第12話
リリの胸の奥に、ぽっと灯がともる。
消えかけていた小さな火が、静かに燃え直す。
「やっぱり……地球に行かなくちゃ」
怖いけれど。
悲しいものを見るかもしれないけれど。
それでも。
「神様を信じて」
そう呟いたとき、窓の外に、ようやく雲が流れ始めた。
四十三階。
リリは、確かに一歩、上がっていた。
部屋の窓が、不意にガタガタと震えた。
リリはベッドに腰かけたまま顔を上げる。
塔の四十三階。
雲より高いその場所で、風の音がするはずもない。
「……あれ?」
窓の向こうに、影があった。
ゆっくりと近づいてくるそれは、見慣れた形をしている。
「バス……?」
いつものバスが、空中に浮かび、四十三階の窓に横付けしていた。
次の瞬間、静かにドアが開く。
誰もいない。
けれど、明らかに“招かれている”。
「えっ……乗りなさいってこと?」
小さく呟くと、応えるようにクラクションが鳴った。
それは地球のそれとは違う。
柔らかく、あたたかく、まるで言葉のように響く音。
――大丈夫だよ。
そう聞こえた気がした。
リリは胸に手を当てた。
バスさんが迎えに来てくれた。
なら、行かなきゃ。
きっと――真実を知りなさいってことだ。
窓を開ける。
高い。けれど、怖くはなかった。
リリは勇気を出して、ふわりと跳び乗る。
ドアが静かに閉まり、バスはゆっくりと下降を始めた。
バス停から乗ったわけじゃない。
行き先もわからない。
それでも――
「神様を信じよう。」
その声は、前よりも強かった。
あのとき出会った野球選手たちのように。
ほんの少し背中を押されたことで、自分の力で立ち上がった彼らのように。
バスは雲を抜け、静かに地球へと降りていく。
やがて、あたりは暗くなってきた。
「……夜?」
リリは初めて、地球の夜を迎えた。
バスは森の中へと降り立つ。
木々の間に、ぽつりぽつりと家の灯りが見える。
その奥に、湖があった。
家々の明かりを映して、黒い水面が静かに揺れている。
バスは音もなく地面に着いた。
ドアが開き、リリはそっと降りる。
振り返った瞬間、バスはすでに空へ溶けるように消えていた。
しん、とした夜。
リリは顔を上げる。
その瞬間、息を呑んだ。
満天の星空。
数えきれない光が、夜の空いっぱいに広がっている。
「……うわあ。」
声が、自然とこぼれた。
「なにこれ……綺麗。」
宇宙で何度も見てきた星たち。
けれど、こんなふうに見えたことはなかった。
遠くて、静かで、でもどこかあたたかい。
「私の知ってる星々は……地球だと、こんなふうに見えるんだ。」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
何気なく見ていた星たちを、
人間はこんな思いで見上げていたのか。
祈るように。
願うように。
希望を託すように。
リリは空に吸い込まれそうな気がした。
「やっぱり……神様はすごい。」
その声は、もう迷っていなかった。
しばらく、リリは立ち尽くす。
夜の静けさの中で、
ただ、星を見上げながら。
――真実は、きっと、この星のどこかにある。
リリは湖のほとりに立ち尽くし、夜空を見上げていた。
無数の星が、黒い天幕に散りばめられている。
見慣れていたはずの星々が、地上からはこんなにも近く、柔らかく見えるのだと、彼女は初めて知った。
そのときだった。
目の前の家の扉が、ぎい、と静かに開いた。
「薪が崩れてないか見てくる。」
低く落ち着いた声。
背の高い、髭をたくわえた男が外へ出てきた。
リリは驚かなかった。
どんな言語も理解できる彼女には、その言葉の意味が自然に胸へ届いた。日本語ではない。けれど、どこか懐かしい響きがあった。
男はリリに気づいた瞬間、はっと息をのんだ。
数歩後ずさりし、その場に腰を落とす。
「ヤハの使いの方ですか……? もうクリスを迎えに来られたのですか?」
リリは瞬きをした。
「ヤハ……? 迎え……?」
意味がつかめない。
「違うのですか? 以前、白い衣の方を見たのです。」
男の視線が、リリの白いダウンジャケットへ向けられる。
「あ、これですか? これはフィンに無理やり着せられたんです。私は……魔法使いの学校に通っている、リリです。」
男はゆっくり息を吐いた。
「……使いの方ではないのですね。」
その表情に、安堵がにじむ。
そのとき、再び扉が開いた。
「お父さん、何してるの?」
小さな子どもの声。
男は振り返り、優しく答えた。
「このお姉さんが道に迷ったみたいでな。よかったら、これから食事なんで、食べていってください。」
男はリリをまっすぐ見つめた。
ただの迷子ではない、と感じ取っているようだった。
リリは胸の奥で、小さく頷いた。
――何が起きても、神様を信じよう。
そう決めている。
「お邪魔します。」
家の中に入ると、あたたかな空気と共に、シチューの香りが広がった。
ぐぅ……。
お腹が鳴る。
リリははっとした。
今日はレストランに行っていないことを思い出す。
奥から女性が現れた。柔らかな笑顔をたたえている。
「さあ、どうぞ召し上がってください。」
テーブルに並べられたのは、湯気を立てるシチューと、焼きたてのパン。
「わあ……いただきます!」
リリは夢中で食べた。
優しい味だった。
星空とはまた違う、地上のぬくもりがあった。
男はオラフ、女性はミリアと名乗った。
子どもはクリス。五歳。
透き通るような瞳を持つ、不思議な静けさのある少年だった。
食事をしながら、二人は語った。
自分たちの神は「ヤハ」と呼ばれていること。
その使いが現れ、この子が大きくなったとき旅立つと言われたこと。
そして、その使いが白い衣をまとっていたこと。
リリは静かに呟いた。
「ヤハ……。」
なぜか、胸の奥が温かくなる。
懐かしい。
理由は分からないのに。
やがて、リリは思っていたことをそのまま口にした。
「その神様……私の知っている神様と同じです。父親みたいにすごく優しくて、人間が大好きで、いろんなものを作ったんです。あの星も。」
窓の外、夜空が広がっている。
「でも……」
リリは言葉を続けた。
「人間は優しい人もたくさんいます。オラフさんたちもそうです。でも、争いをして、傷つけ合って、死んでしまうこともある。どうしてそうなったのか、私は知りたいんです。」
オラフとミリアは、黙って頷いた。
真剣な眼差しで。
そしてクリスは、何も言わずにリリを見つめていた。
まるで、ずっと前から知っていたかのように。
夜は、静かに更けていった。
星は変わらず、瞬いていた。




