第2話
そのときだった。
音もなく、空気が揺れる。
見上げると、バスらしき乗り物が、ゆっくりと広場に降りてくる。
「わあ……」
四十人は乗れそうな大きなバス。
けれど、乗るのは――どうやら、リリ一人だけらしい。
「……ちょっと、寂しいな」
せめて、オルフェンが一緒ならよかったのに。
そんなことを考えて、胸の奥が少しだけ、きゅっとした。
バスは静かに停まり、扉が開く。
中をのぞいても、運転手の姿はなかった。
でも、リリにとっては不思議でも何でもない。
魔法学校に通っていたころも、バスはいつも勝手に迎えに来ていた。
ただ、そのときは――隣に、たくさんの友だちがいた。
「……あ」
リリはふと気づく。
「誰か誘ってくるの、忘れた」
小さく呟きながら、バスに乗り込む。
一人きりの座席は、やけに広く感じられた。
扉が閉まり、バスはふわりと浮き上がる。
音もなく、空を滑るように進み始めた。
雲の中へ入る。
「わ……これが雲……」
白くて、柔らかそうで、でも触れられない。
リリは魔法手帳を開きながら、ひとつひとつ確認していく。
すべて、手帳頼みだった。
やがてバスは、雲を抜け、どんどん下へ降りていく。
最初に目に飛び込んできたのは、青と緑。
「ふんふん……あれが山で……あれが海」
指でなぞるように、世界を覚えていく。
さらに進むと、たくさんのビルや建物が見えてきた。
その間を縫うように進み、最後にバスが降り立ったのは――
高い壁に囲まれた、緑色の葉っぱに包まれた場所だった。
扉が開く。
「ふんふん……ここは……野球場」
リリが「ふんふん」と言うときは、魔法手帳を読んでいるときだ。
どうやら、都会の真ん中にある野球場に降りたらしい。
振り返ると、バスはもう空へと飛び立っていた。
「……あ」
周囲を見回すが、出口らしきものは見当たらない。
そのとき、緑の壁が静かに開いた。
人間らしき存在が、何人か、何かを話しながら出てくる。
リリは、その場で立ち止まった。
そして――
ここで、初めて魔法を使う。
「……話せますように」
小さく、けれど真剣に。
リリは、そう願った。
「あれ? 女の子がいるぞ。誰かの彼女か?」
「えっ? あんなかわいい子、彼女なわけないだろ。
それに……変なコスチューム着てるし」
ひそひそと交わされる声に、リリの胸がぎゅっと縮こまった。
初めての人間との接触。
魔法学校では何度も“人間との会話”を習ったはずなのに、頭の中は真っ白だった。
(だ、大丈夫。頑張れ、リリ……!)
自分にそう言い聞かせ、勇気を振り絞る。
「い、いい天気ですね」
それが精一杯だった。
少し遅れて、年配の男性がやって来た。
帽子をかぶり、腕を組んでリリを見下ろす。
「監督。こんな子、呼びました?」
「いや? コスチューム着てるし、相手チームの応援じゃないか?」
そう言って、男はリリに向き直った。
「そうだろ?」
突然振られた言葉に、リリは反射的にうなずいてしまった。
「は、はい」
「だろうな。こんな弱小チーム、わざわざ応援に来るわけないよ。はははは」
人間たちは笑っていた。
リリはその意味を半分も理解できていなかったが、とりあえず笑顔を作った。
「ここは野球をする場所だ。ベンチに行ってな」
そう言われ、指差された方へ向かう。
リリはベンチに腰を下ろし、こっそり魔法手帳を開いた。
(ふんふん……なるほど)
絵と文字を追いながら、必死に理解しようとする。
(人間は……一、二、三、四……十人?
これで野球をするんだ)
そう思った矢先、反対側のベンチから次々と人が現れた。
一人、二人……
十人どころではない。
(えっ……?)
数えるのを諦めたころ、ふと気づく。
(あれ? 私と同じような人たち……)
そうだ。
人間には男と女がいる。
(こっちが男で……こっちが女……)
理解しかけたとき、最初に話しかけてきた男が近づいてきた。
「ごめんごめん。君のチーム、あっちのベンチだった」
指差された先は、反対側。
「君はあっちだよ」
リリは即座に首を振った。
「私、こっちがいい」
「……え? 君、誰?」
「こっちがいい」
短く、でもはっきり言った。
すると、監督らしき男が歩み寄り、困ったように笑った。
「まあ、いいじゃないか。
こっちがいいって言うんだから」
相手チームをちらりと見て続ける。
「向こうは三十人に、女の子が十人もいる。
こっちは一人くらいいてもいいだろ」
(えっ……そんなに?)
リリは驚いた。
(それじゃ……勝てっこない)
なぜか胸がきゅっとして、
このチームを応援したい気持ちが湧き上がってきた。
試合が始まった。
ルールはよく分からない。
でも、球が飛び、走り、声が響く。
「……すごい」
自然と声が漏れた。
「よく分からないけど……面白いし、楽しい」
点が入るたび、リリは思わず立ち上がって喜んだ。
どちらのチームかは、まだ区別がついていなかったが。
「監督。あの子、やっぱりスパイですよ」
「向こうの点が入るたび、喜んでます」
「……そうだな」
監督は顎に手を当て、少し考える。
「野球のことが分かってないんだろう。
それより――」
選手たちを見回し、声を張った。
「おまえたちも点を取れ!
あの子に、喜んでもらえるようにな!」
二回の時点で、七対〇。
(ふんふん……)
リリは魔法手帳を閉じた。
(どうやら……こっちのチーム、負けてるみたい)
ぎゅっと拳を握る。
(よし……)
小さく、誰にも聞こえない声で祈った。
「このチームが……勝ちますように」
――カキーン。
乾いた音が球場に響いた。
それは、弱小チーム
ナインスターズにとって、久しぶりの快音だった。
だが、それで終わらなかった。
ヒット。
ヒット。
得点。
流れが変わり、五回には七対七。
同点。
相手チームも、ナインスターズ自身も、呆然としていた。
監督は帽子を押さえ、首をひねる。
「……こんなに強かったかな。ははは」
笑いながら、
どこか納得できない表情を浮かべていた。
リリは、ただ嬉しくて手を叩いていた。
試合が進むにつれ、相手チームの応援席から聞こえていた黄色い声は、いつしかため息へと変わっていった。
誰の目にも明らかだった。
ナインスターズが、完全に流れに乗っている。
勢いは最後まで止まらず、試合は十二対七。
ナインスターズの勝利で幕を閉じた。




