全然!」
即答だった。
「逆に、あの人たちに、もう一度会いたいです」
「そうか」
オルフェンは小さく頷いた。
「それはリリ次第だな。バスは十時に来る。気をつけて行くんだ」
「はい。ごちそうさまでした。行ってきます!」
元気よく手を振り、リリはレストランを後にした。
――思ったより、順調だな。
オルフェンはその背中を見送りながら、胸の内でそう呟いた。
リリはもう迷わなかった。
バス停のベンチに腰を下ろし、足をぷらぷらと揺らしながら、静かに待つ。
やがて、音もなく空からバスが降りてきた。
「来た」
立ち上がり、迷いなく乗り込む。
今日も、誰もいないバス。
それでも、リリの胸は不思議と軽かった。
新しい一日が、また始まる。
「あの人たちに、また会えますように」
リリは胸の前で手を組み、小さく祈った。
しばらくして、ふわりとした浮遊感が消え、バスは静かに地面へと降り立った。
「……え?」
目の前に広がっていたのは、かつて降り立った都会の野球場とはまるで違う景色だった。
見渡す限りの緑。山、山、そしてまた山。細い道が一本、うねるように続いているだけだ。
人の気配はなく、聞こえるのは鳥の声と風の音だけ。
「ここが……田舎、なのかな」
リリは辺りを見回した。
野球場よりずっと広い空間なのに、なぜかぽつんと一人きりのような気がした。
「私の魔法……効かなかったのかな」
ぽつりと呟く。
魔法は万能ではない。どんなに熟練した魔法使いでも、効かないことはある。
でも、なぜ効かなかったのか——リリには理由が分からなかった。




