第4話:悪魔の循環
崖から身を投げたのは、男だったのか。それとも自分だったのか。
視界が上下逆さまになり、叩きつけられる衝撃とともに、青年の脳内に「忘れていたはずの痛み」が洪水のように一気に流れ込んでくる。
――あぁ。
売ったはずの記憶。空腹の惨めさ。いじめられた屈辱。少女の飛び降りを笑いながら見ていた時の、心の奥底で腐っていた良心の呵責。青年の目の前でそれらがまるで一つの巨大な怪物の姿になり襲いかかってくる。
怪物が消えた後、血だまりの中で青年は静かに横たわっていた。そばにあったはずの動かなくなった男の体はいつの間にか消えている。
ここにはただ一人、致命傷を負って死に行く自分だけしかいない
「な……ぜだ……」
自分の死に抗おうとしている青年の顔を悪魔が覗き込む。その闇の奥にはかつて見たことのない「憐れみ」の色を帯びていた。
『君は、あまりにも多くの不幸を売りすぎた。自分の魂さえも切り売りして、空っぽの器になった。その空いた穴を埋めていたのは、私が与えた「贅沢という名の幻」だけだったのだよ』
青年は悟った。ターゲットにしていた「冴えない男」は、青年自身だった。不幸を食い物にし続け、他人の絶望を効率的に集めるために「自分を不幸にする仕組み」を作り上げた結果、彼は自分自身をターゲットにするという決してたどり着いてはいけない極致に至ったのだ。
幸せになるために不幸を売り、不幸を売るために自らを不幸にする。その矛盾の結果が今の彼の姿なのだ。
『ありがとう。君のおかげで、私はようやくこの忌々しい「悪魔」という役目から解放される』
悪魔の黒いマントが剥がれ落ちる。中から現れたのは、かつてどこかで見たような、冴えない中年男の姿だった。彼は深呼吸をし、懐かしそうに自分の手を見つめた。
「人間として死ねる……いや、やり直せるのか。次は君の番だ、青年」
悪魔だった男は、透明な黒水晶の指先を青年に差し出した。
「君も僕と同じように、人間から不幸を買い取るんだ。そして、いつか君以上に『自分自身を追い詰めるほど強欲な誰か』を見つけ出し、バトンを渡せばいい。そうすれば、君もいつか……人間に戻れるかもしれない」
青年の意識が、急速に凍りついていく。
肉体の痛みは消え、代わりに内側から冷たい、無機質な何かが溢れ出してくる。 手が、足が、黒い水晶のように透き通り、骨のような硬質感を持って変質していく。
視界は闇に包まれ、しかし世界中の「澱み」だけが鮮明に見えるようになった。
誰かのすすり泣き。誰かの呪詛。それらが、甘美なご馳走の香りのように鼻をくすぐる。
「……ああ」
青年は、あるいは「かつて青年と呼ばれたもの」は、音もなく立ち上がった。その姿は、黒い霧を纏った骸骨のようであり、透明な黒水晶のようでもあった。
夜の街を見下ろす。あちこちに、絶望の種を抱えた人間たちがいる。かつての自分と同じように、何者にもなれず、ただ世界を呪っている、さえない若者たちが。
彼は、新しいマントを翻し、一人の若者の背後に降り立った。窓の外、結露したガラスの向こう側。若者は、安物のカップ麺を前に、死ぬ勇気もなく立ち尽くしている。
青年は、頭蓋の中に響く、低く滑らかな声でささやいた。
「……そんなに嫌いか? この世界が」
物語は、円環のように再び動き出す。 次の絶望を、買い取るために。
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エピローグ
数年後 その街では、不可解な自殺や失踪が相次いでいたが、不思議と事件性は否定され続けていた。ネットには「不幸を金に変えてくれる黒い影」の都市伝説が蔓延っている。
成功者は語る。「嫌なことを全部忘れたら、運が向いてきたんだ」その背後で、黒い水晶の悪魔が笑っていることなど、誰も知らない。そして悪魔もまた、いつか自分を殺してくれる「最高の不幸」を待ち続けている。自分が人間に戻る、その日のために。




